ヨーロッパ絵画、芸術 第2部


 ◆ベラスケスの「女官達」
 ◆プラド美術館のゴヤ
 ◆ゴヤの「黒い絵」
 ◆トレドのエル・グレコ

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ベラスケスの「女官達」


ベラスケス 女官達

初めて行ったヨーロッパはスペイン、マドリッドだった。プラド美術館、ここにはヨーロッパ古典絵画、特にスペインの画家達の良い絵がたくさんある。ベラスケスの「女官達」という大作があることは知ってはいたが、特にこれを見ようとチェックしていた訳ではない。そういう意味では予備知識はほとんどゼロであった。

ベラスケスの部屋に入った。両側の壁にいくつも並ぶ彼の絵の間を通り抜け、突き当たりの暗い小さな部屋に入ると、この「女官達」という絵が一枚だけ掛けてあった。右上から照明が当たっている、と見てすぐに思ったのだが、それは間違っていた。描かれている宮廷の部屋の、画面から外れた右上に明かり取りの窓があり、そこから外光が部屋に差し込んでいるところを描いているのだった。

まんなかにまだ幼いフェリペ大帝の娘マルガリータ、まわりに侍女やら子供やら犬やらが居て、奥に王、王女、そして奥横には画布を前にしたベラスケスその人が居る。窓から柔らかい光が差し込んで、この雑然とした宮廷の一風景を浮かび上がらせている。ほとんど、この窓の大きさ、形、位置まで正確に想像できるほどだった。

この変哲無い絵がそのとき僕に与えた衝撃はとても言葉で説明し尽くせない。当然だ、相手が絵なのだから。何を見たかというと、何のことはない、三百年前の宮廷の部屋に実際に居て、それを見ていたのだ。空気は、厚く、滞っていて、ビロードや、漆喰から飛翔した、万遍なく浮遊する僅かな埃、それらの混合した匂い、この空気の層を伝わって時折聞こえる話し声、足音や衣擦れの音、などこの一枚の絵にはあらゆるディテールが描き込まれていた。

そして実際にはディテールなど探してもどこにもない。すなわちこれらを全て、光、そして色彩の調和、そしてデッサンと構図という単純な絵画の諸要素に還元して表現しているのだ。そしてその諸要素の表現力の加減は完璧に制御されていて、どれひとつとして自らを主張していない。つまり全てはその調和の中にあったのだった。

例えば色彩の調和という絵画的問題を取り出してきて、純化して強化した所に印象派が現れたが、このベラスケスの絵では、色彩の調和という問題は独立して浮上していない。いや、浮上したとたん絵の全体が壊れてしまうという強い意識が画家にあり、そのために本当はたやすく出来るにも関わらずそれを自ら禁止していたように見える。そして同様のことがデッサン、構図、主題の選択など全てについて言えるのである。

あらゆる絵画的問題は絵具の薄い層の下に隠れている。例えば高貴な精神がその人間の外見の下に隠れているようなものである。高貴さとはすべてを白日の光の下に明るみに出すことではない。ベラスケスその人にとってはこれはあまりに当たり前な事で、彼にとって明るみに出された真実や、新規なものの創造などは、まるで興味を引かないやくざな代物だったのだ。そして彼が画布の上で極限まで持っていったのは、極端な平凡さなのだが、そこに画家的な苦悩が、完璧さに対する恐ろしい憧憬といったものが浮かび上がってこない。そこに現れているものは正真の高貴さだ。

あまりに逆説的だろうか。しかし、これが逆説に映るほど僕らは落ちぶれてしまったのではないか。まあいい、現代人には現代人の苦悩があるのだ。歴史は繰り返しはしないということだ。

とにかく、見ていると、あまりに大量な感覚がなだれ込んできて、まともに正視できないほどだった。感動して泣く、などという生やさしいものではなく、こちらの生理状態が感覚の大量さに耐えられなくなって、自己防衛のために涙を出させているようにしか思えない。なにせ泣けるようなものはこの絵の中にはかけらもないのだから。風邪をひいて鼻水をたらしているようなものである。
 

