序幕-1 浅草観世音境内の場

ト書き 舞台は、正面が額堂(注、長押(注に座元の紋の付いた団子提灯をかけ、茶店のしつらえ。上手(注には楊枝店があって(注、ここでお袖が、古中形の浴衣を着て、楊枝をこしらえている。かたわらに庄三郎が乞食のなりで(注、飯盛りの器を枕にして寝転がっている。額堂の中には、文嘉が通人のなり、柏屋彦兵衛は店者のなり。下手(注の腰かけには、猿寺の桃助、砂利場の石が、遊び人のなりをして、お茶を飲んでいる。お政は茶屋のおかみさんで、茶をくんでいる。双盤大拍子(注にて、幕が開く
彦兵
おかみさん、もう一杯おくれや
お政
ハイハイ、だいぶ喉がお渇きのようですね
彦兵
えらく走って来たさかいに、喉がかわいてならぬわい(注
文嘉
おかみさん、わしもちょっとくつろいでゆくよ
お政
ハイハイ
ト書き  お茶をくんでくる
 
桃さんももっとお茶、あげましょうか
桃助
かかとで踏んづけてくれや(注
おい、そのへんにしとけや。のぼせ上がりやがって。こら、下手に出てると、飯を食わせろと言いかねない。いいかげにしろや。振舞いじゃねえんだから
桃助
うるせえな。振舞いもくそもあるか。お茶代は節句の日に水引でくるんで持ってくらあ
体裁のいいことを言いやがる。観音参りの長芋じゃあるめえし(注
ト書き 桃助、お袖の方を見て
桃助
おい、お政さん、あそこのあの子はいつから出てる。おい、石、見ろや、素敵な美人じゃねえか。
すごくいい女だなァ。おらァ、初めて見たぜ
お政
そのはずさ。あの子は昨日から、頼まれて出てるんだがね、楊枝店にはもったいないぐらいだ
桃助
ちげえねえ。粂三くめさにそっくりだぜ。イョ! 大和屋、大和屋(注
止せや、可哀そうだ。からかうんじゃねえよ
ト書き 文嘉、彦兵衛、お袖を見て
文嘉
なるほど鮮やかな美人だの。おう、ありゃあ、なにか? 月三両の三月縛りとでも言わなけりゃ、話が分からんのお(注
お政
なになに、そのくせそうでも無いようでござりますよ
彦兵
ほんに驚きだねえ。なんとか花代三本ぐらいで遊べないもんかねえ(注
お政
そうねえ、できないこともないかもしれないよ
そんならば、地獄はしねえのか(注
お政
どうして、まあ、そんなことはしねえよ
世間体が悪いからって、オラっちには隠すのかいな
お政
まあ、なにを隠すもんかい。本当に身持ちが固いんだとさ
おめえのように白々しい嘘をつく者もねえもんだな
桃助
年じゅう大筒の額の下で商売をしてるってんだから、鉄砲は当たりめえよ(注
そういや、鉄砲といえば、奥州の猟師が、飛んでもねえミミズク(注を生け捕ってきて、奥山(注あたりで見せるそうだぜ
桃助
そうさ、この絵図がそれよ
ト書き 柱にかかっている絵図を取って見せる
彦兵
これか。どえらい代物だな。
文嘉
なんだ。背の高さが五尺八寸で、胴の大きさが四寸二分って言ったら、たいそうなミミズクだの。
ト書き 皆寄ってきて見る
─── ◆ ───
ト書き 双盤、太鼓にて、花道から、大小刀を挿して袴姿で老けたこしらえの伊藤喜兵衛、振袖姿のお梅、乳母の恰好をしたお槙、医者の尾扇、その他、使い走りの若い衆を従えて、花道にて
喜兵
どうじゃ、お梅。今日は、だいぶ気分もよさそうじゃが、あんまりまた無理をして歩くのもよくないじゃろ。籠など申しつかわすか
お梅
いえ、いえ、私はやはりこれでよろしゅうござりますけど、お爺さま、さぞ、もどかしくお思いになられていると存じまして
お槙
さあ、何事につけそのように気遣いをなされるのが、そもそもあなたのご持病なようなもの。今日はご保養がてらのご参拝、気のすむままにお歩き遊ばせ。で、お帰りになられるときには、また何ぞ、お気に入ったお人形でも、大旦那さまにおねだりあそばしませ
尾扇
さよう、さよう、何にせよこのご病気は、憂さをお晴らしなさることが肝要でござります。ちと、あそこにてご休息なされるのが、よろしゅうございましょう
喜兵
いかにも。左様に致そう。さ、さ、来やれ、来やれ
ト書き みなみな舞台へあがり、腰かけに座る
お政
いらっしゃいませ
ト書き お茶と、煙草盆を出す
お槙
ご覧あそばしませ。こんなふうにご参拝の人々がたえずお集まりになるような観音様はありませぬ。今日は私も一緒に願かけを致しまするので、お梅様も、かのお方に早う・・ さあ、早く御利益があって全快なされますように、ご信心あそばしませ
お梅
わたしがこれほど想っていても、あちらのお方には、他所にまたどのような・・ おみくじでも引いてみようかのう
お槙
分かっております。わたしが何もかも承知しておりますよ
尾扇
いやまた、数多くの医書を開き見たこの尾扇なれども、娘っ子の症状を見定めるには乳母に勝る者はない、と、千金方(注にもそう論じてござるて。まったくに、これは恋煩いに違いありませぬ
ト書き お梅、恥ずかしそうに思い入れ
お槙
また、尾扇さま、そのようにあからさまに
桃助
石、聞いたか。あのお嬢様は恋煩いだとよ。おおかたてめえを想ってるんじゃねえのか
ちげえねえ。恋の煩いなら、滝に打たせてみるがいい(注
彦兵
大事な銭金を使ってさえ、ようでけんものが、女子の方から煩うほどに慕われるとは、どこの野郎か。ええ星の下で生まれた運のいい男やな
