二幕目ー3 再び雑司ヶ谷四ッ屋町の場

ト書き 本舞台。再び、伊右衛門の貧乏宅へ戻る。ここにお岩、面相が醜く変わり、苦しんで、倒れている。宅悦がこれを介抱しているところで、道具が回る
ト書き やはり、虫の鳴き声、合方、時の鐘。宅悦、いろいろと介抱して
宅悦
いや、まことに、とんだ留守を頼まれた。もし、お岩さま、どうでござります。気持ちはよくなりましたか
お岩
アア、どうしたことか、喜兵衛さまのくだされた血の道の薬を飲んでから、にわかに顔が熱を持って、アア、苦しく覚えたわいの
宅悦
イヤもう、大いに心配しました。マアマア、少しはよいようで、安心しました。これはうっかりしていた、もう日が暮れたな。灯りを点けねばなるまい。ドリャドリャ
ト書き 行燈を前に出して、灯りを点けて
 
しかし今の薬で、なぜそのように、にわかに苦痛を
ト書き と言いざま、灯りの中で、お岩の顔が変わったのを見て、びっくりして
 
ヤ、お前は、顔が!
お岩
なに、どうかしたかいの
宅悦
サ、ちょっとの間に、マア、そのように
ト書き 言おうとして、思い直し
 
おおかたそれが、家伝の良薬のおかげでござりましょう
ト書き 顔のことは言わないしぐさをして
お岩
わしも少し前はにわかの発熱と、あの苦痛。少しはよくなったようじゃ
宅悦
イヤ、それはよかった。イヤ、灯りは点いたが、油が無かった。私がちょっと買って来てさし上げましょう
お岩
そうしてくだされ。この様子では、とてもわしは歩くことはかなわぬ。これ、ここにたしか、お金が
ト書き あたりより、小銭を五十文ばかりを通したものを、さぐりとって
 
これを持って、早う頼みます
宅悦
かしこまりました
ト書き 油つぎを取って
 
まだ、帰ってくるまではもちますでしょう
お岩
早うたのむぞや
宅悦
ハイ
ト書き 戸口へ出て、思い入れあって
 
ハテ、奇態なことだ。さっきまで何ともなかったお顔が、ちょっとのうち苦しんだと思ったら、あれほどまでに
ト書き お岩、これを聞き
お岩
まだゆかぬのか
宅悦
ハイ、はなおが切れましたもので
ト書き 時の鐘、合方にて、宅悦、向こうへ入る。お岩が残り
お岩
どうしたことか、伊藤さまがくだされたお薬は、血の道には良いようじゃが、顔の発熱はいまだに治らず、悪い酒でも飲んだような気持ちが
ト書き このとき、赤ん坊が泣く
 