プラド美術館のゴヤ

ベラスケスの『女官たち』の部屋から、ほとんど茫然の態で出てくると、その後には、ムリリョやスルバランやリベラなど引き続きスペインの画家達の部屋が続く。正真の巨匠達の絵画であるが、まるで眼に入ってこない。僕の感覚はあのたった一枚の絵の印象で飽和してしまっていた。

ムリリョの描いた聖処女マリアが、驚くほど大胆な、恐らく他の誰も試みなかったような、青と白の対照で描かれているのに気付いたのを覚えているが、やはり上の空だった。仕方がない、足速に通り抜けて行った時は、この後にゴヤの絵が控えていることなど忘れ果てていた。突き当たりを右に入ると、そこがゴヤの部屋だった。

何の覚悟もなく、空っぽの頭のまま、自動的に入って行ったとき、幾枚かの画布が視界に飛び込んできた。大方、宮廷の庭で遊ぶ貴族達か何か、それに類する数枚の絵が掛かっていたのであろうが、ほとんど瞬間的に愕然とした 僕にはこれらが狂人の描いた絵に見えたのだ。およそ、絵画を前にして愕然とするなどというのは、見る人間が不用意なせいだろうが、僕はしばらくの間気を取り直すことができなかった。

後で知ったことだが、ゴヤの最初の部屋には、彼の初期の作品が集められていて、その大半はタペストリーのための下絵として、当時の風俗を描いたものであった。ゲームに興じる貴族達、野外でくつろぐ貴族達、町中で遊ぶ子供達、市の立った街角の風景、収穫を終えて休息する農夫達、などなど変哲のない日常の風景が描写されていたのだが、僕は最初に受けた印象を離れて見ることができなかった。どの絵の風景も狂気によって戯画化されているように見えたのだった。


ゴヤ パラソル

「パラソル」という絵がある。若い貴族の男女二人が野外でくつろいでいる。絵の中で強い風が吹いている。男は、開いたパラソルを右手に持って、女の右側にそれをかざし、風をよけてやっている。しかし男が一本のパラソルでよけているのは本当にただの風であろうか。このパラソルがもし外されれば、この女はただちに不気味な怪物に変身するのではあるまいか。すなわちこれは風ではなく外から吹いてくる狂気のようなものではないのか。


ゴヤ 人形遊び

「人形遊び」という絵がある。数人の貴族が大きな布を四方から持ち、布でできた等身大の滑稽な人形をトランポリンのように放り上げて楽しげに遊んでいる。一体これはなんだろう、何かの儀式だろうか。絵の中で無力に為されるがままになっている人形がこの絵の中で正常な唯一の人間で、遊んでいる人間達の方が狂人の集団に見えてくる。ちょうど、捕まえてきた人間を殺す前に、笑いながら弄んでいるような光景に見える。


ゴヤ 目隠し遊び

「目隠し遊び」という絵がある。手をつないで輪になった人達の真ん中に、一人の女が目隠しをして、しゃもじのようなものを持ち、回りの人達をその先で触れようとする。まず、この輪の中には少なくともひとり人形がいる。目を見開き、口の形をカーブさせてほほえみの表情を作っているが、体も顔もぎくしゃくとしてすぐに分かるが、目隠しをしている女は気が付かない。

頭に壺を乗せてたたずむ女達がいる。しかしそれは壺と体が一体化した怪物か奇形に見える。同じように竹馬を付けて歩く男達も奇妙な生き物に見える。

「猫」という絵がある。崩れかかった煉瓦の塀の上で、二匹の猫が向き合っている。右の猫は毛を逆立て、歯をむき出して、左の猫に襲いかかろうとしている。左の猫は耳を伏せ、姿勢を低くして後ずさりしているが、しかし眼を見開いて相手を凝視している。どちらの猫の後ろも塀は崩れ後がない。すなわち、殺さなければ殺される・・・

