二幕目ー1 雑司ヶ谷四ッ屋町の場

ト書き 本舞台、三間の間、平舞台。正面にのれん口。下手に杉戸の押し入れ。よきところに床の間。上手は障子、内には蚊帳が吊るしてある。六枚屏風が立っていて、いつもの場所に門口。全体に造作が破れて壊れている様子の家作り。雑司ヶ谷、四谷町、民谷伊右衛門浪人住まいのてい。四つ竹ぶしの合方にて幕開き。
ト書き ここに伊右衛門が浪人のなりで、仕入れのから傘を張っている。下手には孫兵衛、木綿着で、年寄りの恰好をしてうずくまっているのを、あんまの宅悦がとりなしているところ、よろしくあって
宅悦
もしもし、伊右衛門さま。さようではござりますが、そこがご考えようでございます。私も口入れいたした責任上、どのようにでもお詫び申しまするゆえに、いま一両日のご猶予を
伊右
いやいや、待つことはならぬぞ。いわばあの小平めは、盗んで逃げして行方をくらました者。捕え次第、拙者が手打ちにせねば腹がおさまらぬワ。拙者がこのような内職仕事を致しておるも浪人暮らしの、コリャ、慰みと申すものじゃ。主人が栄えていれば、鹽冶の家中、民谷伊右衛門、れっきとした侍じゃぞ。なんと心得ておるのじゃ。人主のおのれ、サァ、返答しだいで、年寄りとて容赦はせぬぞよ。
ト書き 細工仕事をしかけたまま、孫兵衛に立ちかかる
孫兵
ヘイヘイ、ごもっともでございます。そのようにおっしゃりましても、こちらは一言も申しようはござりません。小平めが不届き。ただいまもおっしゃりまする、その、取り逃げ致した代物は、マア、何なのでござりまするか?
伊右
何と申して、おのれらの知った物ではないが、民谷家に先祖より伝わる、ソウキセイと申す唐薬じゃ。これは他にはない珍しい薬種で、腰膝が立たぬ難病も、たちまちに目の前で快癒。浪人の身で不自由にしていながらも、人手には渡さぬ品。それを盗んで逃げやがって、これ
ト書き 出来損ないの刀を出し
 
このガタガタの刀は、逃げたあいつが残して行った刀だが、どうでもいいこの物だけだ。近所のみなも気の毒がって、今朝早々から小平のやつの行方を探してくれている。俺もいつもなら駆け出してゆくところだが、なんと言っても、折り悪く女房の初産ゆえにこうしておる。しかし人出が欲しさに雇った小平の奴め。かえって主人に難儀をかける。思えば腹の立つ、捕え次第に切り捨てるぞ。請け人め、さよう心得ろよ
ト書き 𠮟りつける。孫兵衛思い入れ
宅悦
ごもっともでござります、ごもっともでござります。あんまの私の口入れで、雇って抱えた小平が行方不明。折り悪く奥様のお岩さまの初産が、血が止まらずにその後のご病気。その中での逃亡。まことに私も旦那さまへ言い訳できませぬ。親父どのよ、コリャマア貴様、なんと思っておられる
孫兵
イヤモウ、何と申したらよいのでございましょうか。しかし、常から、私の倅ながらも正直一辺倒の役立たず。特に、盗んで行方をくらました、その持っていた品が、あなた様のご先祖からお家に伝わるその薬種。アア、何ともはや
宅悦
それそれ。わしもそう思って。銭金を盗んで逃げるのは分かるが、薬種を持って逃げるとは
孫兵
アア、それならもしや、元主人のご病気に用いようとの心から、そのお薬を持ち逃げしたのでは
伊右
どうしたと
孫兵
イヤイヤ、まったくにくたらしい奴でござりまする
伊右
これ、親父。いま申したソウキセイ。たいしたものと思わぬかもしれないが、世にも珍しい代物ゆえ、薬問屋へ持って行けば、十両や二十両にはすぐになるワ。先祖よりの添え書き、お医者さま方の鑑定書もある、間違いのない品だ。しかし、それほど言うのなら、その方に免じて一両日の延長は許してやろう。その間に行方が分からなければ、盗んで逃げた薬種の代わりに、代金を持参致して、その上で、済ましてくれるワ。さように心得て、帰れ、帰れ
孫兵
ハイハイ、それはありがとうございまする。ただいまからきっと尋ね出して、その上、お詫び申し上げます。コレは、お前さまにも、大変ご苦労をかけまするて
宅悦
イヤモウ、どうも、迷惑ながら関わり合い。まことにこれだから、人の世話は怖い
ト書き このうち、孫兵衛、わらじを履き、身支度をする
伊右
シテ、親父の家はどのあたりじゃ
孫兵
エ、深川の寺町あたりでござりますれば、まことに遠方でござります
宅悦
帰りがけにも、気を付けて、尋ねながら行きなさいよ
孫兵
イヤモウ、そのつもりでござりまする。それでは旦那様、おいとま申しまする
伊右
一両日中にかならず探し出して参れ。さもないと、おぬしもそのままでは差し置かぬぞ
孫兵
ハイハイ、かしこまりました。お医者さま、ご苦労にござりまする
宅悦
気を付けてござれよ
孫兵
ハイハイ
ト書き 門口へ出て、思い入れあって
 
