四幕目ー1 深川三角屋敷の場

ト書き 本舞台。三間の部屋で、二重の世話屋体。正面はのれん口、鼠色の壁、一つ口の竈、その上には引き窓。上手には、塔婆が混じった生け垣。この奥に、苔の生えた五輪の石塔の頭、塔婆などを見える、墓地のようす。下手には、下座へ続く木を渡した黒塗りの門を取り付け、門口から軒のつらへさおを渡し、前幕での佛小平の着物が干してある。門口の、醤油樽にシキミの花を入れ、全体に、深川三角屋敷、法乗院前のようす。ここに、但馬屋の手代、庄七が古着屋として、風呂敷包みを持ち、米屋の若い衆の長蔵が、米を入れた袋を持ち、煙草をのんでいる。門口には、子役の、小平の倅の次郎吉がしじみの荷をかついでいる。そのほか端役の若い衆、花を買っている。お袖は、世話女房のかっこうで、山刀を持ち、シキミの根を切り払っている。この情景で、合方、弔いの鳴り物で幕が開く
長蔵
モシ、米を持って参りました
お袖
どうぞ、いつものところへあけておいて下さんせ
長蔵
オット、承知いたしやした
庄七
わしが頼んだ洗濯物は、乾いたかしらん
ト書き 自分の洗濯物をあちこち持ち歩く。長蔵は、押入れを開けて、米びつへ米を入れる
お袖
庄七さん、おまえもせわしない。冬の日にそのように、すぐに、乾くものかいナ。もとのままにしておきなさんせ
庄七
なるほど。どう見ても、ここがいちばん、日当たりがよいってやつさ
ト書き また、元のところへ干しておく
コレコレ、おかみさん、ここにも花を十六文ぶんください
お袖
ハイハイ、ただいまあげますよ
長蔵
モシ、今入れた米の代金は、どうなされやす。待っておりますよ
お袖
どうぞ、もうちょっと待ってくださんせ。おまえには話がござんす
庄七
わしも急に頼みたいことがあって、また来やした。とにかく、ちょっとお目にかかりたいね
お袖
エエ、もう、せわしない。このように手がふさがっているものを。さあ、お持ちなされませ
アイ、銭はそこへ置きましたよ
次郎
おばさま、しじみを買ってくだされな
お袖
ホホホホ、いま買ってあげるから、ちょっとの間、そこで遊んでいなさんせ。ほんに可愛らしい。サア、おまえさん、お持ちなされませ
ト書き 端役に花を渡す
ハイハイ。モシ、今日は、ここの法乗院で、弔いがござるかな?
庄七
しかも二つもあるわ。イヤ、珍しい死人を持ち込んだものだな
長蔵
オランダから渡ってきたわけじゃあるまいに、死人に珍しいなどということがあるものか
庄七
コレ、おまえさん、万年橋に流れ着いた、戸板の死骸の噂をまだ聞いてないか
長蔵
その話は聞いたが、アア、それなら今日の仏は、戸板を背負った土左衛門に、女のお土左の弔いかね
庄七
男と女を戸板の両面に釘付けにして、どぶんと川に流すというのは、なるほど、世の中には酷いやつがあるもんさ
お袖
どのような悪いことをして、そのような目にあったことやら。ほんに気持ちの悪い話でござんすな
そりゃあ、きっと、間男の出入りでござんしょうね
長蔵
それだからお袖さん、おまえも間男は、マア、しないことだな
庄七
しかし、この庄七となら、かまわぬだろう
長蔵
ふざけんない
あんたさまはその弔いを、見にゆく気はござらぬかな
どうせ寺へ参りますから、行ってみましょう
サアサア、行ってみましょう。そんならおかみさん
お袖
どなたも、参ってお出でなされ
ト書き 弔いの鳴り物になり、端役の両人、下座へ入る
庄七
ところでお袖さん。頼みというのは外でもないが、どうぞまたこの着物を、ざっとすすぎ出してもらいたくてね
ト書き 風呂敷包みより、お岩の死骸が着ていた着物を出す
お袖
もう日暮れじゃし、洗うといっても、乾くものじゃござんせんぞ
ト書き 着物を手にとって、思い入れあって
 
この着物はどうも見覚えのある。たしかこりゃ、私の姉さんの。モシ、庄七さん、こりゃおまえ、どこから買って来やしゃんした
庄七
こりゃア、なにさ。あそこに干してある着物と一緒に戸板の土左衛門に着せてあった
長蔵
ハハア、そんならお得意の死に装束かい
お袖
エエ? なんじゃら、気味の悪い
ト書き そこに置く
庄七
コレコレ、なあに、そんなものじゃないわな。コレ、おまえ、野暮なことを言うものだ。たとえ死に装束だといって、門前住まいをして花を売るおかみさんのおまえ、それを嫌ってなるものかな。なるほどおまえも、まだまだ商売気がないナ
お袖
それじゃと言って、わたしゃ、そのようなものなら、ご免じゃわいなア。だけど、モシ、おまえ、この着物、どこから買って来やしゃんした?
ト書き 知りたがる思い入れ
庄七
そりゃア、なにさ。おいらの店への質流れだが、あんまり汚れているから、ざっと洗ってもらって、セリにでも出そうと思ってさ
長蔵
いい加減にしろい。みすみす知れた土左衛門の着物を
庄七
コレサ、胸糞の悪いことを言うなよ。お袖さん、この男の言うことを、決して信じちゃいけないよ。何で俺が死に装束まで、買って歩くものか。それほど欲張りはしねえわさ
長蔵
あんまり欲張らないこともあるめえ
庄七
なるほど、嫌なことを言う男だ
ト書き 門口に立ち、たらいの中へ、この着物を入れ
 
こうして置くから、どうぞお頼み申しやす
長蔵
ほんに、嫌なことと言えばお袖さん。米の代金はどうしてくんなさる。だいたいが、置き換えのつもりだから、前のものの払いが済まないうちは、入れるんじゃなかったが、おまえがたびたびそう言うから、米を持っては来たが、いますぐにお代を払って下さいまし
お袖
サア、それはもっともでござんすが、うちの人が帰りましたら、すぐに金を払いますから、もうちょっと待って下さんせ
長蔵
それは迷惑なものだ
ト書き この間、次郎吉は、シキミの花を持ち、ままごとをして遊んでいるのを、庄七が見つけ
庄七
この子は小佛小平どのの子だが、ハハア、しじみを売りに来て、遊んでいるな?
長蔵
よしよし、おいらがおまえの家へ行って、あのバアさんに、言いつけてやるぞ
次郎
それでは、わしが、叩かれます。いやじゃ、いやじゃ
ト書き 泣くのを、お袖、駆け寄って
お袖
おまえさん方もかわいそうに、そのようなことを言って、この子を泣かしてからに
庄七
ハハハハハ、そんならどうぞお頼み申しやす
長蔵
モシ、親方には、後ほど代金を届けると言っておきますぞえ
お袖
アイ。ほんに、憎らしいおじちゃんたちじゃのう
ト書き 佃節、木魚の音になり、両人、向こうへ入る。お袖、次郎吉の顔を拭いてやる
次郎
おばさま、しじみ買ってくだされ
お袖
商いをしようとさっきから、ここで遊んでいたおまえのそれ、買ってやりたいが、今日は命日の仏の日じゃによって
ト書き 銭を取ってきて
 