文嘉
わしでよければ、お寝間のお相手といきたいもんだね
桃助
よう、乙なこと言いなさるじゃねえか
喜兵
たとえ恋煩いであろうとも、気に入った男であれば、金にものをいわせても婿に致しつかわすが、ハテ、現在、主君お気に入りの師直様のご家来のこの伊藤喜兵衛の、たった一人の孫のお梅。ナニ、尾扇どのも乳母も、ともどもにお梅の胸中をうけたまわった上では、今後、いかようにでも取り計らってつかわすので、そう思うていなされ
お槙
かしこまりました。このことにつきましては、また、この私が追って申し上げることになりますでしょう
尾扇
それがよろしゅうございます。どんな望みを言い出されようとも、何ひとつできないことはござらぬでな。ご気分が少しでもすぐれないといえば、ご静養のために、四谷町あたりに別荘をお構えなされ。なんであってもお梅さまの心次第でござりまする
喜兵
イヤ、そのとおり。ご主人の師直公はできるお方であるといえ、そのご武勇によって家来の我々に至るまで、かような、栄耀栄華のもとに毎日を送れるというものじゃ。見さっしゃい。若君に敵対いたせば、鹽谷殿のように、家も国も失い、家中の者どもも、散り散りばらばらに相なりおる。そのような軽率な主君にお仕えいたすも、これ因縁。それを思えば、まことに幸せこの上ない有り難い境遇ではないか(注
尾扇
さようでございまする
ト書き これを聞いて、お袖は無念のしぐさ。こもを被った庄三郎も額を上げて無念の思い。そして鳴りものになり、向こうより直助と藤八が藤八五文の薬売りの格好で、呼びかけながら出てくる、花道にて
─── ◆ ───
藤八
コレ、直助。てめえ、今日は本郷から板橋の方を流すって言ったじゃねえか。それなのにまたなぜ、ここを流すのだ
直助
ちょっとこちらに用があったもんでね、こっちの方へ向かって来たわけさ
藤八
この野郎、隠し立てするな。知ってるぜ。てめえこの頃は、山の女(注にかかりきりで、売り上げも親方へ入れねえそうだが、そんなことをしてもらっちゃあ、他の売り子にしめしがつかねえ
直助
何さね、あたしゃあ前の月より、大山参りの道者を当てにして、川崎の方を流してたんだわ。そこの売り上げを谷中まで持って行けるものか。そのうち一度は持って行くさ。
藤八
えらく財布の紐を固くきめてやがる。きめるって言やあ大三ツ(注の呑み屋で、一合ほどきめようじゃねえか
直助
そいつもよかろう
藤八
サアサア、行くべえ行くべえ。藤八、五文
直助
奇妙(注
ト書き 呼びたてながら舞台へ来る、お政、それを見て
お政
一服煙草をのんでおいでな
直助藤八
ハイハイ
桃助
オイ、その薬、一つくんなよ
直助
ハイハイ
オイ、ここへもひとつくんな
藤八
ハイハイ
桃助
オイ、こりゃあ何に効くの
藤八
第一に癪つかえ、頭痛、めまい
直助
腎精を増し、脾胃を補う。(注岡村藤八。オランダより伝法の品でござります
文嘉
腎精を増すとは耳よりだね。オレにもひと包みくんな
直助
はいはい
彦兵
わしも求めようかの
藤八
はいはい
両人
これは有難うございます
お政
腰かけて行きなよ
直助
こちらは今日はだいぶお取込みのようでございますから、わたしはおもんさんの店で一服やりやしょう
藤八
また商売女にかまけるか。そんならオラあ、大三ツで待ってるぜ
直助
気前のいいところを見せて、いい酒を二合半ほどくらうことにしよう
藤八
そんなら早く来い。待ってるぜ
直助
あいよ。そのうち行くよ
ト書き 呼びかけながら下座へ入る。直助は楊枝店の方へ来て
直助
お袖さん。おめえ昨日からこの店へ出てるそうだの
お袖
それはねえ、この店のおもんさんという人に頼まれて、それで私の名前もやっぱりおもんといって、昨日からこの店へ
直助
おおそうかい。そんなら、藤八、おもん、奇妙、と、逃れられぬ仲。まずは一服やらかしましょう。きせるを一つ、お貸しな
ト書き 直助、腰をかける
お袖
さア、のみな
ト書き お袖、きせるを吸い付けて渡し(注、アンカを出してくる
─── ◆ ───
ト書き 神楽になり、向こうより宅悦があんまの成りにて出てきて、すぐに舞台に上がる
宅悦
おかみさん、今日は賑やかでございますな
お政
オヤ、宅悦さん。さっきからぬしが待っておいでだよ
文嘉
時に、あんま。おつりきなヤツがいたら、ちょっぴり行きてえんだがの
彦兵
こちらにも恰好な代物を、ひとつ、頼みますよ(注
お政
旦那方にお連れ差し上げなせえ
宅悦
よいのがござりますとも。私の所は、あんまと灸をすえるのが商売で、その方面の手業で致しますから、おいでなされたら、年増を囲いたければ大をすえる、中年増なら中、娘がよいなら小をすえます。また、ぐっと年増がよろしければ、袋もぐさをすえてくれ、とおっしゃりますれば、そのつもりで呼びますので
文嘉
なるほど、そいつは、奇妙
ト書き 手を打つ
直助
ご用かね
文嘉
何さね、内緒のはなしよ。いずれにせよわしは大にしよう
彦兵
こっちは小にして欲しい
宅悦
まずは見てからのご相談になさりませ
ト書き これを聞き
桃助
オイ、あんまさん。あんたの所では地獄をするの
そんならオラっちも買いにゆくぜ
桃助
どうりでまたそんな話をしたっけ。ずるい坊主だぜ
宅悦
