二幕目ー2 伊藤喜兵衛うちの場

ト書き 伊右衛門、上座に座り、お弓は後家のなり、お槙はいつものなりで、お銚子、盃、鉢に入った肴などを取り散らかし、長兵衛、官蔵は酒盛りをしている。伴助は、甚句を踊っている。二重舞台で、適当な場所で喜兵衛が眼鏡をかけ、隠居のかっこうで、赤銅のたらいで小判を洗い、手箱へしまっている。回り舞台が止まり、踊っていた伴助、尻もちをつく。皆々がどっと笑う
長兵、官蔵
イヤ、なんといっても伴助は越後生まれゆえに、甚句はうまいものじゃ
お弓
いっそのことに、秋山さま。あなたもなにか、かくし芸を、拝見いたしとうございます
長兵
イヤ、それは迷惑。拙者の芸と申しては、声色ばかりでござる
喜兵
それは一興。声色はどの役者のをやりなさる
長兵
やはり築地の声色を
官蔵
イヤもう、そなたの築地も、あまりに流行遅れ。ちょっと鉄砲洲にでも、引っ越しなさっしゃい
長兵
その引っ越しは、愛宕下ではござらぬか
官蔵
何を言わっしゃる
ト書き 笑いになり、奥より若い衆の、袴だけの従者が、吸い物の椀、三人前を持ち、運んでくる
お槙
お吸い物のご用意ができましたが、お客さま方へ差し上げましょうか
喜兵
そうしておくれ
ト書き お槙、三人に膳を据える。伊右衛門、喜兵衛を見て
伊右
イヤ、ご隠居。あなたが洗っておいでになるそれは、目貫のたぐいでござるかな。左様かな?
喜兵
イエイエ、左様な品ではござらぬ。これは親の代より貯えいたしまする小判小粒でござるが、折々にこのように洗いませぬと、金銀と申しても、何やら錆が出まするゆえ、かように金銀を洗うのが、隠居の役目でござりまするて、ハハハハハ
お弓
マアマア、お粗末にはござりますけれど、お吸い物にてご酒を一献
長兵
それはご馳走に。ときに伊右衛門どのの膳が足りぬが、マアマアこれを
ト書き 自分の膳を伊右衛門の前に据える
お弓
イエイエ、伊右衛門さまには、他に上げまするお吸い物がござりまする。マアマア、あなた方、お粗末ながら
三人
しからばご馳走になりましょう
ト書き めいめいふたを開ける。中に小粒金がたくさん入って吸い物にしてあり、三人びっくりして
長兵
このお吸い物はまことに珍物
官蔵、伴助
イヤ、恐れ入りました
お弓
常からお出でを願っている伊右衛門さまを、お連れ下さいましたあなたさま方、どのようにご馳走いたしても、けっして惜しくはございませぬ。お心に叶いましたら。槙や、お吸い物をお取り替え差し上げて
お槙
アイアイ、サア、どなたも、お替えなされませ
三人
これはなにより、よいご馳走でござります
ト書き すぐに、たもとへ入れる
喜兵
お三方にはご馳走を致したが、伊右衛門さまへは、アア、何をご馳走すればよいものか
伊右
そのご馳走が拝見いたしとうござる
お弓
さよう言わされるなら、とりわけあなたへのご馳走は
ト書き あたりを見て
 
お二人さまには、少しの間、このお席を
ト書き 二人を見るしぐさをして、両人、了解して
三人
心得ました。しからばこのまま我々は
お弓
お付きそい申して
お槙
サア、ご案内つかまつりましょう
ト書き 合方になり、お槙を先頭に、長兵衛、官蔵、伴助も付いていって、奥へ入る
─── ◆ ───
ト書き 三人が残り、喜兵衛、洗っていた小判を手箱の上に乗せて、伊右衛門の前に差し出す
伊右
みれば多くの金銀を、拙者の前に差し出して、受け取ってくれと言いなさるには、なにか仔細が
ト書き 思い入れ
お弓
その訳はわたくしから、ただいま申し上げましょう
ト書き 合方変わって、お弓、すっと立ち上げり、奥から、振袖姿のお梅の手を取り、よきところに座らせ、思い入れあって
 
これなる者は、病死いたした私の連れ合い、又市どのとの二人の間にできた、娘のお梅
喜兵
ここにおるわしの娘、お弓がもうけました孫のお梅。どういう縁にか、あなたさまを見染めましたのが、病のはじまり。養生のために浅草へ、同道いたして、そのときまたぞろ、その日もまたあなたを思わず
お弓
お見かけ申したこの子の喜び。サア、娘よ、つねづねの想いのたけを
ト書き 言われてお梅、恥ずかしき思い入れがあって
お梅
かかさんのそのように、お心にかけてのいつくしみ、何をお隠し申しましょう。いつぞやよりご近所へ、引っ越しなされてきた民谷さま。どうしたことやらお目にかかった、その時ふっと恥ずかしい、女心の一筋に、思い詰めたるこの身の煩い
お弓
明けても暮れても恋い焦がれるが恋病み。寝込んでしまわぬまでも顔かたち、日ましに痩せるその様子。よくよく問いただせばあなたのこと、忘れられない娘心の
お梅
奥さまのあるお前さま。思い切ろうと思っても、因果なことに忘れかね、せめてあなたの召使、台所女中をいたしましても、わたしはちっともかまいません。どうぞおそばで、お使いなされてくださいませ
ト書き 恥ずかしき思い入れ
喜兵
ササ、お聞きのとおり、できることなら婿に取り、娘の願いを叶えてやりたい
お弓
あれほどまでに思いつめた娘の心。町人の身分で暮らしているのなら、お岩さまの身の回りのお世話にでもお使いなさってくださるか、あるいはあなたの妾として遣わしたく思っても、武士の家にて世間の手前。特に連れ合いが病死のうえ、位牌の手前どうもさようなことはできませぬ
ト書き 思い入れ。伊右衛門もしぐさあって
伊右
なるほど。事情を承り、申しようない娘さんのお心。いわば拙者も民谷の家へは入り婿で、義理ある女房のお岩。こればかりは気の毒ながら
喜兵
しからば孫の願いもそれでは
お弓
叶いませぬもみなもっとも。この上はお前も伊右衛門さまのことは
お梅
アイ、思い切ります。きっと心を取り直し、思い切ります。その証拠は、ここで私は
ト書き 帯の間より、剃刀を取り出し
 