常日ごろ正直な小平めが、盗んで逃げるとは。まことにこれ、子は三界の首枷とはこのこと。とはいうものの、薬ということなら、間違いなく小平は主人のために・・
ト書き 思い入れ
宅悦
まだ行かないか
孫兵
はい、お騒がせでござりました
ト書き 唄になり、すげ笠を持って、考え事をしながら向こうへ入る
─── ◆ ───
宅悦
そういっても、あの親父も、気が気でもあるまい
ト書き このとき、蚊帳の中で手を打つ
 
アイアイアイアイ、お薬かな
伊右
気を付けてくださいよ
宅悦
かしこまりました
ト書き 屏風の中へ入る。伊右衛門、思い入れあって
伊右
このなけなしの貧乏生活の中で、餓鬼まで産むとは気の利かねえ。これだから素人を女房に持つと、こんなときに亭主の難儀だ
宅悦
サアサア、薬だ薬だ。暖めてあげましょう
ト書き 七輪へ土瓶をかけ、火をあおぐ
伊右
お岩の薬か、赤ん坊の薬か
宅悦
イエイエ、お岩さまのでござりまする。あのお子はぐずともおっしゃらぬ。鷹揚なお子様じゃ。その上に、あれほどまでにお前さまによく似たお子、まことに種は争えぬものでござりまするな
伊右
なに、俺に似ているか
宅悦
さようでござりまする
伊右
親に似たなら、さだめし、目玉が思いやられる
宅悦
ハハハハハハ
ト書き 思い入れ。角兵衛獅子の合方になり、向こうより秋山長兵衛、みすぼらしいなり、大小の刀二本を挿し、走り出て来たり、門口より
長兵
伊右衛門どの、伊右衛門どの、ご在宅か。小平のやつを見つけて来ましたぞ
伊右
これは秋山どの、見つけましたか
長兵
さよう。心当たりは下町のあたりと思い付き、私の身寄りが築地にあるゆえ、あのへんへ参り、新堀通りへかかる道にて、見つけました。なんでもあいつは、深川のあたりへ行こうとしていると見えました
伊右
さようさよう。深川はあいつの親の家でござる。今まで、その親父を呼びつけておりました
長兵
エエ? さようか。イヤ、なにより、あなた様が気にかけてなさった、それ、持って逃げた薬はこれでござろう
ト書き 木綿の小風呂敷に包んだ、例の薬包みを渡す
伊右
これはかたじけない。まことにこれが戻ってくれば一安心。シテ、小平の奴は?
長兵
あれ、あそこに官蔵が連れてきます
ト書き また、角兵衛獅子の鳴り物になり、向こうより関口官蔵、浪人、いつものなり。伴助、若い衆にて、小平をぐるぐる巻きにして、髪も乱れ、着物も破れたかっこうで、二人して、いろいろ言いながら、手荒く引きずって来る
小平
ハイ、ハイ、ご勘弁なされてくださりませ
官蔵
ご勘弁と言って、済むものか
官蔵、伴助
おのれは、太てえやつだな
ト書き このようなセリフを言いながら、連れて来て
 