どういたしまして、私の家でそのような事をするはずが。もっとも灸のお店の看板に、女子が閻魔へ灸をすえている図があるゆえ、そこでお客さん方が、じごくへゆこう、じごくへゆこう、とおっしゃられましてな。ひと月を十日づつに仕切って、一分二朱ぐらいでお出でなさるを、これを十日ずつのじごくと申して、わりはお得でございます。また、大の方がお好きなら、その熱いことはさながら焦熱地獄。とりわけ大などは良く効きますて
文嘉
そんならちょっとすえてもらおうか
彦兵
わしも腰が軽くなるように、焼いてこようか
文嘉
そんなら、かみさん、帰りに寄りやす
お政
お待ち申してますよ
宅悦
サア、ご案内いたしましょう
ト書き やはり鳴り物にて、宅悦を先に、文嘉、彦兵衛みな立ち上がり、下座へ入る。桃助と石がささやき
桃助
何にしても、あいつが中で床を敷いているにはちげえねえ
行って騒動起こしてやるべえ
桃助
サア、来い、来い
ト書き 両人、あとを追って、下座へ入る
─── ◆ ───
喜兵
さてもやつら、なにを申しているのやら、いったいぜんたい分からぬ事ばかりじゃな
尾扇
いやもう、がさつな者どもでございます
お槙
ほんと、私と致しましたことが、大奥様から、ご楊枝を買うよう仰せつかったことをすっかりと忘れていましたでございまする。幸いあそこの店にございますが、どのようなものがよろしゅうござんしょうか。お慰みに、お梅様、ご覧なすってくださいまし
お梅
女子どもへもお土産に、いくつかあつらえることにしましょうか
喜兵
オオ、そうしやれ、そうしやれ。お前も一緒にあそこへ参って見てやりなさい
ト書き みなみな楊枝店へ来て
お槙
お土産はこのようにいたしましょう。ふしの粉に、羽楊枝と、房楊枝、と。(注ご覧あそばせ、江戸香という歯磨きにも、やはり、ごひいきの団十郎の似顔が描いてござりまする
お梅
尾扇さん、おまえも歯磨きなど、お取りしなしゃんせ
尾扇
イヤイヤ、愚老はちょっと心願の儀がございましてな、楊枝、歯磨きなどは絶ち物なのでござりまする。あなたのお土産には、そうさな、それ、あそこにある役者の紋所が描かれたのはどうでござりますか。おおかた、梅幸か団十郎なぞがお気に入りましたでしょうな
お槙
ほんに、そのようなものがよろしゅうございましょう
喜兵
何にせよ、これ、女子、いろいろと取り揃えてここへ出しなされ
尾扇
ササ、早くご覧にいれなさい
ト書き このとき、お袖、そしらぬ顔をしているゆえ
 
この女めも、何をうっかりしておるのじゃ。早く出さぬか
お袖
もし、あなた方はたしか、高のご家中でござりまするな?
喜兵
ハテ、この女、商売もせずに、妙なことを聞く女子じゃ。いかにも、わしらは師直公の藩中の者でござるが
お袖
さア、それであればお売りできませぬゆえ
喜兵
高の家中には売れないとは、そりゃまたなぜ
お袖
あまりにご威勢が強いゆえ、お求めなされたその上で、気に入らなかったその時は、またどのような祟りを受けないものでもないゆえに、それでどうにも売られませんわいなア
喜兵
ハハア、さては、そち、鹽治の浪人の身内の者とみえるな。ええわ、売らぬと申すなら買うまい。軒を並べて他にいくらでもあるわさ
お袖
他所でお求めなされませ
尾扇
それをお前に言われるまでもない。こいつ、出過ぎた女めでござるな
ト書き お袖、無念の思い入れ。直助、出てきて間に入り
直助
コレサ、どうしたもんだ、そんな愛嬌のねえ。イエだんな、これはこういう訳でござります。この娘は昨日からこの店に雇われて、替わりに出ているわけでして、楊枝の値段もろくろく存じませんゆえ、それでただいまのように申し上げたのでございます。決してお気になれまするな
ト書き 詫びる
尾扇
イヤイヤ、まかりならぬ。余りと申せば失礼なやつ
直助
そこをどうぞ、ご堪忍をなさって下さいませ
尾扇
何をいらざるかばいだて。おぬしもいらぬ口出しするやつじゃな
喜兵
うっちゃって置きなされ。たとえ鹽治の浪人が、どれほど我がご主人を恨もうとも、最近など、足利家の格別のお取り扱いにて新しい土地をご拝領なされ、お屋敷替え。かくもご威勢のご主人へ対して、食い扶持も失った素浪人ども、せずともよい我慢も、貧苦からの負け惜しみであろう。イヤハヤ、馬鹿な女めではあるわな
ト書き これを聞いて、庄三郎、無念の思い入れ
尾扇
おぬし、屋敷まで引っ立てて行く奴なれども、今日はそのままに差し置くぞ
お槙
せっかくのご参拝。もう旦那様方もお許しなされて下さいませ
喜兵
つまらぬことで、参拝の妨げ。ササ、来やれ、来やれ
ト書き 大拍子になり、喜兵衛を先頭に、お梅、お槙、尾扇、若い衆もついて下座へ入る
─── ◆ ───
直助
おい、お袖さん。坊主が憎けりゃ袈裟までと、お前が言うのももっともだが、あんな風に言ってみた日にゃ、すぐにかたきと気付かれるわな。しかしかくいうわしも、以前はおめえの親御さんの四谷左門様と同じ家中の奥田将監のしもべの直助。鹽治様のご短慮とは言え、ご家中はみなちりぢりに。とるに足らない小もののわしまでも今じゃ藤八五文の薬売り。俺はまだしも、左門様の娘さんのあんたが、今では楊枝店の雇われ女。これも時の世とあきらめて、貧しい暮らしを共々送る気はござんせんか?