しじみはいらぬから、これを持ってゆきなさんせ
ト書き 次郎吉に銭をやる
次郎
イエイエ、しじみを買って下さらねば、銭は取りませぬ
お袖
ホホホホホ、ほんに正直な、えらい子じゃな。コレ、そう思うなら、こうしなさんせ。わたしに売るだけ、そのしじみ、川へはなして下さんせ。それでよかろう?
次郎
アイ、アイ、そんなら、アノ、川へ、逃してやりましょう
お袖
オオ、そうして下さんせ。おまえは利口な子じゃナ
─── ◆ ───
ト書き 思い入れ。木魚の音、合方にて、下座の門から、孫兵衛が老いた格好にて出てきて、次郎吉を見て
孫兵
わりゃあ次郎吉。また今日も、しじみ売りに出おったか。アア、まだ何も知らずに、また生き物を
ト書き 干してある着物に目をつけて
 
あそこに干してある着物は、倅の死骸に
お袖
エエ?
孫兵
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ
次郎
じじさま、今日はしじみが売れぬゆえ、ばばさまに、晩にまた叩かれるわいナ
孫兵
オオ、かわいそうに、年端もゆかぬ孫に、このような商いをさせて、これ、心配するな。じじが銭をやろう。これを今日の売上だと、あの鬼婆あのやつに見せてやれ
ト書き 懐より、小銭を出して、次郎吉にやる
次郎
あのおばさまにも、タダで銭をもらった
孫兵
そんならなんだって、ここの家のおばさまにも、タダ銭もらったと言うのか
ト書き この間、お袖、お茶をくんでくる
お袖
それじゃ、おまえさんはこのお子の、おじじさんかいなァ。ママ、お茶を一杯お上がりなさんせ。モシ、こちらへお入りなさいませ
孫兵
これはこれは、手渡しで結構でございます。ほんに、孫めに銭を下されたそうでござりますな。かたじけのうございます。なぜまた、しじみを取ってくれませんので?
お袖
今日は大事な仏さまの百ヶ日じゃによって、そのせいなのでござんすが、ほんに、可愛いらしい子でござんすわいナ
孫兵
でもマア、お若いのにお優しい。それに引きかえ、聞いて下さりませ。この孫の婆あはわしの後妻でござるが、それはそれは邪見なやつ。ちょっと商いが少ないと、年端もゆかぬこの坊主を、ぶったりつねったり、それを見るのが不憫でござるわいの
お袖
それはマァ可哀想に。そのお婆さまの代わりにおまえ、可愛がってあげなさんせ。シテ、おまえさまは、この近所でござんすか?
孫兵
アイ、このニ、三丁先でござるが、おまえさんは、さいきん、ここへ越してござった様子でござるの
お袖
わたしもいろいろ不幸せなことがござんして、先月、ここへ参りまして、このように香花を売ったり、すすぎ洗濯。苦しい暮らしをして、お恥ずかししゅうござんすわいナ
孫兵
どうして、それ恥ずかしゅうござろうか。コレ、苦しい暮らしと言えば、この子の母親のことを聞いて下され。それはそれはかいがいしい生まれ、まだだいぶ若い身の上で、正月のなづ菜からはじめて、よめ菜、たんぽぽ、ほうれんそう、または枝豆、ゆで玉子、ありとあらゆる出商い。その生活の苦労の中で、舅のわしらをば、よく孝行してくれまするて
お袖
それはマア、気の毒なお方でござんすな。そんならこの子の親御さんたちは、夫婦養子とやらでござりますかえ?
孫兵
イエイエ、倅は、わしにとっては血を分けた
ト書き 干してある着物に目を付け、しぐさ
お袖
それでは頼もしゅうござんしょう。モシ、決して心細く思いますなよ。コレ、ナァ、ととさんが、もう、待っていなさるだろうから、商いは止めて、じじさんと帰って、なにかよいものを、ととさんに買ってもらいなしゃんせ
次郎
コレ、じじさま、ととさまに、よいものを買ってもらってくだされや
ト書き これを聞き、孫兵衛、たまりかね
孫兵
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ
ト書き 花道の方へ行きかかる
お袖
モシ、ナァ、おまえさまもマアなんとなく、心細いご様子。かわいそうに。この子も一緒に連れてゆかんしゃんせいナア
孫兵
アイアイ、ほんに歳を取ると、何かにつけて涙もろくなって。サア、次郎吉、じじと一緒においで。これは大そうご厄介になりました
お袖
もし、また寺参りのついでに、必ずお寄りくださいませな
孫兵
ほんになァ、袖振り合うも他生の縁とやら。倅の死骸の着物があのように
お袖
エ?
孫兵
もう、洗濯もの、取り入れなされ
ト書き 歌になり、日没の鐘が鳴り、孫兵衛、次郎吉を連れて、向こうへ入る。お袖、残り、思い入れあって
お袖
ほんに、あのお人も歳取って、なんじゃら、たいそう心配事のあるようす。とかく苦労の娑婆世界。待たぬ月日は早いもの。今日は義理あるととさん、許嫁の夫の与茂七どのの百ヶ日。同じ場所にて同じ日に、親と夫を非業の刃に失うということは、よくよく因果な私の身の上。まだその上に、枕こそ交わさぬものの、今は権兵衛どのを夫に持っているのも、何とかお二人の仇討ちのため。モシ、堪忍してくださりませ。アア、もう、日が暮れるに、庄七さまに頼まれた洗濯もの
ト書き 門口のたらいを取って来て、手桶の水を入れ
 