アア、またむずがるかいの。お乳をあげましょう
ト書き 赤ん坊に乳をあげ
 
ササ、今に、ととさんがお帰りじゃ。ここでは蚊が刺しまするから、マアマア、蚊帳へ入って
ト書き 上手で、抱いた子を軽くたたいてあやしつけながら、蚊帳の中へ入る
 
どりゃ、お乳をあげようかの
ト書き 歌になり、時の鐘。向こうより伊右衛門、思案をしながら出て来て、花道で、思い入れあって
伊右
今さっきの喜兵衛どのの話では、命に別状が無い代わりに、面相が変わる良薬と申したが、もしや女房はあの後で。ものはためしだ、見てみよう
ト書き 門口へ来て、そのまま中へ入る
お岩
油を買ってくだされたか
伊右
いいや、油は買いに行かぬ、俺だ
お岩
伊右衛門どのかえ
伊右
どうだ、さっきもらった薬は、血の道に良いか
お岩
アイ、血の道にはよいようですが、飲むとすぐに発熱して、とりわけ顔に、にわかの痛み
伊右
発熱がひどくてその顔が
お岩
アイ、痺れる感じがしたわいなア
ト書き 蚊帳の中より出て来たお岩を、伊右衛門、見て、びっくりして
伊右
ヤ! 変わったワ、変わった、ちょっとの間にそのように
お岩
なにが変わったぞいな
伊右
サア、変わったと言ったのは、アア、それそれ、俺が喜兵衛どのの所へ行っていた間に、お前、大いに顔つきが。それもさっきの薬のおかげであろう、イヤ、顔色も大いによくなった
ト書き おどろき呆れる思い入れ
お岩
わたしの顔つきが、よいか悪いか知らぬけど、気分はやっぱり同じこと。一日たりと心休まるときもなく、どのみちわたしは死ぬでござんしょう。死ぬる命は惜しまねども、生まれたあの子が、ひとしお不憫に思い、わしの魂は迷うでござんしょう。もし、あなた。お前、わたしが死んだら、よもや当分、後妻を
伊右
持ってみせるわ
お岩
エエエエ
伊右
女房ならばじきに持つ。しかも立派な女房をな、おらァ持つつもりだ。持ったからなんだ。世間にはいくらでも手本があるわえ
ト書き ずけずけと言う。お岩、呆れた思い入れで
お岩
これ、伊右衛門どの。常からお前は情けを知らぬぞヤ。じゃけんな生まれ。そういうお方と分かって、一緒にいるのも
伊右
親父の仇を頼む気か。それは、いやだな。いまどき、親の仇もあまりに古臭い。止めておけよ。俺はいやだ。助太刀しようと請け負ったが、嫌になったの
お岩
お前が嫌と言っても、他に頼りなる者もなく、女の手ひとつではどうにもならず、それでば願いが叶うはずはなく。そうだといって、わたしにここを出てゆけと言うなら、なるほど出ても行きましょうが、そのあと、お前は継母に、あの子を育てさせるつもりかいの
伊右
これこれ、継母にやるのがいやなら、あの餓鬼を連れてゆけ、まだ赤子のあの餓鬼と、新しく入る女房と、どっちが大切か言うまでもなかろう
お岩
それでは、あんさんは女のために、実のわが子も
伊右
見捨てねえでどうするものか。お前も俺を見替えたから、俺もお前を見替えるが、それがどうした
お岩
エエ? なんでわたしが、その、お前を、誰に見替えましたぞいの
伊右
サア、見替えた男は、アノ・・
お岩
誰でござんす
伊右
オオ、それそれ、あのあんま坊主に見替えた。お前は、あいつと間男をしているな?
お岩
エエ? 何を言わしゃんす。いかにわたしのようなものじゃと言って、なんでマァ、あんな男と不義間男をしようぞいな
伊右
お前はしないのだろうが、もしオレが、外で色事をしたらどうする
お岩
サ、そりゃあ、男の甲斐性。どのようなことをなさろうが、お願いした仇討ち、力になってくだされば、何のどのようなことがあっても
伊右
かまわない、と言う代わりに、かたき討ちを頼むのか。ことによったら、餓鬼までできた女房だから、助けてもやろうが、知ってのとおり、金回りが悪い。これ、何か貸してくれろよ。急に入用なことがある、それなのに、何の質草もない
ト書き あたりを見回し、落ちている櫛を見付け
 
これ、これを借りよう
ト書き 取り上げる。お岩、その手にすがりつき
お岩
アア、そりゃ、かかさんの形見の櫛。他へやるわけには
伊右
ならねえのか。コレ、本当のこと言うとな、俺の色の女が、ふだん挿す櫛がない。買ってくれと言うから、これをやろうと思うが、悪いか
お岩
こればかりは、どうぞ許して
伊右
そんなら櫛を買えるだけの物を貸せ。まだその上にな、俺も今夜は、身の回りの物がいるから、入れ替えものも工面せねばならぬ。何か貸せ。サ、早く貸しやァがれ
ト書き 手荒く突き飛ばす。お岩、思い入れあって
お岩
なにかといっても品もなく、いっそわたしの
ト書き お岩、着物を脱いで差し出し下着ばかりになる。伊右衛門それをよくよく見て
伊右
これでは足りねえ、もっと出してくれ。なにもねえか。アア、あの蚊帳を持ってゆこう
ト書き 駆け寄って、吊ってある蚊帳を取って、ゆこうとする。お岩、これにすがって
お岩
アア、もし、この蚊帳がないとな、あの子が夜、ひどく蚊にせめられて
ト書き 蚊帳に取りつく
伊右
蚊が食うならそれは親の役目。追っ払ってやれ。サ、はなせ、はなせ、エエイ、はなしやァがれ!
ト書き 手荒くひったくる。お岩、これに引かれ、たじたじとして、蚊帳をはなすと、指の爪、みな蚊帳に残り、指先は血まみれになり、どうと倒れる。伊右衛門、ふり返り
 