入りやがれ
ト書き うちへ、引ったてて、入る
伊右
これは官蔵どの。ご苦労せんばん。秋山どのに様子をうかがいましたが。何かとかたじけのう存じます。オウ、伴助、ご苦労であった
伴助
ヘイ、もし、旦那様、ご安堵なさりましたでしょう
官蔵
これ、伊右衛門どの。拙者のようなのが乗り出せば、すぐにかような結果が出ますテ。かの薬も持っていました。まことに見かけに似合わぬ、太いやつでござった
宅悦
コレ、てめえゆえに、俺までが難儀するワ。コレ、今まで親父も呼びつけていたが、マアマア、おまえ、どういうつもりでこんなことをしたのだ
ト書き いわれて小平、そろそろと顔を上げ
小平
口入れして下さった、お前にまでご苦労をかけまするも、ふとした出来心。モシ、それなら親父も来て帰りましたか。アア、気の毒な。さぞ心配したでしょう。もし旦那さま、持って逃げましたお薬も、長兵衛さまがお取り上げなされました。もう他に、何も取りましたものはございません。どうぞご勘弁の上、穏便になされてくださいませ。ハイ、お願いでございます。
ト書き 思い入れ
伊右
なに、穏便に致してくれろか。イヤ、こいつ、ふとどきなことをぬかすな。おのれが取り逃げしたことを、主人の俺が何を穏便にすますものか。まことにこいつ、呆れるほど太いやつだ
官蔵
さよう、さよう。特に常からこいつが言うのを聞けば、やつの旧主人は鹽冶の家中、貴殿の同僚の小汐田又之丞の小者とのこと。親父はもちろん、女房子供までござるとのこと。まことに人は見かけによらぬものでござるな
伴助
さようでごさります。聞けばこいつ、家にその又之丞どのとやらも、居候にいるとの話でござります
伊右
アア、何という。同家中であった又之丞の、こいつが小者か。ヤイ、小平め。おのれ本当にさようか
小平
はい。親共は又之丞さまのご家来すじ。ご恩を受けたご主人さまは、ご浪人の上、このごろ難病に。ご主人様へ貢ぐために、私は雇い奉公。女房、倅、親父まで、みなそれぞれに内職やら、商いやら。貧困なうえに主人のご病気。そのお役に立つと思い、盗みましたあのお薬。まったく悪気でやったのではございません。主人のためと、忠義の盗み。捕えられたのはまことに天命。旦那さま、どうぞお助けなされてくださりませ
ト書き いろいろ詫びるのを見て
伊右
それなら、なにか。おぬしの旧主人の又之丞が病気につき、俺が家に持っていた薬を、盗み取れと、又之丞がおぬしに頼んだのか
小平
イエイエ。主人は毛頭存じません。これは、わたくしが出来心で
伊右
出来心であろうが忠義であろうが、人の物を盗めば盗人。忠義で致す泥棒は、命は助けるという天下の掟でもあったか。たわけづらめ。薬も取り返し、または薬の代金を弁償して償えば、助けてもやろうが、その代わりに、おのれの指を一本ずつ折ってしまうわ
長兵
それはよいなぐさみでござろう。しからば十本の指を、残らず折ってみましょうか
官蔵
命の代わりに指十本。イヤ、安いものでござるな
伴助
わたくしも稽古のために、折ってみましょう
伊右
サアサア、手伝え、手伝え
ト書き 皆々、小平へ立ちかかる。宅悦、あれこれ言って止める。小平思い入れ
小平
アア、モシ、モシ、このうえ指を折られまして、手が不自由では、主人や親たちを養うことも、とてもかないません
