あえもの

自己流の中華修行は長く続いたが、最初にようやくうまくできたかな、と思われる料理は火を使う、炒めものと煮もので、そして、どうしてもうまく行かなかったのがあえものであった。プロの調理本からアマチュア向けのものまで、たくさんの本を持っていたので、いわゆる「レシピ」には事欠かない。それを参考にしながら作るわけだが、どうにもおいしいものができないのである。何度作っても、それを自分で食べて、おいしいと思えず、中途半端なものしかできなかった。

他のところにも書いたが、かつてまだ若かったころの、うまくいかなかった自分は、その多くを調味料のせいにしていた。あえものであればタレである。あれこれ調べても分からないときは、いろんなものを調合して試みるのだが、これといった結論が出ず、できあがったあえものは、いつもと、さして変わり映えしない。

今から数えると、すでに25年以上前の自分であり、途方もない時間がたったわけだが、さて、いま現在、あえものをうまく作れる自分は、その25年前の自分のところへ行って、教えてあげたいと切に思う。「ほら、こうやるんだよ、簡単だよ」と。

で、自分のことなので、分かるのだが、その若い自分は、それを聞いてもたぶん半信半疑だったと思う。ひょっとすると、それを聞いても「そんな簡単なことなはずないよな」と内心思うせいで、素直に従わず「そんなこと言っても、やっぱり、調味料のどっかに秘密があるはずだよな」と考え、忠告に従わなかった可能性もある。そんな気がする。

それでは、例をあげてみよう。

キュウリの麻辣あえという簡単な四川料理がある。世のレシピを見ると、ショウユに少しの酢を加え、辣油と花椒粉を入れたものでキュウリをあえる、とあっさり書いてある。昔の僕は、ショウユと酢に、市販のラー油を入れて、花椒粉は無いので省略して、そこに切ったキュウリを入れて作っていた。調味料に火を入れた方がいいのではないかと思いショウユと酢と隠し味の砂糖を一回煮立てて作ったり、味の素をはじめいろんなダシを入れたり、スープでのばしてみたり、いろいろやってみた。こうして出来上がったものは、それなりの味はするが、食べて、おいしい!というものとはほど遠い。

では、25年たった今の僕はこれをどう作っているか。

まず、タレの方だが、辣油は市販のものではなく自家製を使う。唐辛子は四川産のものを使い、サラダオイルとショウガひとかけで作る。花椒粉は、四川産の花椒をミルで挽いて使う。あと、一皿分に辣油を大さじ2杯以上は入れる。四川産唐辛子は日本の鷹の爪より辛味が弱くて香りが強いので、この量を入れることができるのである。日本のラー油で大さじ2杯以上入れると、辛くて食べられないものになってしまうので、油の量がどうしても少なくなってしまい、それが失敗のもとなのである。そして、キュウリの方だが、まず、縦4つ割りにした後、2mm幅に蛇腹包丁を入れ、切り離し、塩をして置いて水を吐かせ、表面の余計な塩を洗い流した後、丁寧にキッチンペーパーで水気を拭き取っている。これを先のタレとあえる。このようにすると、食べながら時間が経っても、おいしく食べられる。タレが材料の水で薄まってはっきりしない味になる、ということはなく、むしろ、キュウリのうまみがタレに染み込んで、余計においしく食べられるようになる。

以上であるが、たしかに25年前の自分が知らないことはある。最たるものは四川産の唐辛子であろう。これはあるいは昔の自分がいうところの「秘密」かもしれない。でも、それはタレの味の質にダイレクトに影響しているもの、というよりは、この自家製辣油だと、一皿に油を大さじ2杯入れられる、というところにむしろウェイトがあるのである。そこに昔の自分は気がついていない。

それから、キュウリの下処理をだいぶ丁寧にやっている。昔のように単に切って入れるだけだと、タレがキュウリにうまくからまず、作りたてもイマイチだし、しばらく時間がたつと今度は水気が出てタレが薄まってしまい、おいしくない。油の量も少ないので、キュウリが油でコーティングされず、余計に水気が出やすくなる。昔の自分とて、キュウリの下処理は本で読んで知っていただろうが「おいしくないのは、タレのせいだ」と思い込んでいるので、メインの材料であるキュウリの扱いが自然と雑になる。しかし、その下処理が仕上がりの味にかほどにも影響する、ということをやはり昔の自分は気づいていないのである。