初期の頃のゴヤの絵画は、フランスのロココの画家達に強い影響を受けているのが見るとすぐにわかる。ゴヤに独特なあの微笑む女性の表情も、ブーシェが描くような、黒くて深い大きな眼を持ち、唇の線をアルカイック風に引いた、一種様式化されたような表情に描かれている。そして、あの白に微妙に混ざり合う青とピンク色の生みだす効果ははっきりとロココに通じている。

華やかで刹那的で女性的な優雅さに溢れたロココの影響下に生まれた初期の彼の絵と、戦争や闘牛を執拗に描写した容赦ないリアリズム、そして数々の怪物を描き出した救いのない、暗澹とした後期の彼の絵を、僕は無邪気に分けることができない。

少なくとも、初めて彼の本物を見たとき、僕が感じたものは、まったく変哲のない日常性の中に潜んだ異常性であった。だからむしろ、明るいロココの様式で描かれた狂気という、なにかあり得ないような組み合わせが、僕には耐えれないような感覚を引き起こしたのかもしれない。

幾つかの絵の背景に描かれた灰色の曇り空は、画面の中央に当たる部分が不自然なほど明るく光っている。確かに厚い厚い雲の向こうに太陽があるのだろうが、この不気味な輝きは太陽を連想させない。あるいは全体がオレンジ色に染まった夕刻の背景は、夕陽が浮かび上がらせる光景というよりは、放心して眺める夢の中のような風景に見える。この手の背景は、彼の描く屋外の絵に繰り返し現われて、その光景に一種この世のものではないような雰囲気を与えている。

ゴヤは、その長い生涯で、何回かの精神錯乱に襲われたと聞いているが、死ぬまで狂人にはならず、明晰な理性を保ち続けた。彼の内面の錯乱は、彼の強い理性の完全な統制下にあった。そして、その強靭な理性のもとに数々の絵画が生まれる。

彼が、その絵筆を持つ手を緩めたら、たちまち彼は本物の狂人になってしまうのだろうか。しかし、ゴヤの驚異的な技巧は、素早く動くほんのひとはけの筆で、正確無比に対象を描き出す。この技巧を狂気と正気の相克などという文学的内容で説明し尽くすなど無意味であろう。そして、こう思えてくる。ゴヤは、その内面に次から次へと湧き上がって来る錯乱したイメージに、自らの絵筆が正確に応えるのを楽しんでいたのではあるまいか。

宮廷専属を画家であったゴヤは、依頼されて描く肖像画の類より、こういった風俗画の方により強く想像力を投影させたのだろうか。風俗画の方では見える形で現われていた錯乱が、肖像画の中では見えない形で隠されている。後日、サン・フェルナンド美術館で見た一枚の女性の肖像でそれを強く感じたが、ここプラド美術館には、有名な大作『カルロス4世の家族』が掛かっている。


ゴヤ カルロス4世の家族

横一列に並んだ人達には皆光が当てられていて、この絵には奥行感というものがない。左隅の奥にひとりゴヤ当人だけがキャンバスを前にして影の中に居る。ベラスケスの「女官たち」で感じられた、あの濃厚な光と空気は、この絵においては現に我々が呼吸している空気の密度にまで薄められている。

それ故に、画面のあちこちで輝く光は際だって、金銀宝石の軽々しく豪奢な効果をあげている。衣服の表現は見事の一言に尽きる──精緻な刺繍をほどこした絹が薄いレースの下で輝いている、青や赤や紫に光る数々の宝石は至るところでばらばらに、あるいは数珠のように連なって輝き、滑らかなビロードがその輝きを吸い込んで真紅に焼け付き、小さい特徴的な靴は東洋の見事な小物の類のように並ぶ。全体的にこれらの表現は、輝かしい金銀財宝のイメージを与える。