お袖
少しのかかわりもない小もののそなた。それほどまでにこの身を思って
直助
思っておるさ。屋敷にいるその時から、俺がおめえを付け廻していた事、まんざらおめえも忘れはしまい。どうだ、色なりと、女房なりと、なってくれる気はねえか(注
ト書き 直助、お袖に寄り添う。お袖、ツンとして
お袖
以前はそなたはしもべの直助。わたしがととさんの左門様と将監様は同じ格式の家柄、その小ものの、身分の軽い者でありながら、左門様が浪人したからと見くびって、わしを捕えようとは、またいやらしい。聞く耳は持たぬわいの
直助
なんだな。軽いの重いのと、燈篭の仏さまに願掛けじゃあるめえに(注、元は小もののしもべにしたってよ、運が向きゃあ薬売りでもなあ。コレ、二十や三十の元手は、これ、こうして持っているワ
ト書き ふところより金を出して見せ
 
おめえがうんとさえ言えば、俺もまた、三度飛脚(注に狐がついたみたいな成りをして歩きゃしねえは。何ぞ乙りきな商売を見つけて、おめえだってこんなところへ出しちゃあ置かねえ。どうだい
ト書き お袖にしなだれかかる。お袖、立ち上がって
お袖
たとえ裕福に暮らす人であっても、そぐわぬ人と一緒は片時もいやだワ
直助
おめえ、まだお屋敷暮らしのくせが抜けねえな。それじゃあ俺に恥をかかせるようなものだ。お袖さん、おい、どうかね
ト書き お袖の手を取り、寄り添う
お袖
エエ、知らぬわいな
ト書き 振り切って、下座へ入る。直助、後を見送り
直助
あんなにまた強情な女もねえもんだな。口が酸っぱくなったワ
ト書き 茶店の方に来て
 
茶を一杯おくれ
お政
アイ。なあ、藤八さん、今聞いたけどあんたの名は直助さんというみたいだけど、どっちが本当だえ?
直助
何だな、藤八というのは、この薬を売っている親方の名で、俺の名は直助さ
お政
そうかい。それでさっきから聞いてりゃあ、あの子をくどいてるみたいだけど、馬鹿馬鹿しい。何をあんなに口をすぼめて遠慮がちに言うことがあるものかい。あの子はああ見えても、色を売りに出てるわな
直助
何? 色を売っているとは
お政
それがね
ト書き 耳元でささやき
直助
そんなら真面目に見せておいて、やっぱりやっておるのだな。それで、あの娘と出来りゃア、ああ、奇妙
お政
口では立派なことを言っていても、暮らし向きは火の車だそうだよ
直助
それならどうぞ、今夜すぐにでも
お政
それだと言っても、その恰好じゃあ、入口で追い返されちまうよ
直助
そりゃあ、すっぱりと着替えて来るわな
ト書き かすみたる大拍子。そうばん太鼓になり、向こうより、升太がとっくりを下げ、樽拾いのいでたちで出てくる
升太
大三ッ屋の酒、大三ッ屋の酒はよろしゅうございますか
ト書き 呼びかけながら舞台へ来る
お政
なあ、直さん。女のところへゆくんならどうせ入用だから、五合酒を持って行ってもらおうかの
直助
いいようにしてくんねえ
お政
コレコレ、御用聞きさん。藪のあんまさんの所へ、いい酒を五合持っていってくんな
升太
エエ? あの地獄の看板が出てるところかい。口入れ屋のあんまさんのところかい
直助
なに? あんまで口入れ屋もするのか
お政
さようさ
升太
ちょうどおめえのように怖い顔した閻魔様が、灸をすえているからさ
お政
なにを言うんだ、この小僧は。お客をつかまえて
升太
なにがお客なもんかい。この人は藤八五文の薬売りだ
直助
馬鹿言うな。これでも晩になれば地獄宿のお客さんだ
升太
ア、そんならおめえ、あそこの中へ行くのか。いい歳してよせばいいのに
直助
この小僧も色気のねえことを言う奴だ
お政
そんな憎まれ口叩いてないで、早く酒を持って行きな
升太
持っちゃあ行くが、ただで置いていけというのは勘弁してもらおうか
お政
ちゃんとした口をきくもんだよ。人も聞いてるわな。小僧のくせに
直助
ここに銭が一本あるから、肴も適当にみつくろっておいてくんな
ト書き 銭を四百文渡す。お政、それを取って
お政
これじゃあ多すぎるわな
直助
余った金は茶代よ。小僧、早く持って行ってくれ
升太
そんなら銭はここから取るんだね
お政
エエ、しつこいねえ、早く行きな。番頭さんに言い付けるよ
升太
言い付けてみな。味噌を買いに来てもまけてやらねえよ
お政
さあ、持って行きな
ト書き 銭を数えて、升太にやる
升太
それなら行って来ようか
 
大三ッ屋の酒はよろしゅうございますか
ト書き 呼びかけながら下座へ入る
直助
忌々しい餓鬼だ。ドレ、俺も出直して来よう。あと、これもあんたにやっておこう
ト書き ふところより、二朱玉一つ出してお政に渡し
 
うまく頼んだぜ。けしかけるのが肝心だよ
お政
そこに抜かりがあるものか。うまく口車に乗せて、手なづけて
直助
なんとか今夜でのぼせ上がらせて
お政
色にするとも、女房に持つとも
直助
奇妙。ドレ、行って来ようか
お政
直さん、早く出直して来なよ