ざまを見ろ。エエイ、けちなやつだ。しかしこれでも不足だが仕方あるめえ
ト書き 歌、時の鐘。蚊帳と小袖を抱え、伊右衛門、向こうへ入る。
─── ◆ ───
ト書き お岩、ようやくのこと起き上がって
お岩
これ、伊右衛門どの、その蚊帳ばかりは
ト書き あたりを見て
 
そんならもう行ってしまったか。あの蚊帳だけはやるまいと、病み呆けていても子がかわいさ。はなさぬものと取りすがったが、手荒くされて指先の爪が剥がれてこのように・・
ト書き 指先が残らず血だらけなのを見て
 
これほど邪見なあの人の、種と思っても、なおさら不憫に
ト書き 思い入れ。赤ん坊泣く、お岩、よろよろとして、あたりを探して、土火鉢を出し、蚊やりを仕掛ける思い入れ。その間、捨て鐘の合方。向こうから伊右衛門がくだんの品を肩にかけ、宅悦をひっとらえ、引き返して出て来て、花道にて
宅悦
もしもし、旦那、それはあまりに無情な。そんなことをしたら、お岩さまと私の間に、悪い噂が立つではございませんか
伊右
サ、それを立てさせるのが、俺の仕事だ。首尾よくゆけば、これ
ト書き ささやく
宅悦
エエ? 左様なら、あなたは今夜、アノ、内祝言を挙げなさる?
伊右
コレ、口外するな。それ
 
ト書き、包み金一両をやる
宅悦
エエ? この金をくだされて、アノ、この私に、間男を?
伊右
やりそこなうと、これだぞ
ト書き 切ってしまうぞ、というしぐさをする
宅悦
アア、モシ、分かりました、分かりました
ト書き 伊右衛門、うなずき、また引き返して中へ入る。宅悦は油つぎを持ち、門口へ来て
 
お岩さま、お岩さま、さぞお待ちでござりましょう。ササ、油、油
ト書き 行燈に油をつぐ。お岩、やっとのことで蚊やりを、団扇であおっているが
お岩
オオ、戻ったか。そなたのあとに伊右衛門どのが、戻ってござんして、吊っている蚊帳まで取り上げて
宅悦
アア、また、質屋にやられましたか。ハテ、無慈悲な。アア、見ればお前は、だいぶ薄着に
お岩
冷えては悪いという病気なのに、それも貸せと言ってこのように
宅悦
剥ぎ取ってしまわれたか。アア、困ったものだ。お前もひどい苦労性。そんなご苦労をなされるより、いっそ亭主を持ち替える、算段をなさる方が
ト書き と、言いながら、お岩にしなだれ寄って、お岩の手を取り
 
コリャ、お前には手の筋に、悪い筋がござります。だいたい、これこれ、この筋が、女は亭主で苦労が絶えない、この筋じゃ。そこで、この筋を切るとようござります。切るとは、その男の縁を切るということでござります
ト書き お岩の手を握る。お岩、びっくりして飛びのき
お岩
コレ、そなたはマア、武士の女房に、なんでそのような淫ら千万なことを。そのような無礼なことを今度すると、次は許さぬぞよ
ト書き キッとして言う
宅悦
モシモシ、お前さまばかりがそのように、誠を尽くしなされても、もし、あの伊右衛門さまは、とうに心が変わっております。それを知らずに、亭主に尽くしても、あとでひどい目にあうだけですぞえ。それよりお前さま、わたしとナ
ト書き 言おうとする。お岩、腹を立てて
お岩
なに? 亭主で難儀をするよりも、わたしと一緒になれとはそりゃ何事じゃ。サア、そのわけを申せ、申してみなされ。言わないということはわしに不義をしかけるつもりか。無礼ものめ。女とはいえ武士の娘で、侍の妻であるこの岩。ことによっては
ト書き そばにあった小平の小刀を取って、するりと抜いて、宅悦へ立ちかかる。宅悦、うろたえて
宅悦
これは、アア、危のうござります、危のうござります
ト書き お岩の手を止めようとして、あっちこっちする。はずみで誤って抜き身の刃を上手の屋体に打ち込む。宅悦うずくまって
 