結局、あえものというのは、材料の選定、その下処理、タレの調合と、材料とタレとの相性、といった複数の事柄がうまくバランスをとって調和したときに、おいしくできるのであって、実は秘密はそれだけなのである。昔の僕のようにタレだけのせいにしてタレだけ追求しても、ちゃんとしたあえものはできないのである。

今の僕には当たり前のことだが、はて、以上のようなことを言って説得したとして、25年前の自分は、果たして納得するだろうか。はなはだ疑問である。というのは、このような調理心得は、当時自分が持っていた本にも繰り返し出ていて、何度も目にしているのに、当時の自分はそれをまったく重要視しなかったからである。でも、そんな状態では、本当においしい料理は、できないのである。

餃子

餃子は日本にすっかり定着した中華の一つであり、僕も昔からさまざまに作っていた。当時目指していた味は、高級中華のそれではなく、町中のラーメン屋のうまい焼き餃子だった覚えがあるが、それにしても、なかなかああいう味にはならないものだ。ただ、餃子というもの、それほど深く味を追求せずとも、挽肉とニラが入っていて、ちゃんと焼けていれば十分においしく食べられるものだ、と食べる側の性格が変わるには、自分にはだいぶ歳を取る必要があったみたいだ。

あんの作り方については、昔、こんなことがあった。テレビの料理番組に漫才の紳助が出ていて、これは、餃子が抜群に旨い知り合いの店の大将から直接教わったんや、と言って、それをやっていたのをたまたま見たのだ。そこでは、白菜は一回茹でて、それから刻むんや、などなどあれこれやっていたが、思い違いでなければ、あんに調味料を何も入れていなかった。あと、食べるときに、ショウユに酢を入れるんじゃなくて、酢にショウユをほんのすこし入れるんやで、とかとか、まあ、エンタメ料理なので面白おかしくやっていて、それでいいのだが、あんに調味料を入れなかったのは何を勘違いしたものか。

結局、その後、餃子のコツの一つは、あんにしっかりと塩味をつけることだと知った。基本は、塩、コショウ、ショウユ、ゴマ油である。ラーメン屋の餃子には、これに大量の味の素や、味パウダーが入っているはずだが、真似したことはない。

もう一つ重要なのが焼き方。これは、ある時、どこから情報を仕入れたものか、やり方が分かり、それ以来、おいしい焼き餃子ができるようになった。当時は、焼き餃子のどのレシピを見ても、フライパンに油をひき、餃子を並べて底に焼き色をつけて、そうしたら水を入れて蓋をして蒸し煮する、と書かれていた。これは実はあまり良くなく、実際は、フライパンに餃子を並べたらすぐに水を入れ蓋をして蒸し煮し、水がなくなったらそこに多めの油を流し入れ、この時点で後から底に油で焼き色を付けるのである。これで、香ばしくてコクのある焼き餃子になる。というか、ラーメン屋では実際ほとんど皆このようにして焼いているのだが、世のレシピは何を間違ったのであろうか。たぶん、現在流通しているレシピでは、こっちの方法になっていると思う。

その後、僕も実際に、香港へ何度も行ったり、中国本土へ行ったりしているうちに、餃子についてもすっかり中国的になり、もっぱら水餃子を作るようになり、今に至る。水餃子の場合、市販の皮はどうにも薄すぎて物足りず、皮は自分で作るようになった。小麦粉と水と塩だけなので簡単だが、なんだかんだで面倒くさい。しかし、自家製の皮で作った水餃子のおいしさを一度経験すると、止められないのである。

あんの方は、今では、脂多めの豚肉を粗く叩いたものに、白菜と、干しエビのみじん切りを加えて作っている。水餃子にすると、ちょっとすえたような、干しエビの香りがたまらなくおいしい。コツは、葱姜水と塩で豚肉をよく混ぜて弾力を出すこと、そしてさっきも言ったように、きちんと塩をきかせることである。