これと奇妙な対照をなすのが名々の顔の表情だ。このカルロス4世の家族を描いた大作は、王や王女の顔を、まるで豚売りの夫婦かなにかのように赤裸々に描き出したということで、肖像画におけるリアリズムの先駆だと言われているらしい。左の青年は眼を真ん丸に見開いた犬のようでもあるし、奥から顔だけを覗かせる婆さんは、常に驚いたような顔をした小動物のようでもある。

かと思うと、周囲と違和感を感じさせるほどすっきりとした美しい顔だちをした若い女性が赤子を抱えて右側に、そしていかにも愛らしい子供が中央に居る。

衣服の表現の誇張された豪華さと、並んでいる顔の醜さや不自然さの対照には、デカダンスの臭いが濃厚に漂っている。ゴヤは現代に通じるリアリズムを予感した画家というよりむしろデカダンスを予感した画家というべきであろう。「豚と真珠」という図式を、その空っぽな嘘っぱちのまま美化して聖化する洗練をゴヤはこの時代に既に持っていた。

それから何を見たのか、かの有名な「マハ」だったか。裸のマハは、薄緑色で半透明の臘のような肌をしていた。特に、取って付けたような首から始まって、中国の纏足のごとくに小さな足で終わるプロポーションは健康な釣り合いとは思えず、まさに反自然といったイメージを抱かせる。肌の色がその感覚を助長する。例えばティッチアーノの裸婦の完全なアンチテーゼに見える。

階上には『五月二日の戦い』、『五月三日の処刑』が掛かった狭い部屋がある。この絵はもうまともに正視できなかった。これらの絵を落ち着いて見れるようになったのは、プラド美術館へ二度目以降に来たときからだった。特に『五月三日の虐殺』は有名な画布で、複製で幾度も見ていたので細部に渡って覚えていたのだが、実物には複製では到底現せないものが現われていた。


ゴヤ 五月三日の処刑

ひとつだけ記しておこう。この光景は、殺される市民と銃を構えた騎兵隊の間の地面に置かれた四角いカンテラの光によって照らしだされている。カンテラには明るい黄色がべったりと塗られているが、それがこれほど容赦のない残酷な光を発しているのは予想外だったのである。この光は自然界の光に比べるべきものがない。比喩の成立しない人工的な光だ。銃声も悲鳴も聞こえはしない、全てはこのカンテラの光だけを頼りにした幻であるかのようだ。

人一倍愛国心の強かったゴヤは、このプエルタデルソルの広場でフランス兵に次々と殺されて行く自国の人々を見て悲しみと怒りに震え、この虐殺を決して許さぬと心に誓ったという。彼はアトリエに戻り、目に裡に焼き付いたこの光景を元に、大量のスケッチ、そして習作を経て、数年後これを2枚の油絵として完成させた。

しかし、このアトリエでの画家と画布の光景には何か不気味な恐ろしいものがないだろうか。彼の人間的な心は怒りで震えたかもしれないが、絵筆を持った彼の手はまるで彼の心とは無関係であるかのように、機械的に正確に画布の上を走ったであろう。むろん誰も震える手で仕事はできない、しかし本当に天才的な芸術家はもう一歩だけ先へ進むように見える。すなわちその仕事自体が芸術家その人の心から遊離して何か別の事を主張し始める・・・すくなくとも、出来上がった作品は、そのように見える。

僕が初めてこの五月三日の虐殺に出会って、いきなりこれを見せられたときに感じた耐えられないあるものとは何だったのか。ゴヤが持っていた怒りの大きさだったのか、いや、たしかにそれもあった。しかしそれと時計上の意味でまったく同時に僕の目に映ったのは、レモンイエローのカンテラ、流れるクリムゾンレーキの血、鉛白とイエローオーカーで塗られた最後の絶望的な抵抗をする市民、黒く塗られた銃を構える兵士達であった・・・すなわち、この大きな画布に並べられた色彩の美しさには絶対的なものがあった・・・