これはこうしておいて、明日の朝にしましょう
ト書き 竿にかけてある着物を、さぐってみて
 
この着物はまだ少し乾かぬ。これはもうちょっとこうしておいて、どりゃ、仏さまに明かりを点けようかいなア
ト書き 四つ竹節の合方、木魚の音。お袖は、仏壇へ明かりをつけ、行燈を灯す。このとき、上手の、生垣の奥の墓地へ、白張りの提灯に灯りをつけて立てる
─── ◆ ───
 
この鳴り物をかりて、向こうより直助、前幕の役で、川魚を捕る道具を三つ四つ下げて、出てきて、門口にて
直助
コレ、日が暮れかかったのに、洗濯物が取り込まずにあるナ
ト書き うちへ入る
 
なんだ、このたらいの中にも、洗濯物があるな。イヤ、たいそう稼ぐじゃないか。それに引きかえ、おらァ、今日は仕事にあぶれてしまった
お袖
あぶれたとは?
直助
隠亡堀へ、三つ、四つ、道具を伏せておいたのに、ほんの小さいのすらお目にかからねえ
お袖
そのようなこともよござんしょう。もう、あまり、生き物の命を取ることは、よして下さんせ
直助
馬鹿なことを言うぞ。鰻かきが殺生を止めては、貧乏で飯が食えなくなってしまうワ。ヨウ、食えないといえば、米はどうした
お袖
さっき、持ってくることは来たけれど、お代は後にと言っていたぞえ
直助
それ見たことか。さっそくお差し支えだ。そうか、たった一枚のどてらは、大家の立て続けの催促で飛んで行ってしまったし
ト書き 思い入れあって
 
オット、あるぞあるぞ。お天道さまは見捨ててないぞ。いつだか、こういう物を拾った
ト書き 煙草入れの中から、前幕で拾った櫛を出し
 
コレ、お袖、この櫛でいくらぐらい、貸すだろうな
ト書き お袖、何気なくこれを取って、思い入れあって
お袖
コレ、この櫛は、どこで拾わしゃんした?
直助
二、三日前に、猿子橋の下で、鰻かきに引っかかって上がったんだが、おめえ、見覚えでもあるのか
お袖
あるどころじゃないわナ。この櫛は、わたしの姉のお岩さんが、かかさんの形見じゃと言うて、とても大事にしていなさった櫛じゃござんせんか。ゆくゆくはわたしに譲って下さんす約束。それがどうして川の中に。それにまた不思議なのは、あの庄七さまが洗ってくれ、と頼んだこの着物。姉さんが夏に着ていなさった単衣ものと、寸分たがわぬ
直助
コレコレ。てめえも馬鹿なことを言うものだ。着物の模様や櫛の形は、世間には同じものはいくらでもあるワ
お袖
イエイエ、着物はともかくも、この櫛ばかりは、それに違いはござんせん
直助
それはそれにしておいて、俺に銭の工面ができたら、受けとっててめえにやるから、ちょっとこの櫛を質に入れて、米屋の払いを
お袖
イエイエ、どうぞそればかりは、堪忍して下さんせ。姉さんが大事に挿したその櫛。私わたしが見付けたからには、どうしてもそのようなことはさせませぬ。コリャ、明日、お隣のおじさんにでも頼んで四谷まで、届けねばならぬわいナ
直助
コレサ、てめえ、もらう約束の櫛だと言うではないか。そんならそのような無駄なことをせずとも、すぐにてめえの物にしておくのがいいではないか
お袖
イエイエ、実の兄弟なら、そのようなことにしても大事ござんすまいが、義理のある姉さんの櫛、このままにしておいては、わたしの心が
直助
なるほど、てめえも馬鹿に律儀な。その心意気だから、今どきの女には似合わず、死んだ亭主に義理を立てて、こうして一緒にいても夫婦というのはほんの名ばかり、コレ、おらァ、毎晩、変な心持ちだ
お袖
エエ、おまえもわたしの願いが叶うまでは、そうする約束じゃござんせんか。それを承知でありながら、またしてもまたしても、そのようなことを言って
直助
オット、あやまった。のろい奴ですが、どうとなりとそなたの御意しだい
ト書き 思い入れあって
 
ときに大奥さま、わたくしめははなはだ空腹。どうぞ夕飯を一膳、お願い申しやす
お袖
ホホホホホ、なにをふざけて。ほんに、まだ夕まま前でござんすか。そんなら、おまんまを持ってくるから、必ずその櫛は、どこへもやって下さんすなよ
直助
ハイ、かしこまりたてまつりました
お袖
エエ、まったくなにを言って。ホホホ、どりゃ夕ままの、支度をしようかいナ
ト書き 凄い合方、一つ鐘が鳴り、お袖、気を変えて、のれん口へ入る。直助、思い入れあって
直助
ヘヘヘヘヘ、姉の櫛であろうが、お袋の足袋であろうが、俺の手に渡ったからには安穏にしておくものか。こいつは質にやるより、いっそのこと大家のかみさんをだまくらかして、叩き売ってしまうわ。それにしても、女というものは、親の形見だの、妹に譲るだのと、大事にするというのは、なるほど、罪の深いものだぞ
ト書き 櫛をひねくりまわしながら、門口を出ようとする。一つ鐘が鳴り、あつらえの合方、薄ドロドロになり、この時分より、行灯と、仏壇の明かりが、明るくなったり暗くなったりする。このとき、たらいの着物の袖の中から、細い手が出て、直助の足をつかむ。アレ? と思って、直助振り返り、この手を見てびっくりして、持った櫛を取り落とす。これにて手はたらいの中に引っ込み、ドロドロが止む。直助、ホッとした思い入れあって
 
ハテナ、今のはたしかに女の手だったが。何にしても、こいつは不思議だわナ
ト書き 合方と共に思い入れ。このとき、のれん口よりお袖、日光膳の上に、粗末な燗徳利とお猪口を乗せ、飯びつといっしょに持ってくる
お袖
サア、夕ままにしようじゃないか
直助
もう膳を持って来たのか。コレ、酒の買ったのはあるか
お袖
アイ、とっておいたわいナ
直助
そんなら熱く、燗をして来てくだせえ
お袖
モシ、それにぬかりがあるものかいナ
ト書き 徳利を見せながら、お袖、そこに落ちている櫛を見つけ、取り上げて
 