つけダレの方も、最近は、定番がある。ショウユに酢を少し加えるのは同じだが、油には、四川唐辛子で作った自家製の辣油をたっぷり入れること。この香り高い辣油のタレに、自作の皮で作ったわりと淡白なあんの水餃子をつけて食うと、絶品である。加えて、辛くないタレも良い。この場合、自家製の葱油をやはりたっぷり入れ、ゴマ油も加える。葱油は、玉ネギとネギとニンニクとショウガをサラダ油で揚げて作るが、だいぶ重宝する。この焦げた葱の香りの高いタレに水餃子、というのも、実に素晴らしい味である。

考えてみると、今現在の自分の餃子は、こうして書いてみると分かるけれど、総合的な売りがあることが分かる。やはり、料理というものはそういうものなのだな、と強く思う。

ザーサイ

細かい話だが、味付けされたザーサイの漬物を、おいしい店で食べると、柔らかくて実に美味である。しかし、もとのザーサイ漬けは、恐ろしく塩辛くて、恐ろしく辛くて、硬くてごわごわしている。 中華材料屋へ行くと、四川直送のザーサイ漬けはごろごろと安値でたくさん買える。薄切りにすると、すごい量になり、安上がりで、ちょっとした口取りや、ビールのつまみにいいものだ。

ところが、買ったままのザーサイを、洗って、薄切りして、水につけて塩出しして、それで食べても、どうもそれほどおいしい代物ではない。お店で出てくるザーサイは、もっとマイルドで柔らかく、香りもよい。桃屋のザーサイみたいだ、と言ってしまえばそれまでだけど、市販品の味付けザーサイを買うのも芸のない話だし、第一、せっかくの安値のザーサイがあるのにもったいない。

これまでは、ザーサイは洗って薄切りして、水に浸けて塩抜きして、そのまま食べて大丈夫なぐらいに塩が抜けたら、水気を切って、ゴマ油とショウユと砂糖と少々の葱と味の素であえて食べていたが、どうも今ひとつな味であり、口当たりも悪く、お店のとはほど遠い。

この件は、今回はネットで解決できた。ザーサイは柔らかくするために茹でる、とある。なるほど、それは当たり前のようでいて気が付かなかった。実は、半信半疑だったが、実際にやってみると、しばらく煮るうちにだんだん柔らかくなってきた。同時に塩も味も抜けて行くのだが、いちいち味見しながらやってみると、10分程度でちょうどいい感じになった。

これを取り出して水で洗い、水気を拭き取り、あらためて、ショウユと砂糖と味の素、ゴマ油と辣油であえてみたらなかなかおいしい。で、これを一晩置いて味をなじませてみると、お店のものと比べて遜色ないぐらいのものになった。火を通すと柔らかくなるのであったら、油で炒めて柔らかくすることもできるはずなので、やってみてもいいかもしれない。

ただ、考えてみると、このように調理してしまったザーサイは、もとの四川省から来たザーサイからはなんとなくかけ離れたものになっている。四川の人たちはこのザーサイ漬けをどのように食べているのだろうか。調べてみてもいいかもしれない。料理というのはバランスだから、あるいは、あのワイルドな四川の他の料理に釣り合う食べ方があるのかもしれない。そういう意味で、日本の料理店で出てくる、あのマイルドで柔らかくて香りのいいザーサイは、日本の中国料理に釣り合うように加工されたもののように思えもする。

エビチリ

マーボー豆腐と並ぶ日本中華の超メジャーのエビチリこと、小エビのチリソース煮は、もちろん昔から自分もいろいろ追求していた。ところが25年以上前には肝心のレシピがなかなか手に入らず、かなりしばらくの間あきらめていた覚えがある。いま現在の、どんな料理でも、ほとんど過剰な数のレシピが流通しているネット社会とはえらい違いである。もっとも、そのせいで、今度は信頼に足るレシピを選ぶ方が難しくなる、ということが起こるのだが。

ところで、ついでに言っておくと、クックパッドなどで素人さんのレシピも大量に出回っているし、それだけでなく、プロの味をひたすら追求している25年前の僕のような人々も自身のサイトやブログでレシピ公開していたりするが、なるべくシンプルに整然と書かれているものを信用した方がいいようである。たくさんの種類の調味料や、その調味料の薀蓄、かと思うと気が抜けるようにいい加減な代替調味料の紹介、そして、まわりくどい手順や、儀式に近いような操作、みたいなもので溢れているレシピをときどき見かけるが、あまり信用できない。読むと分かるが、本人がその勘所を押さえていないことが多く、そのせいで、そのような回りくどい長文になるのである。これは、五十年前のプロ向けの本の中国料理技術入門で一品に三ページを費やす記述とは、根本的に異なっているのを、見て取るべきだと思う。良いものは、シンプルなものなのだ。