なぜカンテラの光が残酷な人工的なものに見えたのか・・・そのとき僕は、描写されている怒りと色彩の美しさ、というおよそ相容れないように見える対照を、この光景を浮かび上がらせている唯一の光源であるカンテラのせいにしようとしたのだ。すなわち、このカンテラがなければ行われている事実だけが残る、しかし、カンテラが置かれれば浮かび上がる光景は色彩の調和としていやでも鳴り始める・・・

結局、初めて見たゴヤから受けた印象は、それが何であれ、あり得べからず対照が喚起する衝撃だったと、要約できるかもしれない。
 

ゴヤの「黒い絵」


ゴヤ 黒い絵

さてゴヤの部屋を出て、順路に沿って歩くと、しばらく他の画家達の展示が続く。そして順路の一番最後の突き当たりに再びゴヤの部屋がある。天井の低い楕円形の部屋で、入口の反対側には大きなガラス窓があって、外の光が差し込んでいる。そこに十数枚のゴヤの絵が額縁を付けずに並んでいる。ゴヤは晩年、自ら古い屋敷を買い取って、人付き合いを絶って閉じ篭り、その壁という壁を暗く救いのない自らの絵で埋め尽くした、いわゆる黒い絵と呼ばれる作品群で、ここプラド美術館では外光によって明るく照らされたこの部屋の壁を埋めていた。

僕がこの部屋に入ったときはほんの数人しかおらず、みなてんでばらばらにぶらぶらと見物していた。ガラス窓の向こうにはマドリッドの街並みが広がり、自動車が行き来し、人が歩き、背の高い街路樹の葉を太陽の光が薄緑色に照らしていた。馬鹿げたことだが、掛けられた絵の絶望的な暗さにも係わらず、僕にはこの展示室に広がる雰囲気が牧歌的なものに感じられた。ゴヤの絵はもう眼にも心にも入って来なかった。それは掛かっていても掛かっていなくても同じことだった。

見物人達は現在のスペイン、マドリッドの外光に照らされたこの人工的な部屋にたまたま居合わせたに過ぎないが、僕には何か大災害を経験した直後の人達の心が通じ合うように、まるでクライストのチリの大地震のように、何故か彼らに親しみを覚えるのだった。これらの絵は、その世界の中で完全に閉じていて、我々が今住んでいるこの世界と全く無縁であるかのように思われた。僕は、僕を含めた見物人と、スペインの歴史の一角に閉じ込められたゴヤという精神の間の、救いようのない距離の大きさばかりを思っていた。

二度目にプラド美術館に来たときは大分落ち着いていた。もう不意を突かれて驚かされることもなく、ゆっくりと見て回った。余計な感情の不安定なしに見たゴヤの数々の絵画は、汲み出しても汲み出しても尽きない黄金であるかのように思われた。画布の上に盛り上げられた絵具の観察から始まって、主題の興味を経て、ゴヤに独特な精神に至るまで、時代を越えてその価値を保ち続ける黄金や、人々の好奇心をそそる珍しい宝石が、まんべんなく至る所にちりばめられていた。手を伸ばしさえすればそれはすぐにでも手に入るように思われた。

最後に、また再び黒い絵を掛けた部屋にやって来た。今度はもう牧歌的になど感じはしなかった。絵はちゃんと眼に入ってきたが、依然としてこれらの絵に現われた絶望は、その閉じた世界の中で円環を成しているように思われた。その円環は外から眺めることはできても、内に入って経験することは決して出来ないに違いないのだ。