あれほど姉さんが大事にしている櫛じゃと言ったのに、このように捨てておかしゃんして。ほんに男というものは。モシ、こりゃ、わたしが預かっておくぞえ
ト書き 直助、思い入れあって
直助
なにも、借りたまま取り上げてしまうわけではあるまいし。明日はすぐに姉のもとへ持たしてやるがよい。もともと、俺の鰻かきに引っかかったからこそてめえの手に渡るというもの。そうでなければ水の底で腐ってしまった代物だ。コレ、ぐずぐずしているうちに、米屋の野郎が来るとうるさいワ。野暮なことを言わずに、貸してくだせえ
お袖
なるほど。思ってみれば、言わしゃんすとおり。おまえが見つけたればこそ姉さんの仕合せ。その上、贅沢するために使うというではなし。貧乏な暮らしの煙の代。姉さん、ちょっとのあいだ、貸して下さんせえ
ト書き 姉より櫛をいただくしぐさあり
 
サア、持ってゆかしゃんせ
直助
そんなら聞きわけて、貸してくれるか
ト書き たらいは二人の真ん中。お袖は上手、下手の直助が、および腰に、お袖から櫛を受け取ろうとする。凄い合方と、また薄ドロドロ。たらいの中から、前と同じ女の手が出て、直助が櫛を持った手首を握る。これを見て直助、またびっくりして
 
アレアレ、またあの細い手が
ト書き ぞっとして、櫛をたらいの中に取り落とし
 
エエイ、気味の悪い
お袖
なにをおまえはそのように大げさな。櫛はどうしたのじゃぞえ
直助
櫛か。櫛はたらいの中へ。ア、そんならてめえは、今のを見なかったか
お袖
そりゃなんのこと?
直助
こいつは、いよいよ、不思議だワ
ト書き 思い入れ
お袖
おまえもマア、何を言わしゃんすやら。そして、櫛はたらいの中に落としたと言わしゃんしたな?
ト書き たらいの中を探してみて
 
よう嘘を言わしゃんす。たらいの中には、何もありもしないのに
直助
ナニ? 無いことがあるものか。たった今、俺が持っていた櫛を、そのたらいの中に引き込んだワ
お袖
エエ、モウ、気味の悪い。そんなら、おまえ、探してみしゃんせ
直助
いやなことだ。モウモウ、あの櫛にかかわり合うのはごめんだ。てめえがよく探してみるがよい
お袖
それじゃと言って、ありもしないものを
ト書き またあちこちを探してみる。やはり一つ鐘が鳴り、以前の合方で、お袖、櫛を探すのに、たらいの中の着物をふるってみて、水を絞る。はじめのうちは水だが、薄ドロドロになり、この絞る水が、自然と真っ赤な血潮に変わってゆく。直助、これを見て
直助
エエエエ、それ、それ、その着物は血だらけだワ
お袖
エエ?
ト書き びっくりして、絞り上げた着物を、たらいの中へ取り落とす。薄ドロドロ、一つ鐘が鳴り、このとたん、たらいの中から、鼠が一匹、櫛をくわえて、飛び出す
直助
それそれ、鼠が櫛を
ト書き そのあとを追いかける。鼠は櫛を仏壇の上に置き、消える。直助、櫛を取り上げ
 
何にしても、今夜はへんちきりんな晩だぞ。コレ、そのたらいの中から、鼠が櫛をくわえて飛び出して、仏壇へ置いていったワ
お袖
そんなら、アノ、その櫛を、鼠が仏壇へ?
直助
コレ、この櫛は、もうおらァいやだ。てめえが挿して、明日早く、姉ごに届けるがいい
ト書き 直助、お袖のつむりに櫛を挿す
お袖
エエ、モシ、そのようなところに挿しては
ト書き 櫛を直そうとして、自分の手を見て
 
エエ、気味の悪い、どうしましょう
直助
いまの血が付いたのだ。どれどれ、俺が洗ってやろう
ト書き 手桶の水で、お袖の手を洗う
お袖
モシ、早うそのたらいを、どこかに片付けておかしゃんせ
直助
おっと合点だ。イヤ、とんだ洗濯物を頼まれたぞ
ト書き たらいを門口の外へ出す
お袖
わたしゃ、もう、怖いには怖いけど、気にかかる。ちょっと、マア、姉さんの身の上にもしものことが
直助
ハテ、ものごとは気にかけると、切りのないものだ。決して案じないほうがよい
お袖
それもそうかいナ。ドレ、そんならわたしは、夜なべ仕事にかかろうかいなァ
ト書き 針箱を出し、河岸上げの肩当ての、針仕事にかかる。直助、それを見て
直助
アア、なんだ、木場の河岸上げの肩当てだな。そいつを作りためて、売るという寸法か。素敵に稼ぐやつだな
─── ◆ ───
 
四ツ竹、木魚の音になり、下手の墓場の門のなかから、宅悦が、頭巾をかぶり、足力の杖をかついで、前の幕のあんまのなりで、笛を吹きながら出てきて、花道の方へ行きかかる。直助、これを聞きつけて
直助
オイ、あんまさん、あんまさん
ト書き 呼ぶ。これで宅悦、花道から引き返し、門口へ来る
宅悦
お呼びなされましたか
直助
おっと、こっちだ。入らっしゃい
宅悦
ハイハイ、ごめんください
ト書き うちへ入り、頭巾を脱ぐ
直助
アア、足力だな。こいつは奇妙だ。そしてあんまさん、おまえ見あきだね
宅悦
さようでござりまする
ト書き 行灯の火かげにて、直助をつくづく見て
 