モシモシ、嘘でござります、嘘でござります。今のように申したのは、まことに嘘でござります、嘘でござります。あれは皆、お前の貞操を試そうと思ってした偽り。本当は、お腹をお立てなされるするなよ。ちょっと前とは事情が変わり、お前のような、ひどい顔の女とは、いくらわたしのような者でも、アア、疎ましい、疎ましい。何の因果か、病気の上に、そのマアお顔は。ハテ、気の毒千万なものだ
ト書き このセリフの間に、お岩、思い入れあって
お岩
なに? わしの顔が。さっきのように、発熱と共ににわかの痛み。もしや、あのとき
宅悦
ササ、そこがお前は、やはり騙されやすい女の常。喜兵衛どのから届いた、あの血の道の薬は、ありゃみな嘘。人の面相を醜く変える薬。それを飲んだお前の顔は、世にも醜い悪女の顔に。それをお前はご存じない。疑うのなら、これこれ、ここの
ト書き 畳んだ紙より、鏡を出し
 
これでお顔を、ご覧なさりませ
ト書き 持ち添えて、お岩に鏡を見せる。お岩、自分の顔が映るのを見て
お岩
ヤヤ、着物の色合いといい、髪の形といい、コリャ、これ、ほんとうにわしが顔か。このように悪女の顔になんでマア。コリャ、わしかいのう、わしがほんまに、顔かいのう
ト書き いろいろ思い入れ
宅悦
サ、それには他に策士がござるわ。すなわち、隣家の喜兵衛さま。自分の孫のお梅どの。あの子の婿に伊右衛門どのをもらいたいものの女房持ち。伊右衛門さまも、向こうは金持ちとはいえさすがに少しはお前に義理もあり、申し出を断ったのを、けしからぬことと、血の道の薬と偽って、お前に飲ませて顔を変え、亭主に愛想をつかす計略。そうとは知らずにうかうかと、いっぱい食わされたお岩さま。いやはやまったく気の毒千万
ト書き 残らず口走り、このうち、お岩、だんだんと怒りがこみあげて来る思い入れにて、鏡に映る顔を、よくよく見て
お岩
そうとは知らずに隣家の伊藤喜兵衛。わしのところへ心づけ、毎日届けてくれる親切を、かたじけないと思うから、端女の乳母へさきほども、我が身を破滅する毒薬とも知らず、両手をついての一礼。いまになって思えば、恥ずかしい。さぞや笑っているだろう。悔しいわいの、悔しいわいの
ト書き 泣き伏す。宅悦、さし寄って
宅悦
愛想をつかした伊藤の婿さま。お前と手を切るために、手前になんとかして女房と間男いたせとお頼みを、ならぬと申すと刀で脅し、わたしも仕方がなしに今のたわむれ。お前の着物をそのように、非道にも剥いでござったのも、実のところは、今夜はすぐに内祝言。婿の支度を質から戻すために、持ってござったお前の代物。その上、わたくしに、お前に色をしかけて一緒に逃げてくれろとお頼みは、すなわち娘をこの家へ、連れて来るにもお前が邪魔。それゆえわたしを頼んだ間男。しかし、そのお顔では、どうして色に。イヤ、ごめんだ、ごめんだ
ト書き これを聞き、お岩、キッとなって
お岩
もう、この上は、気をもみ死に。生きているうちに喜兵衛どの、この礼を言うて
ト書き よろめきよろめき行こうとする。宅悦、ついたてでこれを止めて
宅悦
そのお姿でござっては、人が見たら気違いか。なりも粗末なその上に、顔のかまえもただならぬ
ト書き お岩、鏡を取り上げ、よくよく見て
お岩
髪もおどろなこの姿。せめて女の身だしなみ、かねなど付けて、髪もすき上げ、喜兵衛親子に礼の言葉を
ト書き 思い入れあって
 
これ、お歯黒道具、これ、ここへ
宅悦
産婦のお前が、かねを付けても・・
お岩
大事ない。サア、はよう
宅悦
では、どうしても・・
お岩
エエイ、聞く耳は、持たぬわいの
ト書き じれて言う。宅悦、びっくりして、はい、とうなずく。ここから独吟になり、宅悦はかね付けの道具を運ぶ。蚊いぶしの火鉢にお歯黒をかけ、みすぼらしいたらい、粗末な道具。かね付け道具が整って、赤ん坊が泣くと、宅悦が駆けつけ、寝かしつける。このとき、歌がいっぱいに切れる。お岩、くだんの櫛を取って
 