三人
それをわれらが知るものか
小平
お慈悲でござります、お情けでござりまする。どうかそれだけは
伊右
エエイ、やかましい、さるぐつわでもはめさっしゃい
三人
合点だ
ト書き 三人、立ちかかり、伴助、手拭いでもって小平の口をゆわえて
伴助
これでようござります
官蔵
まずは手始めに、びんの毛から抜きましょう
長兵
そいつはよかろう
ト書き 立ちかかって小平のびんの毛を皆々抜いて、煙草の煙を吹きかけ、指を折り、いろいろさいなむ
─── ◆ ───
ト書き 歌になり、花道より、お槙、序幕での乳母のなりにて、お供の若い衆に、隅田川の酒樽と、重箱詰めの風呂敷包みを持たせ、出て来て、門口にて
お槙
ハイ、ごめん下さいませ
三人
ア、誰か来たぞ
伊右
客が来たとあらば、その野郎、押し入れかどこかへぶち込め
三人
がってんだ、来やがれ
ト書き 小平を引っ立て、下手へ、杉戸の押し入れを開け、投げ込んで戸を閉める。よい頃合いに、宅悦が出迎え
宅悦
ハイ、どちらからお出でなされましたか
お槙
アノ、わたくしはご近所の、伊藤喜兵衛の屋敷より参りました。お取次ぎのほどを
ト書き それを長兵衛が聞きつけて
長兵
アア、伊藤からのお使いか。オオ、お乳母のお槙さんではないか。サアサア、こちらへ、入りやれ、入りやれ
お槙
ハイハイ、それでは、ごめんなされませ
ト書き うちへ入る
長兵
伊右衛門どの、喜衛門どのより使いが来ましたぞ
伊右
アア、さようか。これへ、これへ。まことにご近所にいながら、ご無沙汰にいたしております。ご主人にも、お変わりはないかな
お槙
ありがとうござります。主人の喜兵衛はじめ、後家の弓も、よろしくおことづけをと申しております。承りましたところ、奥様のお岩さまが、お産なされたとのおめでたいおうわさ。この品は、あまりにお粗末ではござりますけれど、お贈りいたしまする。お酒とお煮しめは、お夜とぎなされるお方へお慰みのため、差し上げますると、遣わされてきております。よろしゅうお頼み申しまする
ト書き 惣菜入れにお煮しめ、巻き樽、三重のお重にへ切り餅、白味噌、かつお節の類を詰めたものを差し出す。伊右衛門これを見て
伊右
これはこれは、いつもながら、ご丁寧に、まことにいたみ入ります。かたじけのう存じまする。お入れ物は、こちらの方より持たせ遣わしましょう。よろしく申してくだされ
お槙
かしこまりました。また、この特別な粉薬。これは実は、手前どもの隠居喜兵衛の家伝だそうでござりまして、調合いたされまする、血の道の妙薬。お岩さまにお上げなされて結構でござりますと、わざわざ私に遣わしましたものでござりまする
ト書き 懐より粉薬の包みを出す。伊右衛門、受け取って
伊右
これはお心遣いかたじけのう存じまする。さっそく用いましょう。これ、お前、白湯の用意をしてくれ
ト書き 七輪へ、別の土瓶に水を入れてかける。このとき、上手の障子の中にて、赤ん坊がしきりに泣く
お槙
オオ、ややさまが、たいそうおむずかり遊ばしまする。では、ご男子さまでござりまするか
伊右
さよう、さよう
お槙
これはおめでとう存じまする
ト書き このうち、やはり、赤ん坊がやかましく泣く
 