ヤ、あなたさんは、たしかいつやら浅草で会った、薬売りの藤八どのじゃァないか
直助
道理で聞いたような声だと思ったが、あのときのお灸屋だナ。イヤ、これはとんだ人を呼び込んだ
ト書き お袖、宅悦を見て
お袖
おまえは宅悦さん、どうしてここへ
宅悦
ヤ、おもんさんか。俺はともかく、どうしておまえここに。ハアァ、そんならとうとうこの人を、亭主に持ったのか。イヤ、蓼食う虫も好き好きだぞ
直助
これはご挨拶だな。ときに、おまえさん、まだ、浅草にいるのか
宅悦
ちょっとあのへんに、住みづらい事情があってな、最近までは、四谷の方へ行っていやした
お袖
モシ、四谷はどのへんにいやしゃんした
宅悦
水道町の近所さ。なに、ようやっと一ヶ月ぐらいしかいませぬテ
直助
お坊も、とかく尻が座らない様子だナ
お袖
あんまり色ごとで稼いがしゃんすからのことサ
宅悦
ナニ、稼がしてくれもしないくせに。イヤ、おまえとならば、夜昼寝ずにでも稼ぎたいが。イヤ、このようなことを言って、七両二分の施主になっちゃあならぬ。ハハハハハ。ところで、療治をなされますか
直助
せっかく呼び込んだものを、ただで帰されまい。ざっとやらかしてもらいましょう
お袖
モシ、一服のましゃんせ
ト書き 煙草を吸い付けて渡す
宅悦
おまえの吸付煙草も久しぶりだ。こいつは仕合せが参りましたな。サア、いたしましょう
直助
どうぞ、きつく、頼みやす
ト書き 四つ竹、あつらえの合方になり、宅悦、あれこれ言いながら直助の肩を揉む。お袖、やはり針仕事をしている
宅悦
イヤモシ、いつだったかの裏田んぼの騒動は、まことに珍しい災難な事でござりました。いったいあの一件は
ト書き 言おうとする
直助
アア、かゆい、かゆい! ヨウあんま、思いっきり頭をかいてもらいたい
宅悦
それでもおまえ、まだ昨日あたりに結ったばかりのつむりを。二十八文の出費だナ。おもんさん、ちょっと櫛をお貸しなさい
お袖
そんなら待ちなさんせ。ちょっとツゲの櫛を取って来るので
宅悦
モシモシ、おまえのつぶりに、それが挿してあるではないか
お袖
でも、この櫛でつぶりをかいては、たまらぬわいナ
ト書き 奥へ行こうとするのを、宅悦、櫛を無理やり取って
宅悦
この櫛は、どこかで見たような櫛だが。そうだ、そうだ、イヤ、この櫛について、とんだ話がありますよ
お袖
エ? この櫛について話があるとは、そりゃどのような
宅悦
その櫛はおまえ、どこから買って挿していなさるか知らないが、そりゃ、山の手の四谷町で、民谷伊右衛門という浪人の女房、お岩どのという女の挿していた櫛であったが
直助
コレ、おまえは詳しいことを知っているのか
宅悦
知らないでか。あのへんは、療治場でござりましたから
お袖
モシ、そのお岩さんという女は、どうかなさったのか
宅悦
どうかしたどころか、イヤ、大騒動でござりやした
お袖
エエ? そりゃ、どうしたわけで?
宅悦
モシ、世の中で怖いものというのは、嫉妬深い女と、人切り包丁を挿しているお侍さ。その民谷伊右衛門という侍の、女房のお岩という女は、もとは嫉妬からおこって、亭主に殺されやした
お袖
エエエエ!
直助
お袖、そりゃァマア、大変だぜ
宅悦
ハハア、それならおまえさんがた、ゆかりでもござるかね
直助
ゆかりどころか、そのお岩というのは、このお袖の姉だよ
宅悦
エエ?
ト書き 思い入れ。お袖、宅悦をとらえ
お袖
モシ、そりゃマア、まことのことでござんすか? 本当のことかいナ
宅悦
本当なことは本当だが、わしはまた、そんな縁引きがあるとは知らず、うかうかととんだ話をし出して
お袖
イエイエ、よう言って聞かして下さんした。シテまた、姉さんは何の咎あってそのようなことに
宅悦
サア、わしもその一件に関わり合って・・ イヤイヤ、関わり合ったと言うわけじゃないから、詳しいことは知らないが、手っ取り早く言うと、亭主の伊右衛門どのが女房に嫌気がさして、他の女を情婦にしようとしたのを、少し妬きかけたから、起こった騒動だという話。それからその伊右衛門という人は、気が違ったかヤケになったか、そのほかに二、三人殺して姿をくらましたが、いやもう、思い出すと、ゾッとするほど恐ろしいことが。イヤまったく、そういえば本当にそうだ。さして咎もないお岩どの、それはそれはむごい殺し方。イヤイヤ、この話は止めましょう。なんだか目の前に死骸がちらつくようだ。何にしても、その民谷伊右衛門どのという男は、強悪な侍だ
ト書き 思い入れ。直助、こなし。お袖、思い入れあって
お袖
エエエ、いかに夫の方が上じゃと言って、咎もない姉さんを、そのようにむごたらしく殺すのか。わたしにとっては義理のある姉さんの仇、その伊右衛門どののありかを言って聞かせてくださんせ。モシ、おしえてくださんせ、おしえてくださんせ
ト書き 宅悦を小突き回す
宅悦
コレサコレサ、どうして私がそれを知るものか。こりゃマア、とんでもない話をしてしまって
お袖
イエイエ、どうしてもおまえから、詳しく聞かなくちゃならぬ。サ、姉さんをどのようにむごたらしく殺したのじゃ、サ、もっと言って聞かせて
宅悦
イヤ、わしゃアそんなに詳しくは
ト書き もてあましているしぐさで、だんだんと、門口の方へ行く。お袖、これにつきまとい
お袖
サア、その伊右衛門どののありかを
宅悦
これはまた困った。実は、わしも人づてで聞いた話しなので、なんにしても、お力落としでござります。わしはこれでおいとま申します
お袖
イエイエ、もっと聞きたいことがござんす。どうか言って聞かせて
ト書き 宅悦の袖をつかむ
宅悦
これはどうしたことか、わしは今夜は、大事の出入り場のご隠居を、療治せねばならぬ。マア、ちょっとこれを放して
お袖
イエイエ、詳しく聞かぬうちは、なんぼでも、放すことは
直助
コレお袖、可哀想に。帰してやるがよい。だいたいわけはわかっているワ
宅悦
さようさ。いくらしゃべってもこんなものさ。ヤレヤレ、気の毒な
ト書き 花道の方へ、こそこそと行く
直助
コレ、療治の代金を持ってゆかねえか
宅悦
なるほど、肝心のものを
ト書き 戻ろうとして
 