母の形見のこの櫛も、わしが死んだらどうか妹へ。アア、そうはいうものの、せめてこのお形見の櫛の歯を通して、もつれる髪を。オオ、そうじゃ
ト書き また歌になり、くだんの櫛で髪をすく。赤ん坊泣く。宅悦、抱いて寝かしつける。このうち、歌いっぱいに切れる。お岩、くだんの櫛を持って思い入れあり、お岩はこのうち、髪をすき上げ、抜けた毛が前に山のように落ちているのを見て、櫛と落ち毛を一つに持って
 
いつ死ぬとも知れぬこの岩が、死ねばまさしくその娘、祝言が挙げられるは目前のこと。ただ恨めしきは伊右衛門どの。喜兵衛一家の者どもも、何を安泰にしておくものか。思えば、思えば、エエ、恨めしい
ト書き 抜けた髪を持ち、櫛もろとも、ひとつにつかみ、キッとねじ切る。髪の中から、血がたらたらと落ちて、前にある、倒れた白地のついたてに、その血がかかるのを、宅悦、見て
宅悦
ヤヤ、あの抜けた毛から、したたる生血は・・
ト書き 震え出す
お岩
一念通さでおくべきか
ト書き よろよろと立ち上がり、向こうを見つめて立ちながら、そのまま息を引き取る思い入れ。宅悦、子を抱いたまま駆け寄って
宅悦
これ、お岩さま、お岩さま、もし、もし
ト書き 思わず立ったお岩に手をかけてゆすると、その体、よろよろして、上手の屋体にばったりと倒れる。そのはずみに、前に屋体に突き立った白刃が、ちょうどいいところにあって、お岩の喉のあたりをつらぬいて、顔へ血がはね返り、よろよろと屏風の間をよろめいて出てきて、そこで倒れ、うめいて、死ぬ。宅悦、うろたえて、屋体をすかし見て
 
ヤア、あの小平の白刃が当たって、思わずとどめを刺したも同然。サアサア、大変、大変、大変
ト書き うろたえる。この間、すごき合方、捨て鐘。この時、猫が一匹出て来て、幕が開いたときよりあった惣菜入れの箱へかかる。宅悦、それを見て
 
この、畜生め。死人に猫は禁物だワ、シイシイシイシイ
ト書き 追い回す。猫、逃げて障子の中へ駆け込む。宅悦、追って行く。このとき、薄ドロドロになり、障子にたらたらと血がかかる。とたんに、欄間に、猫と同じ大きさの鼠が一匹、くだんの猫をくわえ、走り出て、猫は死んで欄間から落ちる。宅悦、震えながら見ると、このとき、鼠はドロドロと共に、炎になって消える
 
コリャ、この家にはいられぬ・・
ト書き 抱いていた子を捨て、下手の花道へ逃げる。
─── ◆ ───
ト書き 向こうより、伊右衛門、着物を着換え、きれいななりで出てくるところで、宅悦に行き当たり、見て
伊右
ヤ、お前はあんまか。お岩はどうした。連れて逃げたか、首尾よく行ったのか?
宅悦
アア、もしもし、お前のお頼みだが、それどころじゃござりませぬ、それどころじゃ・・
伊右
何? それならまだ逃げていないのか。エエイ、らちの明かない奴だ。これ、俺は伊藤の屋敷で内祝言をしてきた。おおかたあのお岩は、お前が連れ出してくれたであろうと思ったから、今夜向こうから花嫁を連れて来るのだが、お岩がいるとなったら、サア、大変だ
宅悦
さようさよう、大変でござります。大きな鼠が、イヤ、大変、大変、アノマア、鼠が猫をくわえて・・
ト書き 震えながら向こうへ入る。伊右衛門、それを見送り
伊右
なんだ、あいつは、鼠、鼠と、あとの事も話さずに逃げていったが、それにしても、お岩を追い出すその相手は、誰にしような
ト書き 思い入れあって
 
オオ、そうじゃそうじゃ、あの中間の小平めを間男にして、あいつら二人を叩き出し、それでお梅を今夜じゅうにここへ
ト書き 門口へ来て
 
お岩、お岩、どこにいる。お岩、お岩
ト書き 呼びたてる。このとき、足元で赤ん坊が泣く。びっくりして飛びのき
 
コリャア、どうだ。この餓鬼を地べたに。すんでのことで踏み殺すところだった。お岩、お岩
ト書き 呼ぶ。薄ドロドロになって、大きな鼠が出て来て、赤ん坊の着物をくわえて引っぱる。また別の鼠が出て来て、先の鼠の尾をくわえ、次々とたくさんの鼠が連なって、後ずさりで、赤ん坊を引っぱって行く。伊右衛門、これを見つけて
 