これはどうしたもの、大変むずかってお泣き遊ばしまするな。アア、おおかた蚤がちくちく刺すのかもしれませぬ。私が見てあげましょう
伊右
それはかたじけのう存じます。なにぶん、よろしゅう
お槙
ハイ、ハイ
ト書き 立ち上がり
 
これ、あなた方、先へ帰って、お槙はただいま帰りますと、旦那さまに申し上げてくだされ
若い衆
ハイ、かしこまりました
お槙
それでは、ごめんくださいました
ト書き 歌になり、お槙、風呂敷包みを持ち、屏風の中に産婦を見舞いに入る。若い衆は向こうへ入る。官蔵、長兵衛、惣菜入れを引き出し、酒樽を引き寄せ
長兵
伊右衛門どの、お始めませぬか
伊右
ハテ、せわしない手合いだ
ト書き 言いながら寄って、酒盛りを始める
─── ◆ ───
ト書き 角兵衛獅子になり、向こうより利倉屋茂助が大風呂敷を肩にかけ、質屋として出て来て、ためらわずに家へ入る
茂助
伊右衛門どの、お留守かな
伊右
うちにおる
茂助
これは珍しくお家じゃな。この間からご在宅かというと留守と言わっしゃるから、お留守かなと言ったらご在宅とは、お珍しいことでござりまする。もし、伊右衛門さま、この間からお貸し申しました、蚊帳にお布団、かひまき、代わりも来ないのに差し上げましたが、あの代物の元利、しめて三分二朱。サ、勘定なされるなり、品を返されるなり、かたを付けてくださりませ。まだその上、去年からの不義理な借りの五両の一件。ササ、かた付けてもらいましょう。さもないと、今日は、このご当地の組屋敷へ、断りを出ねばなりませぬ。ササ、どうでござりまする
ト書き 厳しく催促する。伊右衛門、思い入れあって
伊右
これはどういうこと。この方も取り込みがあるゆえ、挨拶も長引いてしまったが、いずれ近々のうちに
茂助
イエイエ、待て待て。イヤ、待てませぬ、待てませぬ。左様なら、仕方がない。当地の組屋敷へ、お断り申して
ト書き 行こうとする。皆々これを止める
長兵、官蔵
これさ、おいらたちが請け負うから、五両の一件はまたに
茂助
イエイエ、お前さま方のお請け合い。これまで一つも確かだったことがございませぬ。お構いなされますな
ト書き 行こうとするのを、伊右衛門、思い入れあって
伊右
こりゃ、待ちやれ
茂助
エ?
伊右
五両の勘定、致してやろう
茂助
エエ、左様なら、あの五両をですナ、お受け取りして、帰りましょう
伊右
イヤ、その代わり、金は無いが薬を渡そう
ト書き 薬の包みと鑑定書を残らず付けて渡す
茂助
モシ、これは何やらの薬の包み。これが五両のかたになりまするか
伊右
その唐薬は、民谷の先祖より伝来したソウキセイ。売り買いすれば十両。それ以上にもなる薬種。相違ない証拠はその添え書き。さる奥医者の鑑定書もある。不服ではあろうが利倉屋茂助。五両の代わりに、預かってくれ
ト書き 押し付けられ、茂助、よくよく見て
茂助
なるほど。お医者さま方のご印判の押してあるこの唐薬。そうおっしゃれば、違いもあるまい。しかし幸いわたくしの、下質を送る先の深川の金子屋の亭主が、いぜん薬種屋あがりですので、そこへ見せたその上にて
伊右
わずか五両だ。預かっておきやれ
茂助
そんなら、これはまあ、これで
ト書き 懐へねじ込み
 