ト書き お政、帯の間から、もらった二朱と銭を出して
 
口はきいてみるもんだ。酒代の残りと客引き代で三百文。なかったものと思って、下駄でも買おうか。イイヤ、やっぱり米屋の借金を払ってしまおう。さて、払いに行って来ようか
ト書き お政、下座へ入る
─── ◆ ───
ト書き そうばん太鼓になり、花道より、づぶ六、うんてつ、目太八が非人の成りで、泥太が乞食坊主の成りで、編み笠を持った浪人者の左門を、皆で引きずりながら出てくる。少しあとから、黒羽織で大小刀を挿した浪人の伊右衛門。非人の皆々が花道にて
皆々
来やがれ、来やがれ
づぶ
ふてえオヤジだ。こいつがほんとの乞食のうわまえ取りと言うのだ
皆々
どうでもいいから引きずってゆけ、引きずってゆけ
ト書き 皆々、左門を捕えて、舞台へ来る
泥太
オラ、おめえはどこの奴か知らねえが、渡りを付けておいらたちの仲間になるにもなあ、金目のものがいるんでえ
目太
おめえもただのワルじゃあるめえ。いい歳しやがって、馬鹿なやつじゃねえか
うんてつ
青天井に草むしろ。一年中、寝床は行き当たりばったり。コオロギにも付き合いがあらア
づぶ
ましてや観音様の境内っていやあ、土ひとつかみも米一升のご繁盛の土地。れっきとした敷石の上の住まいだワ。サア、だれに渡りを付けて、この境内で物乞いをしやがるのだ
泥太
何にもいうこたあねえ。頭の所へしょっぴいてゆけ
皆々
それがいい、それがいい
ト書き 皆々、寄ってたかって左門をこづき回す
左門
お前さんたちの中に、そのような作法があると申すとも存ぜず、ここで物乞いを致したのは、わが身の不覚。何分にも容赦致してくだされ
づぶ
何、容赦しろで済むものか。まあ、お前がもらって溜めた銭をここへ出せ出せ
左門
イヤ、往来の人々の援助を受けようと思っただけで、いまだに一銭も受け取ってはおらぬ
目太
こんな奴をうっちゃっておけば、仲間への決まりが悪いワ
うん
見せしめに、着物も何もかもひっぺがして
泥太
筋骨抜いてやれ
皆々
それがいい、それがいい
ト書き 皆、寄ってたかって左門を打ち叩く。このとき、伊右衛門、この間に入り、皆々をよろしく引き離して、左門をかばう。適当な時に、喜兵衛、お梅、尾扇、お槙が出てくる
伊右
イヤイヤ、ちっと待て、待て
ト書き 左門、伊右衛門と顔を見合わせ
左門
ヤヤ、そなたは
ト書き 左門、思い入れ
づぶ
もしもし、あなた、お知り合いの人かどうか存じませんが、わしらの渡世の邪魔をするこのオヤジを、なんであなたが止め立てなさるのか
泥太
仲間の法を破られちゃあ
目太
おいらたちの世渡りができませぬ
うん
知り合いだろうが何だろうが構うこたねえ
皆々
ひっぱがせ、ひっぱがせ
ト書き 皆でおどりかかる
伊右
マアマア、待ちなされ、待ちなされ。サア、自分があえて知っている人と申すわけではないけれど。それそれ、拙者も今日少し祈願があって、この観音様へ参拝いたす道すがら、詳しい様子は存ぜぬが、何やら、一人を取り囲み、手籠めに致しておる様子。もちろん、ご当人も思い違いと存じ申しておられればこそ、手出しもいたさぬようにお見えになる。しからばこれにて正しいかどうかは分かるようなもの。ご老体のお人で、見れば気の毒に存じるゆえ、このお人に成り代わり、武士たる私がその方たちに対してお詫びいたすので、これで勘弁いたしてはくれまいか
づぶ
何、勘弁しろと。なんぼお侍さまでも、乞食の法はご存じありますめえ。もらい溜めた銭を出させた上で、身ぐるみ剥がして持って行かにゃあ
皆々
仲間の法が立ちませぬワ
伊右
なるほど、そのようなこともあろう。しからばこう致そう。ここに少し金を持っているので、この侘び代と致して差し上げるゆえ、これで許してやってくだされ
ト書き 伊右衛門、鼻紙入れより一朱金を四つ出し、これを非人たちにやる
左門
イヤ、その金を借り受けるわけには
伊右
はて、この場はすべて拙者にお任せを
ト書き 思い入れ
づぶ
やあ、これ、この旦那から一人一朱ずつ
皆々
これは、有難うござります
づぶ
イヤハヤ、何よりのお裁きでござります
うん
身ぐるみ剥いでも銭一本にもならない所へ、あなたがお出でなすったばかりに。オヤジも幸せ、こっちも幸せ
泥太
他の奴らが来る前に
目太
弁天山で一杯やろうか
皆々
それがいい、それがいい。ええ、有難うござります
ト書き 皆々、下座へ入る。
─── ◆ ───
ト書き 左門はあたりを見回し、思い入れあって
左門
ご覧の通り、今は落ちぶれたこの身の上。ご親切の限りかたじけのうござる。ただいまお借りした金、明日きっと返却いたすでござろう
ト書き 行ってしまいそうになる。伊右衛門、左門の袂を引き
伊右
アイや、ちょっとお待ちくだされ
ト書き 三味線のはやし、楊弓の音になり、伊右衛門、手を地につかえて
 