ヤヤ、コリャ、鼠がこの餓鬼を。エエイ、飛んだ畜生だ。シイシイ
ト書き 追い散らし
 
てめえの餓鬼を、鼠が引いてゆくのも知らぬのか。これ、お岩、お岩
ト書き 泣く赤ん坊を抱えて、探し回り、お岩の死骸を見付けて
 
ヤヤヤ、こりゃ、これはお岩の死骸ではないか。喉に突き立ったのは、小平のぼろ刀。そんなら、あいつが殺したのか? それにしても、あの押し入れにいるはず
ト書き 駆け寄って、下手の押し入れを開け、中から、くだんの小平を引っ張り出し、思い入れあって
 
こいつの縄はやはりそのままか。そんならまさかこいつがお岩を
ト書き 思い入れあって
 
こいつを咎人に
ト書き そう言いざま、縄を解く。小平、せき込んで伊右衛門にすがり
小平
旦那さま、エエイ、あなたという人は
伊右
なんだこいつは。俺がどうした
小平
イヤイヤイヤ、両手も口もかなわねば、お岩さまをこのように、気をもみ死に殺したのも、みんなお前のしたこと。これ、何もかもあのあんまが、お岩さまに向かい、隣の屋敷の喜兵衛さまと、共謀した一部始終。特に顔がたちまち、面相が変わったのも薬のせい。今の女房をいまさらに宿無しにし、その身の出世を図っても、そんなことをして、どうして栄えましょう。エエ、お前さまは、見下げ果てたお人だのう
ト書き キッとなって言う
伊右
やかましいわい。この下っ端が。お岩が死んだのは、おぬしの刀。ということは主人の女房を、おぬし、殺したな、ええ?
小平
エエ? めっそうもない。たった今まで、両手も口も縛られていて、どうしてそのようなことが
伊右
それでも、それそれ、両手が動くワ。それならお岩は、おぬしが殺した
ト書き まくしたてる。小平、いろいろに言ってこれを聞かぬが、それでも伊右衛門が言うので、小平、思い入れあって
小平
そう言わっしゃるなら、お岩さまを殺したのは、わたしの罪ということにして、わたしは人殺しになりましょう。その代わりには、もし、旦那さま。どうぞ盗んで逃げた、あの唐薬のソウキセイ。あのお薬をわたくしに下さいませ
伊右
べらぼうめ。あの唐薬ならさっき質屋へ、五両のカタにしてやったから、ここにはない
小平
エエ? それならあの薬は、アノ、質屋へ? その先さえ分かれば、言ってお願いして
ト書き 門口へ行こうとする。伊右衛門、抜き打ちに小平を切る。小平、その手にすがって
 