さて、これから、入れ替えの代物、蚊帳と、布団を持って行きます。ごめんなさりませ
ト書き 立ちかかる
伊右
これはどうしたこと。まだその他に借り着の品を持って行くのか
茂助
ハイ、三分二朱の勘定が済まぬと、棚卸しのかたが付きません。ごめんなさりませ
ト書き 屏風の中へ入る。お槙が出て来て、茂助を止めて
お槙
これ、町人どの。産婦の居間へ入るとはぶしつけな。聞けばなにやら金子のかかわりとな。これ、これでおおかた、な。品はそのまま置いて行きなさい
ト書き 思い入れして、紙に包んだ小判一両を、すっと茂助に握らす。茂助、思い入れあって
茂助
ヤ、こりゃ、これは、小判
お槙
サ、産所へ聞こえるのはまずいこと。それではあなたさま、これでよいな
茂助
はい、言い分もございません。まことにこれは、おおきに、お世話さまでございます
伊右
何やらかにやら、たびたびのお心づけ。お礼の申しようもござらぬしあわせ
お槙
どうしてさようなご心配。ご無用に遊ばしませ。わたくしももうおいとまつかまつりましょう
ト書き 門口へ行き
茂助
そんならわたくしも、道までお供いたして。伊右衛門さま、唐薬のこと、下質へ見せた上にて、そのご返事を
伊右
なにぶん、預かってもらおう。これはお乳母どの。よろしゅう頼みます。大儀でござった
お槙
ハイハイ、皆々さまもごゆっくり。サ、茂助さんとやら
茂助
ハイ、どりゃ、おいとま申しましょうか
ト書き 歌になり、お槙、茂助と一緒に、向こうへ入る。
─── ◆ ───
ト書き 皆々残って思い入れ
長兵
これこれ、民谷どの。あの伊藤の屋敷からは、そなたの所へ丁寧に、たびたびの時節のお見舞い。一度ぐらい礼に行ったからといって罰も当たるまい
伊右
サア、そうは思っているがあの屋敷は、どうも拙者は世間の手前、行きにくい
長兵、官蔵
そりゃまた、なんで
伊右
ハテそれは、伊藤喜兵衛は高の家中。しかも、今あちらは町家にあって立派な屋敷住まい。この伊右衛門は鹽冶の浪人。それゆえどうも肩身が狭くて
両人
なるほど、それもあるわな
ト書き この時、上手の障子の中で赤ん坊が泣く。伊右衛門、それを聞いて
伊右
よく泣く餓鬼だ。蚤でも食うのか
ト書き 障子を開ける。この中には、釣りかけてある蚊帳、屏風、木綿の布団の上に、お岩が産後の様子で座っている。襟に竿を引っかけ、赤ん坊を抱き、あやしつけている。このうち、合方。伊右衛門、これを見て
伊右
これ、お岩。今日は気分は良いか、どうだ
長兵、官蔵
見舞いに来ました
ト書き お岩、思い入れあって
お岩
ありがとうございまする。産後でもあり、このところの不順な陽気。そのせいなのか、いつにもまして気分がすぐれず
ト書き 思い入れ。このとき、抱いた赤子の上に、立派な小裁の着物が掛けてあるのを、伊右衛門が見て
伊右
これ、お岩。その小裁は見慣れぬ着物。そりゃおぬしが縫ったのか
お岩
イエイエ、これは今、喜兵衛さまのお宅から、後家さまが内々に、私どもへ心づけ。どうぞ、おまえ、お礼に行ってくださんせ
伊右
アア、そうか。ハテ、あの家からは、気の毒なほど物をもらうが、どうも俺には気が知れねえ
長兵
それだからこそ、たびたび拙者が申すのはこのこと。以前は、以前。今は浪人民谷伊右衛門。かたき同士の義理を捨て、あの屋敷に行くのがよいじゃろう
お岩
おっしゃるとおり隣家のこと。どうぞお礼に行ってくださんせ
ト書き 伊右衛門、思い入れあって
伊右
なるほど、お岩が言う通り。コリャ、ちょっと、行かずばなるまい。しかし何としても俺一人ではゆきにくい
お岩
お前さまが行く気ならば、お二人を連れにして
長兵、官蔵
そうさそうさ、おいらたちがご一緒してしんぜよう
伊右
それならすぐに、思い立ったが吉日。行きましょう、行きましょう
両人
そうなさい、そうなさい
伴助
私もお供を致しましょう
宅悦
お留守は私がおりまする。ちょっとお礼にお出でなさいませ
ト書き このうち、伊右衛門、大小の刀を挿し、古い羽織を着て、したくする
伊右
イヤ、行くには行くが、まだ今日は飯を炊かずにいた。これ、てめえ、飯を炊いてくれねえか
宅悦
はい、はい、何でも致しますよ
伊右
しかし、あの押し入れの奴を逃がすなよ。これがあいつの、ふちかた棒
ト書き 宅悦に例の一本挿しを見せ、お岩を向いて
 