脱線したが、実は自分のバイブルの中国料理技術入門にもエビチリは載っていたのだ。ただ、それは、乾焼明蝦(ガン・シャオ・ミン・シャア)で、大エビのチリソース煮であって、小エビ(乾焼蝦仁)ではなかった。加えて写真が白黒で、あのオレンジ色なきれいなものではなく、写真を見てもなんだか分からない代物だった、というのもある。大エビを殻ごとぶつ切りにして、湯通ししてチリソースとからめていた。今思うとおいしそうだが、そのころは、これがピンと来なかったのである。

ようやく、小エビのチリソース煮の作り方に出会い、作り始めたが、まあ、案の定うまくはできなかった。タレについても、あれこれ追求したが、なにをしても変わり映えせず、というのは、当時の他の料理と一緒だった。結局、あのチリソースのタレは、セオリー通りに普通に作れば十分おいしくできる。トマトケチャップと豆板醤とニンニク、ショウガを多めの油でよく炒めることと、割りと多めの砂糖を入れることと、きちんと塩を利かせること。最後に加えるネギは、ちょうど香りが立ったところで仕上げること。味付けに甘酒を使うことや、ケチャップの代わりにトマトピューレを使うことは、タレのグレードを上げるが、そこまでせずとも十分においしくできる。ちなみに、ここで言う甘酒は、四川料理で使う酒醸(チュウ・ニャン)という調味料で、もち米を麹で発酵させて作る文字通りの甘酒である。

あと、もうひとつ大切なのはエビの処理である。エビチリも、タレがきちんとできていて、そこにきちんと処理されたおいしいエビが合わさると、とてもおいしくなる。片手落ちはダメなのである。アマチュアの僕らは、エビはだいたいがスーパーの冷凍ものを使うので、なかなかいい感じに仕上げるのは難しかったりする。これまたセオリー通りに、塩と片栗粉で汚れを落として、洗ってから水気を切って、塩、酒、コショウで下味をつけ、片栗粉と、可能なら卵白でコーティング、というプロセスで十分おいしくなる。で、ここで、わりと重要なのが、水気を切る部分で、ふきんあるいはキッチンペーパーを重ねたものでくるくると巻き、上からかなりの力でギュッギュッと押し付けて水を吐かせることである。要は、臭みを含んだ水を強制的に取り除くわけである。あと、下味に、数滴のゴマ油、あるいはショウガ汁を加えることでも、だいぶいい感じに仕上がる。

こうして処理したエビは、本来は油通しをするのが一番おいしくできるのだが、湯通しでもよいと思う。エビの加熱はわりと微妙で、ちょっと加熱しすぎると固くなる、というだけでなく独特の甘みが消えてしまうようである。正直、僕も来る日も調理しているわけじゃなく、ときどきしかしないので、エビについては今でもわりと失敗したりする。

ともあれ、きちんと作ったエビチリというのはおいしいものだ。ちなみに、エビチリについては本場のものというのは無い、と言っていい。これは、中国料理技術入門の著者の一人の陳建民が、四川の乾焼蝦仁を日本流にアレンジしたもので、ケチャップで赤く仕上げるのは陳建民の創作のようである。四川の乾焼蝦仁はショウユを使ったエビの炒め煮で、日本のものとはぜんぜん違う。

そういえば、ちょっと前、中国人の女の子のいる場で中華料理を作ったことがあるのだが、彼女はこのエビチリというものを知らなかった。で、僕が、エビの料理を作り始め、鍋にケチャップを入れるのを見て、彼女「うぇー、エビにケチャップなの?」って言いながら気持ち悪そうに見ていたが、できあがったエビチリを食べて、あまりにおいしくて目をまん丸くしていた。作り方を教えてあげて、彼女、さっそくそのあと自分でも作ったそうである。ひょっとすると、今では中国とかでも、この赤くてきれいなエビチリが逆輸入されて流行っているかもしれない。