前回来たときは、遠くから漫然と眺めていただけだったのだが、今回は近くに寄ってその画肌を観察した。奇怪な想像力、終わりのない絶望によって産み出された暗澹たる主題とは一見まったく無縁な筆触がそこにはあった。ゴヤの絵筆はそれはそれは正確なのだ。この絵を描いた頃、ゴヤの体は弱り、人の手を借りずに生活が出来ないほどに悪化していたということだが、その筆触はいささかの狂いも見せていなかった。画布を前に、パレットと絵筆を持って立たされたゴヤの手は、ほとんど反射的に機械的に動いたかのように見える。

これら黒い絵には至る所に真黒い穴が開いている。覗き込んでも何も見えはしない。しかし、これが幽閉されたゴヤの精神と、我々の住む現実の世界とを結ぶ唯一の通路なのだ。ひとりの女性が、岩だか藁だかわからぬ何かに肘を立てて無表情で立っている。その両の眼には輝きのない黒い瞳が与えられているが、このふたつの小さな穴の向こうには知ることのかなわぬ暗黒が広がっている。

ほかのある絵では、地獄の底から湧き上がって来たかのように、無数の巡礼者達が丘を越えてひしめき合って、こちらに向かってやって来る。先頭にはギター弾きがいて大きく口を空けている。


ゴヤ 黒い絵

既に耳の聞こえなかったゴヤが心の中で聞いたのはどんな音だっただろうか。一瞬間聞こえたような気がした奇怪な歌声も、おびただしい数の人間共の発する悲痛な叫び声も、次の瞬間にはすべてこのギター弾きの開いた口の向こうに吸い込まれてしまう。後に残ったのは何だろう・・・僕は放心していた
 

トレドのエル・グレコ

マドリッドから汽車で一時間半ほど行った所にトレドという街がある。エルグレコが暮らした家が今も残っていることで有名な小さな一都市である。エルグレコの絵にトレドの景観という絵があるが、それを見れば、このトレドがどんな所かが分かる。つまり、十六世紀の眺めがそのまま現代に至っているのだ。

街の全体はまるい形をしていて、その半周が川によって囲まれたような格好になっている。小さく不定形な家が密集して建てられていて、家の形が四角形でないせいか、それらの間をぬう道は曲がりくねって、まるで迷路のように入り組んでいる。街全体が丘の斜面に広がっているので、道はすべて坂道、あるいは階段である。

この狭い街の要所々々に巨大な聖堂がそびえ立っている。外観を覆う装飾は襞のように入り組んで、その尖端は鋭く何本もの槍が天を突きさしているような、異様なゴシック建築である。ひとつとして平行に走る道や、直角に交わる道のない所なので、目的地を決めてその方向へ歩いて行っても、すぐに一体どっちに向かっているのか分からなくなってしまう。諦めてめくら滅法に坂道を登ったり下ったりしていると、時々思いもよらぬ方向に、例の聖堂の尖頭が見えたりする。

そんな時のあの巨大な槍は、まるで人をこの小さな閉鎖された街につなぎ止めようとしているかのようで不気味に見えてくる。そうするとグレコの描いたあの異様なトレドの眺めが思いだされる。僕はこのトレドの景観がエルグレコの家に掛かっていると思い込んでいて、ただただこの絵見たさにグレコの家へ向かったのだ。


エル・グレコ トレドの眺め

ようやく辿り着いたグレコの家は、二階建の非常に古い素朴な建物で、半分崩れ掛かっているように見えた。実際、僕が行ったとき、一部が修復工事中で、工事用のホロの中では壁土がぼろぼろと音を立てて落ちていた。グレコを始めとするスペインの画家達の宗教画や肖像画が至るところに掛かっていたが、保存状態はひどく悪く、そのほとんどが色褪せていた。

それでもあのグレコの、単調で偏執狂じみて同一のイメージを描く、独特な画風が作りだす雰囲気は、画面のひどい傷みにも係わらず少しも失われていないようだった。特に彼の晩年の作に見られる聖者達は、天に昇るべくその自らの姿を消し去ろうとする直前の刹那を捕えたような感じで、一瞬間後には跡形もなく消え去ってしまうがごとくに描かれている。