なむあみだぶつ
ト書き 自殺しようとする。皆々、これを押しとどめて
喜兵
しかし、そりゃ、もっともじゃ。そちの願いが
お弓
叶わぬときは死のうとまで思い詰めたる娘心も、武士の血なればこそ。かわいいそなたの願いもこれではもう叶わぬが
ト書き 思い入れ。このとき、長兵衛が、奥から出てこれを聞いていて
長兵
これ、伊右衛門どの。そなたは大きな考え違い。どっちみち死にかかっているあのお岩どの。そんなら遅いか早いかだけで、死んだ後では新しい女房を、持つのはまたたく間。お二人の気休めにも、そなた、いっそねぐらを替える、そうした方がよさそうなものだぞ
伊右
イヤイヤ、この上、金持ちになるとしても、お岩を捨てては世間の手前。こればっかりは出来ますまい
ト書き これを聞き、喜兵衛、思い入れあって、手箱の金を残らず出し、伊右衛門の前へふたたび差し出し
喜兵
サア、伊右衛門どの。殺してくだされ。この喜兵衛めを殺してくだされ
ト書き のっぴきならない様子で言う。伊右衛門、思い入れあって
伊右
お年寄りの思い詰めた様子。この話がうまく行かぬからと、なぜまた殺せと、おおせられるのだ
喜兵
ササ、そこでござる。孫のことを不憫に思い、婿に取ろうにも女房持ち。アア、どうしたらよいかと工夫をこらし、お弓にも知らさず、わしだけが知っている顔が崩れる秘法の薬。お岩さまに飲ませれば、たちまち面相が変わることは明白。そのときこそは、あなたも女房に愛想が尽き、別れることになったなら、その後に孫娘を後家として持たせようと、悪い心が出たゆえに、口外はしなかったが、さきほどあなたの家へ、血の道の薬と偽って乳母に持たせて遣わしたるは、顔つきが変わる毒薬同然の品。しかし、命には別状がない。それだけを取り得にして、まさか罪ともなるまいと、お岩さまのところへやったのだが、事が叶わぬならば、この身の懺悔。それだによって殺してくだされ
お弓
では、そのような恐ろしい、たくらみも元はこの子ゆえ
お梅
さかばち当たるは、そりゃ眼前
喜兵
あなたさまが承諾なされるときは、家の有り金を残らずあなたさまへ
長兵
その据え膳を食わぬのは、そなたの考え違い
喜兵
腹が立つなら、殺してくだされ
伊右
じゃと申しても、あなたをここで死なすわけにも
お梅
いっそ、わたしが
ト書き 死のうとする。お弓、止める
喜兵
承知してくださらぬか
伊右
サア、それは
お弓
死ぬるこの子を、どうか助けて
伊右
じゃと申して
喜兵
しからば拙者を
伊右
サアそれは
二人
サア
伊右
サア
三人
サアサア
喜兵
よこしまながら
お弓
ご返事を
ト書き キッとして言う。伊右衛門、思い入れあって
伊右
承知いたしました。お岩と離縁しても、娘さんをいただきましょう
喜兵
では、納得してくだされて
お弓
ということは、この子の
長兵
願いも叶って
伊右
その代わりには、拙者からお願い
喜兵
シテ、あなたさまの願いとは?
伊右
高のお家へ推挙のほどを
喜兵
承知いたした。お頼みが無くても、一家となれば
伊右
ご息女をもらえば、婿舅。民谷の家名もいつしか伊藤に
お弓
思い立つ日の、こよいは吉日
喜兵
内祝言もすぐに今晩。承知でござるか
伊右
いかにも、そういたそう。女房のお岩と出入りのあんま。どうにももって
喜兵
そりゃなんのことを
伊右
イヤ、そのことはただ今、あなたに詳しく申しましょう
長兵
まず、何よりもここで祝言の盃。仲人は拙者が勤めよう。これ、お梅どの
お梅
いまさら、どうにも
ト書き 思い入れ
お弓
さすがにおぼこな。そりゃ、婿どのじゃ
ト書き 伊右衛門の方へ突きやる。お梅、伊右衛門に向かってこけかかり、恥ずかしき思い入れ。伊右衛門、気を変え
伊右
女房でござる。変わらぬ決心
ト書き 小刀を取って、鍔を打ち合わせ金打をする。両人これを見て
お弓、喜兵
アア、かたじけない
ト書き 手を合わす。時の鐘。歌になり、ここで道具が、回る
 

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