皿の上に残る油

昔、炒めものを作り、その皿に盛った料理を食べ、それで、すべて食べ終わったあとの皿に、油が全体にべったりと残って、そこに調味料の残りが少し漂っているような状態に、こだわっていたことがあった。というのは、高級中国料理店へ行って炒めものを食べると、必ずその状態になっているのを知っていたからである。

自分で作った炒めものは、その状態になることもあり、ならないこともあった。その当時、どうしたらああなるのか、その理屈が分かっていなかったので、自分でコントロールできなかったのである。たまたまうまく行って、その状態になると、食べたあとの皿を陶然と見とれ、匂いをかいでうっとりすることがあった。自己満足もいいところだが、食べた後の皿が油の香りとも相まってとてもいい匂いがするのである。

これは、今ではどうすればいいかわかっているので、ほとんど失敗することは無い。ポイントは鍋肌の温度を常に高くして、下げないようにすることと、調味料を十分に焼くことで、これは火の使い方に関係する。十分に温度を高くしておかないと、油は材料の方にまとわりついてしまい、皿の上に流れ落ちず、さらに、その代わりに、材料から出る水気の方が皿にたまってしまうのである。

この件につき、プロの厨房の火力は凄まじい強さなので何の心配もないが、家庭だとそうは行かない。なので、家庭の火力の場合、気を付けるポイントがプロより多い。まず、中華鍋をあらかじめ十分に熱して、その予熱を常に利用して、鍋の中の温度が極力下がらないようにする。材料を冷たいまま炒めると、鍋肌の温度が下がり野菜から水が出ると、さらに下がってしまうので、湯通しするか、あるいは理想的には油通ししてから鍋に戻す。調味料を入れるときは、材料を鍋に戻す前に調味料だけを鍋の中の油で十分に焼き、その後に材料を戻す。といったことである。以上のことを気をつけていれば、高温になった鍋では油が材料にまとわりつかず、盛った時に皿の上に流れ出るようになる。そうなると、材料を食べたときに口に入る油の量も減るので、油っこく感じなくなる。

これらの注意は、プロの調理でも言われることではあるが、彼らは強い火力が既にあるので、あまり意識せずともこの状態になることが多いと予想できる。むしろ、プロの場合、その強い火力のせいで、材料に火を通しすぎてしまったり、焦がしてしまったりしないように、リズミカルに作業をする方にウェイトがあるはずである。そうなると、家庭の火力で作っている人にうまくアドバイスできないということも起こる。これは設備が違うので当然のことであろう。

ところで、特にショウユを高温の油で焼くことは、ショウユ味の炒めものの場合、とても重要なので、やり方を会得するといいと思う。これはたしか何かしらの科学的説明もされているはずで、ショウユが高温で焼けると成分が変わり独特の美味と芳香になるのである。これはオイスターソースも同じなので、同じように扱う。あと、ショウユだけでなく、それに合わせる砂糖もである。砂糖が高温の油に出会うと焦げてカラメルになるわけだが、カラメルソースがただの砂糖の甘みではない独特の味と香りなのは誰でも知っている。炒めものの調味料の基本は、ショウユと酒と砂糖だが(基本の割合は3:2:1)、このように高温処理することで、味ができあがるのである。逆に、試しに生のままのショウユと酒と砂糖を混ぜてなめてみると分かるが、当たり前だが、ショウユと酒と砂糖の味しかしない。プロのショウユ味の炒めものと家庭のそれとで圧倒的な違いがあるとしたら、まず、これが原因なのである。

それから、ショウユを使わない塩味の炒めものであっても、この高温の処理は重要である。焦げたショウユのように強い旨味はないが、高温の油で処理すると、全体にコクのある味に仕上がるのである。

結局、これらは火力に依存しているので、それもあって、中国料理は猛烈な火力を必要とする、と言われるわけだ。でも、家庭でも、ここに書いたように要所要所を押さえて調理すれば、かなりのところまでは、行くのである。

ゆで豚

ゆで豚の顛末は「開眼するについて」のところでも書いたけれど、最初にこれがうまく作れるようになったのは、香港の大衆食堂で出てきたゆで豚が始まりだった。これは、すでに茹でた塊の豚肉が用意してあって、それを冷たいまま薄切りにして、タレを添えて出すタイプであった。ちょうど、ハムのような食感のものである。