そして、その後には、彼が執拗に描く、あの地球上のものとは思えぬ異様な空が残るのだろう。その下に人気のないトレドの廃墟がうずくまり、横たわる。それが、グレコが描いたあのトレドの景観ではなかろうか。そんなことまで思わせる、ある明確な渇望をグレコの絵は表している。

結局、トレドの景観は掛かっていなかった。トレドの地図と眺めという絵があって、僕はそれと混同したものらしい。後で分かったが、当の絵はアメリカのメトロポリタン美術館にあるということだった。それにしても、トレドの景観に描かれた、草や木々に塗られた緑は素晴らしい。遠くから眺められた草は、ひとつの大きな塊として描かれていて、その輪郭は荒々しく波打って、その内側は何ら調子に変化をつけずに、べったりと緑が塗られている。その緑色の輝きはまさに内面の光である。

「日の光は私の心の光を傷つける」という有名なグレコの言葉は、実はある人間の創作だったそうだが、グレコがその人間をして言わせしめたと考えれば、この言葉の出所の詮索などいつまで続けても無駄であろう。それほどこの言葉はグレコの絵の性格を的確に表しているように思う。

エルグレコは現実の自然の風景をほとんど描いていない。人物画の背景は、彼がどの絵であるかを問わず繰り返し用いる彼独特の空や、岩や、草木などを組み合わせただけである。そういう意味でこのトレドの景観は彼が手がけた風景画として例外に属するだろう。

しかし、どうだろうか。この風景画においても、聖者達の絵に現われる、あの宗教的な、内面的な、渇望と陶酔がはっきりと感じられるので、トレドの街を聖者に置き換え、街を取り巻く草木を聖者のまとう法衣として見替えれば、異様な空の下のトレドの景観も。彼が繰り返し描く聖者達の図と何ら変わりはないではないか。


エル・グレコ

エルグレコという画家は、たったひとつのある宗教的感情を、その主題によって選択されたたったひとつの手法に頼んで、繰り返し同じものを描き出した、言うなれば不器用な画家である。真に画家らしい画家、例えばベラスケスの描いた絵が、我々の中に眠っている絵画的調和についての感覚を呼び覚ますように働くのに対して、エルグレコの絵は、もともと我々の中には何ら存在していない感覚であるにも関わらず、それを感染させ、その感覚をもともと持っているものと錯覚させてしまうような処がある。そういう意味では、不器用どころか、実に巧みに人の心を引きつける技を身に付けていたと言うべきかもしれない。

そしてこの点で僕はグレコから遠ざかる。実はヨーロッパへ実際に行く前、このエル・グレコは非常に気に入っていた画家のひとりだったのだ。プラド美術館で、そしてトレドで彼のたくさんの画布を見たが、これで十分だという気がした。グレコが見る人間に与える陶酔は非常に鋭い棘のようなもので、精神のある一点に深く突き刺さる。しかし、その一点を遠くから眺める事ができるようになってしまうと、その苦悩と渇望と陶酔はよそ事のような気がしてくる。

乱暴に言ってしまえばグレコの絵は、独立した絵画というより、宗教感情を喚起させるための飾り絵に近い。エル・グレコとはギリシャ人との意味で、ギリシャ人の彼は、ギリシャに今でも生きている礼拝堂の象徴「イコン」をスペインに持ち込み、これをベネチアの色彩と共に油絵に置き換えた。

僕はトレドで最初に見た大聖堂のいくつもの尖塔を思い出した。天を鋭く突き刺す幾本もの槍。グレコの印象はあの槍と結びついている。これに対してベラスケスには槍などどこにもない。そんなものを使わずとも彼の絵画の支配は絶対的である。僕がベラスケスから感じるのは匂いである。それも埃の匂いだ。すなわち、刺すのではなく、包み込む・・・注入するのではなく、吸入させる・・・



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