イヤ、ここがあんまの辛抱どころじゃ
直助
コレコレ、足力の杖もあるよ
宅悦
それもあんまの辛抱どころじゃ
直助
コレサ、道具がなくては、商売ができまいが
宅悦
それもあんまの辛抱ところじゃ
ト書き 四つ竹、木魚入りの合方になり、宅悦、足早に向こうへ入る
─── ◆ ───
ト書き 直助、思い入れあって
直助
これ、お袖、俺も初めて聞いたが、さてさて、とんだことになったナ
ト書き 思い入れ。お袖、途方に暮れた様子で
お袖
思いがけない姉さんの、刃にかかってはかないご最期。そんなこととはつゆ知らず、明日はこの櫛に添えて、文にこまごまと便りをと思っていたのに今の噂。ととさんと姉さんまで、非業にお果てなさんすというのは、モシ、わたしゃ、どうしよう・・
ト書き 泣き伏す。直助、こなしあって
直助
こういう噂を聞く前兆だったか、種々さまざまな不思議なことが。コレ、その櫛も俺が拾ってきて、思わずおまえの手に渡るというのも、死んだ姉ごの一念
お袖
私に届けて下さんしたのか。それほどまでに姉さんの、妹を思って下さんす、形見のこの櫛、今は仇の姉婿の
直助
その伊右衛門も武士の浪人、舅の左門どのの仇敵を打たねばならぬ身であったのに、かえってその身が仇となったからには、コレ。親の仇、姉の仇、と討つべき者はそなた一人。なんと言ってもかよわい女。エエ、コレ、この直助も、おまえとつながる夫婦の縁があるならば、なに仇を安穏にさせておくものか。左門どのもさぞ草葉の陰で、悔しかろう、無念であろう
お袖
いかにかよわい女子じゃとて、なに安穏に仇をそのままに
ト書き 思い入れ
直助
そんならおまえは親の左門、姉のお岩に、夫の与茂七、その三人の仇をば、みごと女の腕一つで討ってみせるというか。しかしその仇討は覚束ない。俺も以前は武士奉公、二人や三人の相手はできる腕っぷしは持ちながら、おまえと赤の他人でいるのでは、酔狂らしく助太刀もできぬが、エエイ、コレ、腕がむずむずするなア
ト書き 思い入れ。合方が変わって、お袖、思い入れあって、燗徳利とお猪口を持って来て、直助のそばに来て、手酌で一口呑んで、直助のまえに置き
お袖
サ、一ツ呑んで下さんせ
直助
これはご馳走。そんなら一ツ、ついでもらおう
ト書き お袖、お酌をして、直助、一杯引っかけ、しぐさあって
 
なるほど、女の小さい心では、酒でも飲まなければやり切れまい。話を聞いてはこの胸が、いわば他人の俺でさえ
お袖
イエイエ、おまえを他人にしないため、女の方からさし出した盃
直助
お袖
モシ、もう、祝言は済んだぞえ
ト書き 思い入れ。直助、こなし
 
親と夫の百ケ日、今日が過ぎれば今宵から、約束通りおまえと夫婦に
直助
そんならおぬしは、帯ひも解いて
お袖
アイ
ト書き 恥じらう思い入れ
直助
イヤ、そりゃ悪いだろう。俺もおぬしに本当のところは、のろけ切った心から、女房になったら力になろうと、約束はしたものの、よくよく思って見るときは、草葉の陰の与茂七へ、それではそなたの
お袖
操を破って操を立てる、私の心。モシ、そのようなことは捨て置いて
ト書き またお袖、手酌にて、ぐっと酒を飲んで
 
おまえもも一ツ、飲ましゃんせ
直助
酒ならいくらでも、遠慮なしさ
ト書き お袖、お酌をして、直助飲む
お袖
酒は遠慮なしだと言わしゃんすが、では女子は?
直助
イヤ、女というものは、怖いものよ
お袖
それじゃ、遠慮しなしゃんすのか
直助
マア、ざっと、そんなところさ
お袖
そんなら私は、もう一ツ飲もうかいな
ト書き 手酌にて飲む
直助
イヤ、こいつは素敵に、今夜は大いに飲みっぷりがいいわ
お袖
わたしゃモウ、気が揉めてならぬによって
ト書き 直助に少し、しなだれかかる
直助
なるほど、気が揉めるのも無理はない。たった一人の姉きは思いがけず
お袖
さ、それじゃによって、どうぞ力に
直助
そんならいよいよ直助と、夫婦になったその上で
お袖
一人ならず二人、三人。討たねばならぬ仇敵
直助
助太刀しよう
お袖
エエ
直助
討ってやるさ
お袖
エエ、では、アノ、本当に
直助
女房になるか
お袖
決して見捨てて下さるなよ
直助
とうとう首尾よく
お袖
エ?
直助
アア、ずいぶん酔った
ト書き 脇を向いて、舌を出して、ニッコリと思い入れ
お袖
そんならモウ、寝やさんしょう
直助
ありがたい、床急ぎ。サアサア、寝よう
ト書き せかせかと
お袖
アレ、せわしない、今、布団を敷くわいなア
ト書き 押し入れより、布団と枕を出して、そこに敷く。直助、二重屋体より、古い六枚屏風を持ってきて、枕元に立て、門口を閉めて、思い入れあって
直助
サア、かかア、寝ないか
お袖
わたしゃもう少し、夜なべをしようわいナ
直助
そんなら勝手にするがよい。俺も実のところは、赤の他人でいるが勝手だ
お袖
エエ、モウ、寝ることは寝るけれどナ
ト書き 思い入れあって、仏壇に手を合わして拝む。直助、これを見て
直助
コレ、いまに仇を討たしてやるワ
ト書き お袖の手を取って、こなし。歌になり、お袖、思い入れあって、直助に手を引かれ、床の上に上がり、よろしくあって、屏風を引き回す
─── ◆ ───
 
この歌をかり、向こうより、与茂七が腰に刀を挿し、前幕の鰻かきを持って、出てきて、花道で思い入れあって
与茂
いつぞやは大切な回文状を失い、その代わりに手に入ったこの品に、ありありと名前を彫りつけた、権兵衛という者こそ、法乗院の門前で、香花の商いをしている家の住人であると、詮索して聞き出したこやつの手がかり。その主に会って、回文を持っているか問いただしたその上で、場合によったら、蟻の穴から堤も崩れるとの言葉にあるとおり、大事には代えられぬ。不憫ではあるが消えてもらうことも
ト書き 刀に手をかけるしぐさあって
 
なにはともあれ、この持ち主に会った上で。ウム、そうじゃ
ト書き 思い入れあって、舞台のかたに来る。薄ドロドロになり、門口に干してある、小平の着物のすそで、人魂が燃えて、あつらえの蛇がまとう。与茂七、これに目をつけ
 
ヤヤ、人魂と共に蛇が、あの着物につきまとうは。ムム、非業の最期に世を去った。まさしく死霊の
ト書き 思い入れあって、つかつかと舞台に来る。ドロドロ打ち上げて止まり、蛇は陰火と共に消える。与茂七、ほっとしたしぐさあって
 
さても不思議な、はてなア
ト書き 思い入れあって、門口を叩き
 
モシ、ごめんください
ト書き この声に、直助、起き上がって、屏風を開け
直助
オイ、誰だ?
与茂
どうぞお線香を、一把売ってください
直助
アア、お気の毒だが、線香は品切れでございます
与茂
そんならここにあるシキミを売ってくださりませ
直助
シキミですか。そりゃアめっぽう高いぞ。一本で百文より安くはまけられない。それに、それは売り先の決まってしまった花だ。他へ行って買わっしゃるがいい
与茂
まだ日も暮れて間もないのに、たいそう早く寝るもんだ。アア、これ、どうにかせねば
ト書き 思い入れあって
 