コリャ、お前さま、なんで、マア、わたくしを
伊右
知れたこと。お岩の仇だ。殺しましたと今言ったおまえ、人殺しになったぞよ。特に隣家のたくみの様子、聞いたとあればなおさらに、生かしては置けぬ小佛小平。この民谷の刀で、往生しやがれ
ト書き また切り付け、立ち回りよろしく、小平、数か所の傷を受け、伊右衛門にすがって
小平
わずか一夜の雇われの身でも、仮の主ゆえ手出しをすれば
伊右
主人に歯向かう道理だワ。それだによってなぶり切り。お岩の仇だ、くたばりやがれ
ト書き ずたずたに切り倒す。このとき、木魚入りの合方。向こうから、長兵衛と官蔵が出て来て、この様子を見て
長兵、官蔵
ヤヤ、コリャ、小平めを。伊右衛門どの
伊右
すべてを聞き知ったこの小者。特に死んだお岩の不義の相手
長兵、官蔵
ヤ、それなら内儀のお岩どの
伊右
面相が変わってもこいつと二人、この家を駆け落ちしようとしやがった不義の者
長兵、官蔵
聞けば聞くほど太い野郎だ。シテ、この死骸は
伊右
世間への見せしめに、この二人の死骸を戸板に打ち付けてそのまま、川へ流してすぐに水葬にしてやれ
ト書き 押し入れの杉戸を外して、小平の死骸を、その杉戸のところまで引っぱって、釘で打ち付ける。このとき、薄ドロドロになり、仰向けになった小平の、釘で打たれて突っ張った両手の指が、蛇になって、うごめく
官蔵
アレ、アレ、両手の指が残らず
長兵
どうやら、蛇になって・・
伊右
なにをたわけたことを言う
ト書き このとき、花道より、伴助が走って来て、門口より
伴助
伊右衛門さま、伊右衛門さま、喜兵衛さまから花嫁が、ただいまここに、一家の者とご一緒に来られます
伊右
それはまた急ぎな。しからばお二人、死骸は奥へ
長兵、官蔵
心得ました
伴助
ヤヤ、小平の死骸とお岩さま。それなら二人は
伊右
間男心中。二人は戸板に打ち付けすぐにどぶんと水葬に。仕事は奥で
三人
承知いたした
伊右
人に見られるなよ
ト書き 歌になり、時の鐘。両人は小平の死骸を杉戸に付けられたままかつぎ、伴助はお岩の死骸をひっ抱え、みな奥へ入る。
─── ◆ ───
ト書き この歌のまま、花道より、中間二人に、喜兵衛の紋の付いた箱提灯を持たせ、喜兵衛が、袴と羽織を着て、お梅の手を引き、後ろからお槙、中間が二人、つり台に絹地の夜具と六枚屏風を乗せて、出てきて、門口へ来て
喜兵
伊右衛門どの、伊右衛門どの、喜兵衛が参った
ト書き 酔っている
伊右
これはこれは、ご隠居におかれましては、お梅を連れて。サ、サ、こちらへ
お梅
ア、もし。ただいまも申しましたように、さきほど致しました内祝言、それさえも憚りあるのに、その上お宅へ
喜兵
ハテ、大事ない。伊右衛門どのも、家内に間違いが起こり、家事をまかなう者もいなくなったゆえ、縁者となったのを幸いに、武家にはあるまじき引っ越し女房。夜具も屏風も持たせ参った。ササ、大事ない、大事ない
お槙
さようではござりましょうが、なんといってもまだ年端のゆかぬ、この娘さまを
喜兵
ハテ、大事ないと言うに
ト書き お梅の手をむやみに引っぱり、内へ入る。皆々座る
 
時に伊右衛門どの。いよいよ、そなたの申した通り、お岩どのには
伊右
先刻、内祝言の際、お話し差し上げた男ではなく、手前の使いの小平という者、またぞろ奴と不義、間男。ことが明らかになったと思ったか、産婦の女を道ずれに、乳飲み子を捨ておき、家出いたせし憎き二人。さすればすぐにお梅どの、今晩よりとどめ置きましょう。舅さまも、さようお心得なさってくださいませ
喜兵
アア、まだ他に男がござったか。イヤ、それは不埒千万なことでござる。しかしこのほうのためには、まことに願ったり叶ったり。めでたいことじゃ、めでたいことじゃ
お槙
先刻も、さようなお話しを承りましたが、よもやそんなことはあるまいと思いましたけれども、あのご病気のご様子でどうやって家出なされたものやら。マア、マア、それはまた別のこと。さしあたりまして、お男子さまは
伊右
イヤ、まことに、その赤ん坊に、弱り切りますワ
喜兵
サア、それだによって、拙者も今晩から、留守番がてらに泊まって進ぜよう。明日には早々に、乳母を求めて進ぜよう。コリャ、お槙、具合のよいところに、俺の床も取ってくれ
お槙
かしこまりました
ト書き 下手の方へ、持参した夜具を敷き、屏風を立て置き
 
ハイハイ、ご隠居さまのお床、ここへ敷きましたでござります
喜兵
シテ、婿どのと孫の床はどこへ
ト書き あたりを見る
伊右
さっきまでお岩がおりました床に、やつへの面当てに。やはり、あそこへ床を敷きましょう
喜兵
なるほど、それもようござりましょう。コリャコリャ、梅よ。これはそちのお守りじゃから、大事にこれをかけておれよ
ト書き 赤地の錦のお守りを渡す
お梅
そう言わさるなら、これは離さずにかけておきますけど、心懸かりは、あのお岩さま
お槙
さようではござりますけれど、マアマア、それはまた別にして、床だけは
伊右
ハテ、大事ない。拙者がよいと申すに。誰か何か申す者でもおると言うか
ト書き 腹を立てて
お槙
イエイエ、誰もさようには申しませぬ。左様ならお前さまは
ト書き お梅の手を引き、上手の、くだんの床の上へ連れてゆき
 