これはあなたのお言葉とも存じませぬ。舅は親なり、婿は倅なり。お岩と別れましたとはいえ、あなたは私のまさしく実の親
左門
さあ、それゆえにこそ、今の金、借りたくないと存じていたのだ
伊右
そりゃまた何ゆえにそのような
左門
いったん婿舅の縁組は致したれども、すでに娘のお岩を当方で引き取っているからは、婿でもなく、舅でもござらぬゆえ
伊右
左門様、なぜお岩を返して下さらないのですか。いまでも、互いに飽きも飽かれもしない仲。特に、このほど懐妊いたし、子まで設けた二人の仲。何があなたのお気に入らないことやら
左門
そりゃ、ご自分の心にお聞きなされ。もっとも、娘お岩めも、心得違いから二人馴れ合い、親の許さぬ夫婦仲。結局は、やろう、貰おうと、ちゃんとした媒酌人もなけれども、そりゃ、恋の道ばかりは特別なものと、そのまま捨てて置いたが、気にしなさるか。婿のそなたの根性が、舅の俺の気に入らぬ
伊右
左門
とまあ、申す訳は、いまだご主人がご繁盛のころ、お国元にて御用金が紛失。その金の預かり人は、早野勘平の親の三太夫の落ち度ということになり、三太夫は切腹して果てた。その盗人をこの左門、よく存じているけれど、紛失の詮議中にお家の騒動。それゆえとうとうそのままになり、何もかも言わずにいるのは我が身の情けゆえ。それゆえ、娘を添わせるわけにはいかぬ
ト書き ここで伊右衛門、むっとして
伊右
黙らっしゃい、左門殿。いま、そこもとは婿でもなく舅でもないと言いよったぞよ。ならば、赤の他人でござるぞよ。ならば、その赤の他人の伊右衛門に向かって、ずけずけと物いわっしゃるが、して、何か手前が盗んだという証拠でもござるか
左門
ハハハハハ。証拠などと呼ばわるならば、自分の悪事を自分の口から白状致しているようなもの。以前、娘の所へ結納の帯代にと送られてきたその金。一両一両にお家の刻印がござったぞ
伊右
左門
それも言わぬが、舅の厚意。受け取った金をそのまま返却いたしたこと、貴様、覚えがござろうがな
伊右
イヤ、あの金は配分の金
左門
言わっしゃるな。いまだお家が騒動にならぬ前。なんで配分などするものか
伊右
サア、そりゃあ
左門
辻褄の合わぬ言葉のはし。それゆえ娘は、エイ、添わせるわけにはゆかぬ
伊右
では、どうあっても
左門
今の借りはきっと返すが、お岩を返すことはまかりならぬ
伊右
ならばいいわ。結局、舅と思うがゆえ、言葉を尽くし、頭を下げて、持ち上げればつけ上がり、往来の人に物乞いして食うに事欠くような分際で、心が違うの、気に入らねえのと、やせ我慢もその貧乏からに違いない。貢いでやろうと思ったのに、身のほど知らぬ老いぼれめ
左門
身に錦の刺繍を纏おうとも、道義に反する裕福など、望むものか
伊右
なんと
左門
ドリャ、帰宅いたそうか
ト書き 歌になり、かすんだ双盤、左門は花道へ入る。伊右衛門、あとを見送り
伊右
この身の悪事に気付いた左門。露見致せば後日の妨げ。もはや生かしておくわけには・・ そうじゃ、あとを追っかけて
ト書き 双盤の音が速くなり、伊右衛門、左門を追いかけて向こうへ入る
─── ◆ ───
ト書き 喜兵衛、お梅、お槙、尾扇が出て来て、伊右衛門のあとを見送り、思い入れあって
喜兵
今の男はたしかに鹽治の浪人。しかし、もう片方のあの若い方の浪人は、以前の主人の鹽治を思わない様子。それであれば、なんとかこっちに引き込み、ご主人へ推挙し、何か敵方の様子を聞き出すにはうってつけかもしれぬ
お槙
そしてお梅さまのご病気も
尾扇
相手はやはり今の浪人
お梅
ほんにいとしいお方
喜兵
ト書き 思い入れ。お梅、顔を隠す。少しまえから、うしろに庄三郎が、手拭いで頬かむりしてコモを着た以前のなりで様子をうかがっているが、このとき、出て来て、喜兵衛の前へ来て
庄三
おめぐみお願い申し上げます
ト書き 器を差し出す
喜兵
ご参拝の帰りじゃ。持ち合わせをやりなさい
ト書き お供の中間が銭一文を出して
中間
それ、これをやるぞ
庄三
ははあ、ありがとうございます。ご大家の旦那様、ますますご繁盛で、その上、お目出度いことだらけでござりますな
喜兵
何が目出度いと
庄三
さきほど、よそでちょっと承ったのでございますが、あなた様のご主人様はお屋敷替えをなさると聞きました。さだめしご首尾の良いことでござりましょうが、いずれのあたりへのお屋敷替えでござりますか
喜兵
はて、非人のくせしてそれを聞いてどういたす。して、拙者の主人が誰なのか存じておるのか
庄三
エ・・、イエ、どなた様なのやらそこは存じ上げませんが、あまりのご出世のお目出度さ、むさくるしい非人の我も、せめてあなた様がたのお名前でも承りますれば、我が身の守りにでもなりましょうかと存じまして
喜兵