実は、この粉薬は、いま伊藤の屋敷から、お前へと持って寄こした血の道の薬。これを飲むがよい。家伝ということじゃ
ト書き 粉薬を渡す
お岩
さようですか、では、いただきます。いま、お乳母どのが、そのことをおっしゃっていました。こちらへ下さいませ。白湯が沸いたら飲みますので。もし、伊右衛門どの、早く戻ってくださりませな
伊右
すぐに帰るワ。ササ、行きましょう。これ、飯を炊くのだぞ
宅悦
心得ました
伊右
行ってくるぞ、お岩
お岩
アイ、必ず早く
伊右
なんでゆっくりするものか。サア、行きましょう
ト書き 歌になり、時の鐘。長兵衛、官蔵、伊右衛門、伴助も付いて、向こうへ入る。宅悦、奥へ。あと、合方、捨て鐘。お岩、あとを見送り、思い入れあって
お岩
常から邪見な伊右衛門どの。男の子を産んだといってもさして喜ぶ様子もなく、なにかと言うと、ごくつぶし、足手まといな餓鬼を産んでと、朝も夕もあの悪口。それを耳にするものだから、針のむしろのこの家に、生傷の絶えたこともなく。非道な男に添い遂げて、辛抱するのもととさんの、仇を討ってもらいたさ
ト書き 思い入れ。このとき、つむりに挿してあった鼈甲の、あつらえの櫛が落ちる。取り上げて見て
 
コリャ、これ、お母さまの形見の三光の差し櫛。ご道楽でなさった菊重ね。峰には古風な銀細工。貧苦の中でも離さぬは、どのみち産後のこの病気。とうてい命も助かりそうもないわしが死んだとき、せめても妹へ形見に送る、母より譲りしこの差し櫛。これより外にこの身についたものもなし
ト書き 思い入れ。このとき、赤ん坊がしきりに泣くゆえ、あやしつけあやしつけ、産所を離れ、適当なところへ来て、よろよろとして
 
アア、めまいがする。血の道のせいであろう。この粉薬。マア、これでも飲んで
ト書き 合方、虫の音、時の鐘。お岩、くだんの粉薬を茶碗にあけ、土瓶の白湯をつぎ入れ、飲み干して
 
オオ、これでちょっとは気分も治るだろう。どりゃ、大事なややを
ト書き 抱き上げようとして、またぞろ、にわかに病いがひどくなる様子にて、苦痛の思い入れ
 
ヤヤ、今の薬を飲んだらしきりに、いつもより気分が悪く。ヤヤ、コリャ、顔が上気して、さらに気持ちが。アア、苦しや、苦しや
ト書き 思い入れ。宅悦、奥から何も知らずに出て来て
宅悦
モシモシ、お汁でもご用意しましょうかな
ト書き 言いざま、お岩を見て
 
これは大変。どうなされました。お前は、それ、それ、顔も変わって、どうやらご様子が
お岩
今の粉薬。飲んだらすぐに、アア、苦しい、苦しい
宅悦
なに、粉薬を飲んだら苦しいとは。薬をお間違いではないか? マアマア、風に当たっては悪い。ササ、こちらへおいでになって
ト書き いろいろ介抱する。赤ん坊が泣く。お岩、苦しむ。宅悦、あちこちうろたえているうちに、押し入れの中で、戸をようやく開けて、代役の小平が出ようとするのを見つけて
 
どっこいどっこい、逃がしはせぬぞ
ト書き 戸を閉めて、思い入れあり
 
一方をふさげば、二方、三方。イヤ、とんだ留守を頼まれたものだ
ト書き 思い入れ。お岩、苦しむ。かけ寄って、介抱する。この見得。時の鐘にて、大道具がゆっくり回る
 

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