今宵はここで、日頃の願い
お梅
それじゃと言っても、もしひょっとして、わたしのせいでお岩さま
お槙
ハテ、それをおっしゃると、あなたの願いは叶いませぬ
ト書き 屏風を引き回す。赤ん坊泣く
伊右
ハテ、折り悪くあの乳飲み子
喜兵
今宵は拙者が乳の出ない乳母を引き受けよう。面倒を見て寝させて進ぜよう
ト書き 赤ん坊を抱いて、下手の床へゆく
伊右
しからば舅どの、なにぶんよろしゅう
お槙
シテ、わたくしは
喜兵
今宵の顛末を娘のお弓に、話しておいてくれ
お槙
かしこまりました、それではわたしは、これにて
伊右
乳母のお槙さんも休みなされ
お槙
ハイ。それでは、ごゆっくりお過ごしなされませ
ト書き 歌になり、時の鐘。提灯を持ち、先頭にお槙、家来どもを残らず連れ、向こうへ入る。喜衛門、屏風を引き回す。伊右衛門、一人残り、思い入れあって
伊右
ハテ、物事、これほどまでにうまく行くとはな
ト書き 思い入れ。正面の暖簾口より、長兵衛と官蔵が顔を出し
長兵
伊右衛門どの、戸板の二人を
官蔵
早稲田の川あたりへ突き流し
両人
不義の成敗
伊右
コレ
ト書き 声が高い、との思い入れ。両人、顔を引く
 
さて、こらからが新枕。娘の手入らず。ドリャ、水上げにかかろうか
ト書き 凄い合方になり、時の鐘。伊右衛門、上手の屏風へとゆき
 
お梅どの、さぞかし待ちどうしかったろう
ト書き 屏風を引き上げると、床の上にお梅が、うつむいて座っている。伊右衛門、近寄って
 
これ、花嫁どの。うつむいてばかりいることは無い。恥ずかしくとも顔を上げて、日ごろの恋が叶った今宵。そんならめでたくこちの人、わが夫かいの、と笑って言いやれ
ト書き 寄り添う
お岩
アイ。こちの人、わが夫かいの?
ト書き 顔を上げ、くだんのお守りを差し出すと、お岩の顔で、伊右衛門を恨めしげにキッと見つめて、けらけらと笑う。伊右衛門はぞっとして、そばにある刀を引き抜き、そのまま抜き打ちでポンと首を打つ。この首、前の縁側のあたりに落ちると、それはお梅の首で、薄ドロドロに。鼠が出て群がる。伊右衛門、首をよくよく見て
伊右
ヤヤ、やっぱりお梅だ。こりゃ、早まった
ト書き つかつかとゆき、あたりにある小刀を腰にぶち込み、抜き身の刀を下げたまま、つかつかと行き、屏風を引き除ける。中に喜兵衛、赤ん坊を抱き、かい巻きを着ている。伊右衛門、近寄って、揺り起こし
 
コレ、舅どの、珍事がござる。アノ・・ 間違いで・・
ト書き 喜兵衛を引き起こす。その顔、小平の顔になっており、抱いている赤ん坊を食い殺していて、口は血だらけ。伊右衛門の顔を見つめて
小平
旦那さま、薬をくだされ
ト書き と言うのを目にして
伊右
ヤ、おのれは小平。俺の子を
ト書き と、言いざま、抜き打ちで首を打ち落とす。首は転がり、適当なところに血に染まった喜兵衛の首が出て、腰のあたりから頭の方へ、蛇が一匹、首にまとわりつき、うごめく。伊右衛門、よくよく見て
 
ヤヤ、切った首はやはり舅。かかる祟りに、うかうかとここにいるわけには
ト書き 門口へ駆けて行くと、戸は閉まっているので、がらりと開けて、出てゆこうとするが、この戸が勝手にぴしゃんと閉まる。伊右衛門、びっくりして、たじたじと後ずさりし、ホッと溜息をつく。ドロドロにて、ひとだまが立ち上る。伊右衛門それを見て、ぎょっとして
 
ハテ、執念の
ト書き 尻もちをついたところで、拍子木が鳴り
 
なまいだ、なまいだ、なまいだ、・・
ト書き 手を合わせ、念仏を唱える。これを刻みにて
 
拍子幕
 

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