いかにも。主人のご出世をそれほどまでに目出度いと喜ぶなら、非人であってもまんざら憎くはない。申し聞かそう。手前の主人は、近頃の出頭人の第一、高野師直様。このたびの屋敷替えは、鎌倉の花水橋の向こう岸、葛飾郡と申すところに新規の土地を拝領し、そこに新しい屋敷が建つのじゃ。家老や用人は言うに及ばず、中間、下々にいたるまで給金の増額があっての、いやもう、ことのほかの大出費じゃ。ご威勢とはなんとも大変なことなのじゃ
庄三
ええ、それでは、お屋敷は花水橋の向こう、葛飾郡に新たな屋敷。そこが大名屋敷でござりますか
喜兵
おお、そうさ。すなわち、そこが、大名屋敷と定まるのじゃ
ト書き 喜兵衛、うかうかと話している。庄三郎、これをいちいち聞いて思い入れあって、そのうち、さっきもらった器の中の銭を、喜兵衛に見えないように、あたりへ捨てる。尾扇、これを見つけて
尾扇
ヤイヤイ、この乞食野郎。せっかく旦那様がおめぐみなされた銭を、なんでおのれは投げ捨てたのじゃ。ご利益を知らぬ罰当たりな奴でござるワ
庄三
なぜ私がそのようなことを
尾扇
しかしたった今、このわしが見ておったぞ
喜兵
なんじゃと、めぐんでやった銭を捨てたと。ははあ、分かった。どうりで詳しく屋敷の様子をしつこく聞きたがると思ったが、察するところ、おぬし鹽治家の浪人だな。非人に化けてご主人を付け狙おうとは、身のほど知らずな
尾扇
さようさよう。たかが非人の分際で歯向かうとは、屋敷へ引っ立てて拷問して、一味のやつらの名を白状させん
ト書き 襲い掛かる。庄三郎、ちょっと立ち廻って、尾扇を見事に投げる
喜兵
ヤ、非人に似合わぬその腕前
ト書き 刀を抜きかける。庄三郎、器を出してそれを止めて
庄三
イヤ、私も根っからの非人でもござりませんが、小さいときから相撲好き。ちょっとやそっとの力もあったのが、かえって身の瑕。喧嘩がもとで親より勘当され、仕方なしに非人をしていても、それでも生きていたいのが、すなわち人情というもの。それをやたらにお侍様。瓜やスイカじゃあるまいし、めったに切られちゃかないませぬ
ト書き ふりほどいて立ち廻るうち、庄三郎、懐中より回文状を落とす。尾扇これを取り上げ
尾扇
さては、これは一味の回文状
庄三
なむさん、それを取られては
ト書き 尾扇、寄って来る庄三郎を突き飛ばし、回文状を持って花道へ駆け出す。それを追いかけようとする庄三郎を喜兵衛が止める。このとき向こうより佐藤与茂七が小間物屋の恰好をして、荷を担いで現われ、尾扇の持っている回文状をひったくり、ふところへ入れ、舞台へ出てくる。尾扇、それを追いかけて来て
尾扇
ヤイ、この町人、今のそれを返せ
庄三
ヤ、お前は佐藤・・
与茂
エエイ、この気違い乞食が何を言うやら。ハハハハハハ。もしもし、旦那がた、この非人がどんな無礼を働いたかは存じませぬが、こいつはこのあたりをまごついている、ありゃ、宿無しの気違いでござります。気違いを捕まえて道理をおっしゃっるのは、狂人を捕まえて理を説くのもまた狂人、との世のたとえの通り。なにとぞご勘弁なさって下さいませ
喜兵
イヤイヤ、気違いと申すのは、仲裁人のその方が取り繕った嘘と申すもの。拙者の主人の名前を聞いて、屋敷の場所替えまで根掘り聞き出したこの非人は、鹽冶の浪人に違いない。それゆえ拙者が、いま、こうして
与茂
では、あなた方は
尾扇
師直様のご家老、伊藤喜兵衛様でござる
与茂
ハハア、それゆえここで
ト書き 思い入れ
尾扇
この鹽冶の浪人は屋敷に引っ立てて拷問じゃ
与茂
これはまたけしからぬことをおっしゃられますな。この乞食は、いつもいつもたわいない事を申します気違い。どうして鹽冶の浪人などであるはずがございましょう。よし、また、仮に鹽冶の浪人だと致しましても、お屋敷に引っ立てて拷問するとは。なにか、お上からそのようなお触れでもござりましたかな
喜兵
与茂
なんぼお家が断絶でも、その家来の浪人までひっ捕らえて、根も葉も絶やしてしまえ、というような、そこまでの罪咎もござりますまい。どうです、そのようなものではござりませぬか
喜兵
ムム
ト書き 思い入れ
尾扇
それはそれでよいとしても、たった今、愚老が持って駆け出したその物を、おぬし、なぜ途中でひったくったのじゃ
与茂
あなたの持っていなさったというのは、これでござりますかな
ト書き ふところより鼻紙を三つ折りにしたのを出して
 
この私も、あなたが薬の宣伝ちらしを配っていなさるのかと思いまして、軽はずみに取りましたが、これは失礼をば。サア、お返しします
ト書き 返す
尾扇
イイヤ、拙者が持っていたのは、これでは無い。この非人がふところより落とした回文状じゃ
与茂
イエ、そんな物は存じませぬな。わたしが取りましたのはこの鼻紙。おおかたあなたの思い違いでござりましょう。それとも、おい、気違いの非人、おまえ本当にその回文状とやらを落としたのか
庄三
イヤ、鼻紙でござりました
与茂
それ、ご覧なさい、やっぱり最初から鼻紙だったものを、回文状などとは、お医者様、あなたも少しばかり、気違いと見えますな
尾扇