これに対して、自分が作りたかったのは、本当は、四川料理でポピュラーな雲白肉(ユン・パイ・ロウ)なのであった。自分の中華料理のバイブルである「中国料理技術入門」にも、もちろん載っている。豚ロース肉を茹でて、温かいうちに薄切りにし、甘辛いタレと辣油をかけて供するものである。今、この本を見てみると、必要なことは全部書いてある。

たとえば、クックパッドのレシピが昨今は標準な感じで、あれは僕も寄稿しているから分かるけれど、プロセスに字数制限があり、その中でうまくまとめなくてはいけないようになっている。最終的にはWebページ上でのレシピなので、それに適した長さと簡潔さになるように設計されているのである。一方、上述の本はプロ向きの本で、このたった一品の雲白肉について、大判の装丁本で、実に三ページも使って書かれている。

これは実は、最近のプロ向きの調理本でも、こういうことは、無い。最近はプロ用であっても、いわゆる一般でいう「レシピ」のスタイルに影響されていて、かなり簡潔に書かれているのが普通なのである。中国料理技術入門は1968年発刊でなんと五十年近くも前の本であり、そのノリが現在と根本的に異なっている。なにせ料理一品に三ページである。

さて、当時、あまりうまくできなかった僕は、この三ページに及ぶ作り方をなぜ、そのまま忠実にやろうとしなかったか。いま現在の自分は断言できるが、この通りに作れば絶対にプロの一品になる、間違いない。それなのに当時、それができなかったのは、この三ページ分の文の意味が当時はっきりわからなかったからなのである。というのは、そこに書いてあったのは、この料理に合う肉の部位の選び方とその理由、どれぐらい茹でればよくて、それをどんな目安でどう判断するか、茹で上がった豚肉をどのように薄切りにするか、どのように皿へ盛り付け、どのようにタレをかけ、どのようにお客に勧めるか、ということばかり書いてあったのである。

これは、あえもの、のところでも書いたが、タレにこだわっていた当時の自分にとって、この三ページの記述はなんの助けにもならなかった。なぜなら、タレについては、ここには「甜醤油とショウユを合わせてニンニクを加えたものをかけ、さらに辣油を回しかける」とあっさりと数行で書かれていただけだったのである。なんと、調味料の分量すら書かれていない。

僕がこの雲白肉をうまくできるようになったのは、四川省の成都へ行って、本場の唐辛子と香辛料、そして辣油を経験してからである。もちろん、街のお店でこのお気に入りの雲白肉も注文した。日本のお店のものとこれまただいぶ異なるものだったけれど、しかしながら抜群に美味しかった。僕は、現地の市場で唐辛子を二袋買って持ち帰り、これを使って辣油を作ってみた。そうしたら、当たり前だが、本場の辣油とほとんど同じものができた。

これを使うことで、自分の四川料理の幅もだいぶ広がったと思う。それからだろうか、ようやく、自分は、豚のかたまり肉を茹でて熱いうちに薄切りにしてタレをかける、あの本に出ていたやり方をそのままやることを覚え、その結果、あの料理が抜群に美味しくできるようになった。実際にやってみると、やはり、まず豚肉に良いものを選ばないと確実に失敗すること、茹で方と切り方をきちんとして、上卓するときの肉の温度を適度にする必要があることなど、あの本に書かれていることが、ようやく自分のやっているプロセスと平行することが、分かったのである。

調理が最初から最後まできちんとしていれば、タレの方は、それほど気にかけることはないことも分かった。それまでは、このタレ作りについてはいろいろな工夫をして、タレそのものが美味になるよう骨折っていたのだが、結局のところそれは必要がないことも分かった。基本の甜醤油と辣油さえあれば、それでよかったのである。これも、やはり書かれていたとおりだった。

というわけで、あの中国料理技術入門に書かれていたことは、まさに、料理というものの全体像だったのだ。そして、その要所要所の勘所を書き連ねると、三ページになるということだったのだ。