モシモシ、外に干してある洗濯物を、盗人が持って行きますワ、アレアレ、盗人を洗濯物が持って行く、持って行く
ト書き 大袈裟なしぐさで言う。これで直助、あわてて起きて、三尺帯を締めながら、門口を開け
直助
すっかり忘れて寝てしまった。お前さん、よく知らせてくださりやした
ト書き 洗濯物を持って、うちに入ろうとして、与茂七を見て
 
あんたはたしか
ト書き 思い入れあって
 
ヤヤヤヤヤ、幽霊だ、幽霊だ、幽霊だ!
ト書き あわててうちに入って、門の扉を押さえている
与茂
なに、幽霊が、どこに、どこに?
ト書き うろうろする
直助
コレ、幽霊が来た、幽霊が来た
ト書き この声に、お袖、起きてきて、直助にすがって
お袖
エエ、気味の悪い。どこに幽霊がいるぞいナ
直助
門口に立っているワ。コレコレ、おめえ、幽霊除けは持ってないか
お袖
わたしゃそのような薬は持たぬわいナ。藤八五文は、幽霊には効かぬかいなア
直助
コレ、近所の人、幽霊が出た。来てください、来てください
ト書き やたら騒ぐ
与茂
やたらと幽霊、幽霊と言うが、俺の目にはさっぱり見えない。コレ、幽霊どん、幽霊どん、どこにおるのだ
直助
エエイ、幽霊たけだけしいとは、おまえのことだ
与茂
なに、わしが幽霊と? そりゃあ人違いだ。わしゃあそんな者ではない。マア、なんにしろ、ここを開けて下さりませ
直助
イヤイヤ、めったに開けることはならない。幽霊に知り合いはないぞ
与茂
これはどうしたことか。ちょっとお目にかかりたいことがござります。門の戸を開けてもらいたい
ト書き この声を聞き、お袖、思い当たった様子で
お袖
モシ、いま、ものを言わしゃんしたのは、以前の夫、与茂七どのによく似たものごし
直助
サ、それだによって、幽霊だと言うのだ
与茂
モシ、幽霊か、幽霊でないか、お目にかかれば分かります、マアマア、ここを開けて、正体を見さっしゃい
ト書き これで、お袖、直助を押しのけ、門口を開け、与茂七を見て
お袖
エエエエエ、おまえはほんとに、与茂七さまじゃ!
ト書き 与茂七、お袖を見て
与茂
お袖か、コレ、おぬしの在り処も探したが、変わったところで、さても、不思議な
お袖
エエ、わたしよりおまえが不思議。そんならきっと幽霊じゃござんせぬな? サアサア、こっちへ入りなさんせ
ト書き 与茂七、うちへ入る。お袖、与茂七をいろいろ確かめてみて
 
ほんに、幽霊じゃない。正真正銘、寸分たがわぬ与茂七さまじゃ。モシ、わたしゃ、おまえが人手にかかって、死なしゃんしたと思っていたゆえ
ト書き 直助の方へこなしあって、また、気を変えて
 
よう達者でいて下さんしたなア
ト書き 思い入れ。直助、こなしあって
直助
そんならいつぞや中田んぼで、バッサリやったと思ったのは
与茂
直助
変わらず達者で、おめでとうござりやす
ト書き 與茂七、直助をよくよく見て
与茂
たしかおまえは浅草で、顔見知りの薬売り、たしかその名は直助どの。ハテ、変わったところに。コレ、お袖、ここはおまえの家か
お袖
アイ、マア、そんなようなものじゃわいな
与茂
では、この人は、なんで今時分、ここに来ているのだ
お袖
サア、あの人はな
ト書き 思い入れあって、そこにある、宅悦が置いて行った足力の杖を取って
 