エエ、馬鹿を言うな。それにしても、みすみす・・
喜兵
まあ、よいワ、よいワ、捨てておけ。たとえ浪人どもがどのようにあがいたところで、何がかなうものか
与茂
いや、もう、そのような気づかいのキの字もあるものですか。特にこんな気違いの非人、お許しなさって下さりませ
尾扇
無性に非人をかばうこの町人。おぬしもおおかた鹽冶の浪人では・・
与茂
どうかいたしましたか
喜兵
イヤ、町人の仲裁。気違いとあれば許してつかわそう
与茂
それはありがとうござります。サアサア、気違いの乞食、早く裏の田んぼへでも行きな。サア、早うゆけ
庄三
ハイハイ、これは旦那様、ありがとうございます
ト書き 庄三郎は与茂七を見て、思い入れ。与茂七は庄三郎に、俺のふところにある、というしぐさをする。庄三郎それにうなずいて、下座へ入る
お槙
ほんとにもう、どうなることかと、ひどく心配しましたよ
お梅
ほんに。さあ、もう、ゆこうじゃございませんか
喜兵
なるほど。さぞお梅も待ちどおしくあったじゃろう。そのへんから籠に乗って帰るがよかろう。さあ、尾扇老。
尾扇
一刻も早く参りましょう
与茂
それならば、もうお帰りでござりますか
尾扇
たしかにあの懐中に・・
ト書き 思い入れ
与茂
お静かにいらっしゃいませ
ト書き 与茂七は、こちらの腰掛けに座って思い入れ
喜兵
それはそうと、さきほどの浪人
お梅
ひと目でよいので、いま一度・・
喜兵
そちも惚れたか
お梅
アイ
喜兵
わしも惚れた
お梅
エエ?
お槙
さあさ、おいでなされませ
ト書き 唄になり、喜兵衛、お梅、お槙、尾扇、中間付き添い、向こうへ入る
─── ◆ ───
ト書き 与茂七が残り、ほっとしたしぐさあって
与茂
危ういところでこの回文
ト書き あたりを見て思い入れ
 
それにしても、ここのカミさんは店を空けて、どこへ行っているのかしらん
ト書き 双盤になり、下手より、お色があんまの女房の成りで出てくる
お色
お政さん、このあいだは、どうも。オヤオヤ、いないみたいだね
与茂
男の茶店は、はやるだろうかね
お色
オヤ、与茂七さん。お前が茶店を出せば、山じゅうの女は皆イチコロだよ
与茂
それはありがたいね、しかし、そんなに来られたらこっちが先に死ぬであろう。ところでお色さん、常住山へ行って商いをしているんだが、小間物屋というものは、どうしたって女を相手にする商売だが、色っぽく言いかけられてはタダで取られ、流し目を使ったといってはタダで取られ、差し引いてみると、よっぽど割りの悪い商売だな。
お色
嘘ばっかり。山じゅうの女がおまえの来るのを、毎日毎日待っているよ
与茂
気前よく貸すからのことさ。まったく馬鹿げたこった
お色
ときに、素敵なのが来たんだよ
与茂
そうだとな。この頃、二、三日は山に来なかったのだが、たいそう美しい女だそうだな
お色
そう、それさ、あの店さ
ト書き 上手の楊枝店を指さして
与茂
ここは、おめえ、おもんさんの出ていたところじゃねえか
お色
そのおもんさんがね、病気だといって、それでおとといから出てる子なんだが、実は生活に困ってるそうだよ
与茂
ふむ、粂三に似ているという評判だが、ほんとうか?
お色
ずぶやまと来てる。そのくせおとなしくてね。屋敷出だそうだよ
与茂
そいつあ、なお良いの。名はなんという?
お色
前の名はなんというか知らないが、ここの店に出てるので、やっぱりおもんさんで通してるよ
与茂
名がおもんか。家はどこだい
お色
北新町だよ
与茂
宗旨はなんだ
お色
法華だよ
与茂
寺はどこだ
お色
ええと
与茂
葬式は何どきだ
お色
なにをばかなこと言ってるんだね
与茂
ホイ、あんまり浮かれ過ぎたな。その女、どうにかなるまいかね
お色
なるどころか、色を売りに出てるわな
与茂
そいつは、妙法蓮華経
お色
法華で洒落たね
与茂
ほっけの幸いだ。今夜さっそく行こうと思うが、出てるだろうか
お色
商売だもの、出なくってさ
与茂
サアサア、行こう、行こう
お色
えらく急くね。マア、荷物をどこかに預けて来なさいな
与茂
なるほど。ヨウ、きっと今晩にはその娘
お色
良い、と言うわさ
与茂
ちょっぴり酒を使って
お色
そうさ
与茂
こいつはウキウキしてきたわ
ト書き 荷物を背負って立ち上がり、思い入れあって
 
こうして騒ぎに騒いじゃいるけれど、同じく姿かたちを変えていても、あの奥田の子息の庄三郎は
お色
ナニ、奥田より、大三ツの方がいいわな
与茂
忠義ゆえとはいえ、こもかぶりとはな
お色
そんなに飲めるものかね、五合で十分だろ
与茂
アア、さぞや苦しかろうに
お色
それが地獄さ
ト書き 与茂七、気を変えて元に戻って
与茂
いいかげんにしろい
ト書き 両人よろしく思い入れ。双盤にてこの道具が回る

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