内臓の煮もの

なぜだか分からないが、各種内臓の料理を、自分は、中華修行のかなり最初のころに何度も何度も挑戦している。たしかに、自分のバイブルの中国料理技術入門の前菜の章に、この内臓に煮ものが載っているのは確かだが、そのせいだったからなのか何なのか。いずれにせよ、まだ二十代の若い頃、そういうコアなところに惹かれて、マニアックに追求したい、という気持ちがあったのかもしれない。

あるとき、当時の行きつけのバーで、林の中華を食う会をやろう、みたいな話になり、そこに内臓の煮ものを持っていったことがある。豚の胃と、舌と、耳と、心臓だったと思う。それらは当時、肉のハナマサでかたまりのまま安値で買えたのである。鹵水という、ショウユベースに香辛料を入れた煮汁で煮るのである。自分は、かたまりのままの煮た内臓をそのままビニールに入れて持って行き、そのまま大皿に置いて、はい、って客に出した覚えがある。

みな、ただの酔っ払いの馬鹿なので、キャーキャー大騒ぎであった。そのうちの一人など、耳にそのまま齧りつき、耳を噛むなんてセクシー、とか言って大喜びしていたっけ。それはともかく、この内臓、自分でも食ったが、臭い。臭くて食べられたもんじゃない。まあ、そのバーは、酔っ払いの阿呆の巣窟なんで、みんな何にも分からず、うまいうまいと大騒ぎして食っていたが、奴らも僕もそのときは騒げればなんでもよかったのである。

さて、その調子で、作り方の通りに何度も作るのだが、できあがりは臭くて、どうにも食えたもんじゃない。

たぶん、そうこうしているうちに、自分はまず香港へ渡航し、本場の中国料理に接することが始まったのだと思う。当時の香港は返還前であり、街中のようすは今とはずいぶん違っており、極めて大衆的で濃い世界で、街じゅうが物凄い臭いで充満していた。おそらく、それは、インディカ米の臭いと、香辛料の臭いの混合だったと思う。当時の香港は、焼臘麺粥家と書かれた粗末な作りの大衆食堂が至る所にあり、そこでは店頭で、必ず、巨大な寸胴で、各種の内臓を煮ていたのだが、その煮汁に入れる香辛料の分量がハンパではなく、凄まじい臭いを街じゅうに振りまいていたのである。

そうやって大量の得体の知れぬ香辛料で煮上げた内臓は、臭みなど皆無で、食べると、胃なら胃、心臓なら心臓、舌なら舌の、その部位の味が、香辛料の香りとともに口の中に広がるのである。

そうか、そういうものであったか。僕は、そのころ、本を見て内臓を煮ていたのだが、そこに入れる香辛料は、まったくささやかな量だった。本には香辛料の種類は書いてあったが、分量が書かれておらず、僕は日本人の常識で判断して入れていたのである。結果、たとえば、八角が一房、花椒が大さじ1、という具合だった。これが違っていたのである。香辛料は、一種につき、ひとつかみは余裕で入れる。自分の使っていた量は、ほとんど十分の一ぐらいだったことに気づいたわけだ。

香港の市場で僕は、鹵水の香辛料ミックスというものを見つけ、これを買って持ち帰った。大きな袋に、十種ぐらいの香辛料がたっぷり詰まっている。日本に帰り、この香辛料ミックスを大量に、今までの十倍ぐらい入れて、内臓を煮てみた。結果、内臓の臭みはまったく無くなり、しかも、旨い。このころには、自分は、内臓の下処理もわりとセオリー通り真面目にやるようになり、内臓の煮ものは、自分のけっこうな得意料理になった。

あるとき、女の子ばっかりの料理教室みたいなのをやったことがあり、そこに、家で煮た豚の胃と耳を持って行ったことがあった。女の子は気持ち悪がるかもしれないなあ、と思ったけれど、まあ、洒落で。案の定、かたまりのままの胃や耳を見て、キャーキャー騒いでいたが、これを切って、タレであえて出してみると、みな、うまいうまいと猛然と食い始め、キツイだろうなと思っていたちょっと癖のある胃など、あっという間になくなった。

内臓が苦手な人はいまでもけっこう多いと思うけど、きちんと作ると、本当においしい。最近は僕も面倒なのと、当のかたまりの内臓の入手も難しくなり、作らないけれど、たまにはやってみたくなるね。