アア、ソレソレ、あんまじゃわいの、あんまじゃわいの
直助
何? 俺をあんまだと言うのか?
お袖
あんまじゃあんまじゃ。モシ、あんまさんになってくださいな。あんまさんじゃ、あんまさんじゃわいなア
与茂
ハハア、薬売りがあんまに化けたか
直助
そうさ。薬売りがあんまに化けるのは、まんざら縁のないでもないが、以前は赤穂のご家中も、小間物売りた物乞いと
与茂
それがどうしましたと
直助
世の中というものは、さまざまなものさ
与茂
ハテ、思いがけない女房のうちへ、尋ね当てて俺も安心した。その上あんままで呼んでおいてくれるというのは。ハテ、気の利いた。コレ、おまえ、ひと療治やってもらおうか
直助
そんならとうとう、俺をあんまにするのか
お袖
サテ、あんまさんじゃによって、療治してあげなさんせ
直助
イヤ、あんまとは、あまりにむごい
与茂
サア、揉んでください
直助
わしゃア、足力療治で、むやむやたらに踏んで踏みつけるが、それが承知なら、療治しなさるがいい
与茂
その荒療治がこっちの望み、しかし、足力の道具は、わしが貸してやりましょう
直助
こりゃア珍しい。そんなら道具をご持参で
与茂
わしが持参の足力の杖は、すなわち、この品さ
ト書き 変わった合方になり、持ってきた前幕での鰻かきを出す。直助これを見て思い入れ
直助
ヤ、コリャ、これはいつぞや六ぱ島、隠亡堀で失くした
与茂
そんならこれはおまえさんの
直助
商売道具さ
与茂
その柄にしっかり権兵衛とありありと彫り付けてあるからは、そんならそなたの今の名は
直助
以前は直助、そのあとは、藤八五文の薬売り。今は深川三角屋敷、寺門前の長屋暮らし。店で商う代物は、三文花に線香の、煙も細き小商人。後生の種は売りながら、片手間仕事に殺生の、やなを伏せたり砂村の、隠亡堀で鰻かき。ぬらりくらりと世を渡る、今のその名は権兵衛という、金箔のついた貧乏人さ
与茂
そんならそなたはこの家のご亭主。では、お袖はなぜここに
直助
この女か。コリャア、わしの女房さ
与茂
お袖
ア、モシ、それを言っては
ト書き 思い入れ
直助
これでいいわ。以前の亭主にありかを知られ、いついつまでもそのように、しらを切ってもいられまい。与茂七どのとやら。この女はわしのかかアさ
与茂
そりゃ、すでにいったんこの与茂七と、夫婦別れをした女の、再縁するもままあること。しかし、俺がいまだに去り状を渡さぬからには妻女のお袖。誰が許して再縁したのだ
お袖
ササ、そう言わしゃんすのも皆もっとも。訳を話せば長いこと。ととさんをはじめおまえまで、人手に掛かって
直助
ヤイヤイヤイ、今となっては百万べん、言い訳するほど罪が深い。所詮は穢れたおぬしの体、根性を据えて俺の見る前で、先の亭主と別れてしまえ。またおまえさんも薄のろく、心の腐った女の後を、追って歩くも恥の上塗り。未練を言わずとこの女は、わしに下さい。もらいましたよ
ト書き 思い入れ。与茂七、決っするところある様子で
与茂
なるほどそなたも横車、押手も強くずっかりと、女房をくれろとよくも言われた。その男らしい気性に免じて、長熨斗付けてこの女、進上しないものでもないが、ただではやれぬ。望みがある
直助
望みとは古風なおしきせ。たいがい知れた紋切型。女の手切れは、金と転んで
与茂
イイヤ、卑劣な、なぜに金子を
直助
ムム、ではまた何をあなたさんは
与茂
望みというのは金ではない。場所は砂村六ぱ島。隠亡堀の闇の夜に、鳴かぬ烏の挑み合い。その時思わず失った、小間物仲間の符牒の書き付け。拾った人はあなたさんと、知ったのはこの鰻かきから。女房とその品を取り替えに
直助
変わった物を女と引き替え。しかしこっちは素人で、小間物仲間の符牒は知らぬが、その連名も四、五十人。徒党を集める回文状と、この権兵衛はにらんでいた
お袖
その書き物なら浅草で、わたしも以前見たわいの
与茂
ア、これ。そんならいよいよあなたさんは
直助
拾って持っているならば、持っていても得の無い紙屑。返してやりたいものなれど、拾わぬものは仕方が無い。ほかを探すのが、マア、近道でござりましょう
ト書き 思い入れ。与茂七、しぐさあって
与茂
なるほどそなたもなかなかもって、一筋縄ではほぐれぬ気性。しかしとりたてて言い張るときは、隠しようない間男密夫の権兵衛。以前の武士の身であれば女敵討ち。また、町人ならば手段によっては、耳鼻を削ぐか金銀を、ゆすって取るのもままある習慣。その両方ともに関わることなく、ひたすら望みはその書き物。渡さぬうちは、外へは決してやらぬ。この家のうちに座り込み
お袖
そんならおまえはこの家に
与茂
カタの付くまで仮の宿
直助
飢えて死ぬのが承知なら、そりゃア、そなたの勝手次第さ
与茂
一人の女房に二人の男
直助
ハテ、札はどちらへ落ちるであろう
与茂
それはこっちが先なりや
お袖
つるの一筋わたしの心で
直助
二人へ立てる心中を
与茂
見たいはたしかに懐中の
ト書き 寄るのをお袖、間に入って隔て
お袖
モシ、ただ何事もわたしの気持ち一つに
直助
上から見えぬ人心
与茂
鏡に映るものならば
お袖
さぞ恥ずかしい
直助
昔のご亭主
お袖
モシ
ト書き 思い入れ
与茂
今宵はさぞかし
直助
与茂
おやかましゅうござりましょう
ト書き よろしくきまる。歌引き流し。与茂七、お袖、奥へ入る。直助、残り、考え込む様子で
直助
ハテ、不思議なことだ。いつぞや浅草の中田んぼで、ばらしてのけたと思った与茂七。生きているのも不思議の一つ。そんならあの時殺したのは、どいつであったか。よくよく運の無いやつ。それはともかく、あいつが欲しがる回文状。この書き物を師直さまの、屋敷へ持ち出し、恩賞を受けた上で、疫病神で恋の敵の与茂七を
ト書き 思い入れ
 
イヤイヤ、それよりいっそ手短に、この家の中でぐっさりと
ト書き 思い入れあって、そこにある出刃を取って、奥へゆこうとする。そのときに、お袖、出てきて
お袖
マアマア、あなた、待たしゃんせ
直助
そんなら、おまえ、今の様子を
お袖
モシ、与茂七どのも以前は武士。もしもおまえに怪我があっては、誰を力に親と姉の仇を
直助
ハハハハハ。おためごかしの口先巧みに、以前の男の与茂七を、かばいだてする言葉のはしばし
お袖
エエ、モウ、男のくせに、まわり気な。いったんおまえに大事を頼み、枕を交わしたからには、金輪奈落、おまえと夫婦に。モシ、与茂七どのを殺す手引きはナ
ト書き 直助にささやく。直助、納得して
直助
そんならそなたが与茂七を、酒に酔わしてこのところへ
お袖
屏風を引いて、寝入りばな
直助
合図はおぬしが行燈の
お袖
灯りを消すから忍び寄り
直助
あの与茂七めをたった一突きで!
お袖
モシ
ト書き 大声をおし止めるしぐさにて
お袖
違えぬように
直助
がってんだ
ト書き うなずき、合方、時の鐘になり、直助、こなしあって、下座の中へ入る。お袖、思い入れ。与茂七、奥から伺い出て
与茂
お袖、あるじの権兵衛、どこへ参った
お袖
なんだかよんどころない用事とやらで
与茂
外出したか。それは幸い、帰りを待ち受け
ト書き つかつかと門口へ方へ行くのを、お袖、止めて
お袖
モシ、待たしゃんせ。あの直助も以前は武士。とくに常から強気もの。大事を抱えたお前の身に、もしもの過ちがあったときは、古主への不義になりましょうがな
与茂
その心配もさることながら、今も奥にいて言う通り、一味の回文状をやつに拾われ、大事を知られた上には、しょせんは生かしておけないやつ
お袖
そう思わしゃんすなら、その方法は。ナ、モシ
ト書き ささやく
与茂
ムム、では、いよいよそちが手引きして
お袖
わたしの親も鹽冶さまのご家来だから、わたしにとってもやっぱりご主人。主人の為にならぬ直助どの、殺す手引きもご奉公
与茂
でかした、お袖。それはそうと合図は
お袖
寝酒をすすめて正体失くした折をうかがって、行燈の
与茂
灯りを消すのを合図と定め
お袖
枕に立てた屏風越しに
与茂
あの直助めをたった一突き!
お袖
モシ
ト書き 大声をおし止め
与茂
必ずともに
お袖
怪我せぬように
与茂
承知いたした
ト書き 両人、よろしくこなし。時の鐘、合方になり、この見得よろしく、道具回る
 

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