秋葉原の事件の後に

ブログに書いた文より (6/10、2008)

昨晩は、昔馴染みの友人と二人で、新橋の飲み屋街の奥の方にある、ただの安飲み屋に入って飲んだ。粗末な丸イスに、煎餅座布団に、安っぽいテーブル、豚の内臓の焼き物に、ミャンマー人のおばちゃん給仕、といった場所で、最近よくあるツクリモノっぽい白々しい飲み屋と正反対で、飲んでいて久しぶりにほっとしたよ。

その友人とは、半年に一回ぐらいのペースで飲みに行くのだが、欠かさず飲んでいるせいか、まあ、互いの性根がほぼ既知であり、今さら気を遣うこともなし、相手の放言に怒ることなし、「馬鹿やろう、何言ってやがる」と怒鳴っても支障もなければ、仲が壊れることもない。誠に気楽な関係である。そんな風にリラックスしてみると、普通の社会人を相手には憚れてとてもしゃべれないことも口をついて出てくるのだが、昨日の今日でもあり、僕がしゃべったのは、秋葉原で無差別殺人を起こした若者に同情を禁じえない、ということだった。

いま書いているのは公開のブログなので、こういう発言は注意しなければならないのだが、まず、毎日の訪問者が二十人足らずのブログで過剰に気を使うこともあるまい。それでも公式文章にはこれ以上は書かない。しかし、昨晩は友人相手に放言の嵐だ。

それにしても、何と暗い事件だろうか。まだ、たったの25歳だ、ほとんど子供じゃないか。ひと昔前だったら、この若者、一種のキチガイとして扱われるはずのものではなかろうか。たった今、キチガイとタイプインして変換しようとすると漢字が出てこない、つまり、この言葉は差別用語扱いなのであろう。今では心神喪失だかなんだか、いろんな医学用語で呼ばれるのだろうが、キチガイという分類で済んでいた昔の方が世の中は暖かかった気がする。なぜなら、キチガイには色々な種類があったから。危険で、ぶっそうで、迷惑なキチガイから始まって、音楽キチガイとか、キチガイじみて夢中になるヤツがいたり、恋するあまりキチガイみたいになったり、実に広範囲に使われる言葉であったはず。

しかし、心神喪失などという取り付く島の無い用語になると、そんなレッテルを貼られたやつは、もう精神病院以外のどこにも行くところがなくなる。キチガイが事件を起こしたとして、それを聞いたみんなが「あいつはキチガイだ」と言って済ませていたときは、その当人はまだ我々社会から追放される身にはなっていない。しかし、それを「あいつは心神喪失だ」と言ったとたん、われわれ社会から隔離されるべき存在として分類されることになる。社会は、この得体の知れない、危険な、一般人に危害を加える人間を自然と追放するメカニズムのようなものを、社会通念の中に育てているように見える。

死刑の問題も、やはりこういう公式の場では赤裸々には言いたくないので言わないが、ここ日本では犯罪率が着実に下がっているのに死刑囚が逆に増えている事実はさすがにおかしい、と思った方がいいと思う。あの25歳の若者は、今はテレビやらなにやらに映って、動いているかもしれないが、今の日本では、彼はもう死ぬことが確定している、そんな風景を我々は見ているわけだ。

彼はもう我々と同じ人間ではない。完全に社会から追放され抹殺された人間だ。あの若者が発していた断片的な言葉によれば、すでに事件を起こす前から、自分は追放され抹殺されている存在だと思い込んでいたらしい。しかし、その時点では、まだ社会の一員だ。自分が自分らしくすればするほど、人が離れてゆくような想念に囚われた心を病んだただの若者だ。自分が掲示板に何かを書き込むだけで、ネットごしの向こうにいる匿名の人々は、様々に反応する。きっと、自分の書き込む言葉の口調ひとつで、それら匿名人たちの反応が様々に変化する様子を観察していたのだろう。ある人は、同情し、話を聞こうと優しい言葉をかけ、ある人は無視し、ある人は間違いを諭そうとし、ある人は侮蔑の言葉を吐き、ある人はおまえの性格が悪いせいだ死ね、と言う。匿名人たちは、相手が、その彼らの属している社会のまだ一員であるうちは様々に反応する。

しかし、いったん、その社会から追放されるに値するような悪事をしでかしてしまったときは一変して、普段は色とりどりのカムフラージュの下に隠れている残酷な団結心のようなものが現れて、匿名の人たちは突然それ一色に染まってしまい、一致団結して、その危険な異端児を排除する側に回る。そんな光景を、僕たちはネット上で嫌というほど見せられている。

この若者は、考える。よし、それでは貴様らの社会に金輪際属さない人間として振る舞ってやる、そうすれば、どうせお前らは一人残らず俺の敵になり、俺を追放し、抹殺することに全力を上げるだろう。一人残らずだ。俺を哀れんでくれる人間は社会には結局一人もいなかったことを、自分で証明してやる。匿名の人間たちが属しているこの社会は、その匿名性ゆえに自らは全く無傷なまま、その社会から逸脱した異端児を、蔑み、憎んで、寄ってたかって殺すであろうことを、自分で証明してやる。こんな自暴自棄な心がどうしても自分には見えるのだが。もちろん、それがああいう実際の行動になって現れるか否かは、何か別の力が働くはずのものだ。人の心はふつう、怒りや憎しみといった感情をそうそうは長く維持できないように調整されているはずだから。その調整のタガが外れる原因は心の奥深くに隠されているはずで、それは当人にはまったくコントロールできない何者かであるはず。そうであるからは、彼そのものだけを取り出してみれば、不幸な若者であることは間違いないと思う。

どんなひどい悪いことをした悪人でも、せめてこの世に一人ぐらいは哀れんでやる人がいなければいけない、という言葉は、実は色々な宗教で聞かれる言葉だと思うのだが、こういう心が僕たち人間にとってどれだけ大切で、どれだけ貴重なものであるか、もう、今、この現代では、かなりの人間が見失っていると思わざるを得ない。

などなど、昨晩はこんな風にはしゃべらなかったが、言いたいことを言い飛ばして少しはせいせいした。しかし、暗澹たる気持ちはそうそうは収まらない。まあ、はっきりしているのは、こんなたわごとを酔っ払いに聞かされた友人はさぞかし閉口しただろうということぐらいか。もっとも、これはお互いさまだ(笑)



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