日本について


日本について話そう。日本の悪口は言わないことにして、思いつくままに書く。

鳥獣戯画を眺めていると、人間社会の風刺などという理屈はまるで思いつかない。人間の来ない人里離れた山奥ではきっと、あいつらがああやって遊んでるのだ、という気がするな。というのは、僕もあんな風な光景を見たことがある。ある夜中、酔っぱらって、くたびれ果てて、帰り道のいつもの坂道を上がると、小さな三角形の公園を挟んで道がふた又に別れるのだが、急に視界が開けた、いや、僕はあまりに疲れていてずっとうつむいて歩いていたのだが、ふと顔をあげると、これは夢か、と思えるほどたくさんの猫たち(十数匹はいたと思う)が集会をしていた。しかし、この時一瞬見えたのは、あのよくある無言の集会じゃなくて、皆が何か、一緒になって、何かきまりを作って遊んでいる光景だった。何か妙な儀式をやっているようにも見えたし、儀式の取り巻きが何かひそひそ話しをしているようにも見えたし、横の方にはぴょんぴょんはねる蛙がいて一緒に遊んでいるようにも見えたのをよく覚えている。

僕が眼をあげるとほとんど同時に皆が一斉に僕を見て、それで遊びを止めてしまったのだが、僕には確かにそう見えた。そんな、動物達が人間のように遊ぶ光景を、きっと昔の人たちは山でよく見かけたんだろうな。それにしても夢のようだったよ。すなわち動物がそんな真似をする訳がないと分かっていながら少しも不思議に感じず、その状況を受け入れて眺めている。そうするとこの世には、自分の気の持ち方ひとつで極楽や地獄が、至る所に実際に在るように思えてくる。それが高じると、人生が夢のように思えてくる。そうすると・・・

平安鎌倉の六道絵に病草紙という、当時の奇病をひとつひとつ詞書付きで解説した絵巻きがある。これはあまりに面白くて毎日見ても飽きない。烏帽子を被った歯の抜けた男がケツをまくりあげて糞をしている。ただこの男は尻の穴がたくさんあって、糞をするとき、とにかく辛い。尻の至る所から糞がしたたり落ちている。そこを女がのぞき込んでいる。詞書の日本語の良さは代え難い。
「しりのあなあまたにありけり。くそまるとき、あなごとにいでて、わづらわしかりけり」
この子音の並びや、「あ」や「ま」の反復が、尻に並ぶたくさんの尻の穴を視覚的に髣髴とさせるんだろうな、僕はこのことばを何度も心の中で反復しながら、この絵をずっと見ている。

興福寺で見た奈良時代の乾漆像は異様だった。あの顔が三つ、手が六本ある、若者の顔をしてやせ細って立っている阿修羅像は誰でも知っている。一般にこれは、「憂いに満ちた表情」と呼ばれている、ふん、確かにそう言ってしまえば、そうだろう。その横に並んでいた僧達の像のひとりは無表情で、他の一人は悲しそうな顔をして、もうひとりは目を閉じて奇妙に困惑したような顔をしていたよ。それにしても、すべての像は、焼け出された難民のように痩せ細り、小さく、軽く、みすぼらしい様子で立っている。いずれの像も物理的な存在感、つまり肉体というものが感じられない。彼らがこの世の中で占める体積はあたう限り小さい、この世との接触を最小限に切り詰めて立っている。そのせいなのか、像の周辺にただよっている空気はあまりに濃厚だった。こいつらはこの世の中でなんらの力も持っていない、それは触れれば一瞬にして霧散してしまう空気だ、しかし、これは間違いなく濃厚な実体のある空気だ、それで、この状態を昔の日本人はきっと無常と呼んだのだろう。

奈良へ行ったのは十五年ぶりくらいだった。昔の友達に会って酒を飲んだとき、彼は酔っぱらって、奈良時代は感傷的で見る物がない、と言った。おおかたどこかのバカな評家の言葉だろうが、僕も酔っぱらっていて、この言葉にえらく腹を立てたっけ。しかし感傷的という漢語がどこからきたか知らないが、古い日本語じゃないのは確かだろう。何か原因があって悲しみがある、とすると、僕の感触では、感傷とは、その原因と、結果である悲しみの量を計量したとき、それらが正確に同量である状態を指す言葉に聞こえる。僕が奈良時代の乾漆像を見た時に感じたのは、最小限に切り詰めた現世的悲しみの姿と、その向こうに見える途方もなく大きな、動かしようもない、奈良時代という原因が醸す、不気味な空気だった。ここでは明らかに原因と結果は均衡しない。だから感傷的という言葉から最も遠い物に見えたのだった。そうだ、やっぱりこの均衡しない様子を無常という言葉で呼んだのだ、きっとそうだ。

それにしても彼には彼の言い分がある。彼は鎌倉庭園好きで、奈良時代にそういうしっかりした現世的形がないことを指摘したのだった。しかし僕は鎌倉時代の筋肉や筋より、奈良時代のなよなよした風情の方が性に合ってるね。

平家物語の合戦に良い光景がある。川を渡っていざ合戦に臨まんとすると、ひとりの兵士が流れにすくわれて溺れそうになる、それを見た敵方の兵士が彼を陸に引き上げてやる。ようやく陸にたどり着いた彼は何事もなかったように立ち上がり、大声で口上を叫ぶ、それを見た敵方も見方もおおいに笑った、とある。そして直後に殺し合いに突入だ。これをとある友達に話したら、彼は、今ではヤクザがその世界に最も近いと言った。物事はやっぱり話してみるものだね、僕には想像もできない反応だ。それで僕は、確かにその通りだと大笑いしてしまった。

やっぱり僕はなよなよの世界で行こうじゃないか。日本の武士道的な、あるいは儒教から来る忠義心、そして三国志のような乱世と立身の志、などはいつでも僕のつまずきの石だった。それらは今ではヤクザや政治家が引き継いでいる、と率直に忠告されてみれば、日本のそういう部分は彼らに任せておけばいいという気になってさばさばするよ。

僕の家の机の前には、六道絵の地獄草紙が掛けてある。出てくる裸の罪人は皆、皮が妙にたるんでいて、ふくらはぎがぽこんと飛び出し、太ももが痩せていて、腹が若干膨らみ、胸の皮が垂れ下がり、ひとつの共通した形態を持って出てくる。この体は何か独特の郷愁を呼び起こすね。何だろう、分からないけど、むかし、アジの干物や、ひじきを喰って、井戸端の回りの赤土の上を走り回っていた幼少の頃の古い日本の最後の記憶なのかな。それにしてもあの体からの連想は、貧乏で、ロクなものを喰っていない、大量の白飯と少量の恐ろしく塩辛い干物の取り合わせ、という感じだ。

そうか、思い出したが、あの体型は死んだ僕のおじちゃんにそっくりだ。このおじちゃん、教養のないただの田舎の人の良い土方のおっちゃんだった。長年の不摂生がたたり五十近くに心臓発作で死んだ。釣りが好きで魚のことは何でも知っていた。このおじちゃんと、旨い魚を喰わせる地元の飲み屋を一緒に梯子して飲み歩くのが、田舎へ遊びに行ったときいつも楽しみだった。

地獄絵には詞書が付いていて、これは筆でさらさらと書かれた文字で、漢字よりもひらがなの方が多く、僕は日本人だから字のうまい下手は見れば分かるが、それにしてもこの文字の形は、何という、きちんとした幾何学に従わない形態であろうか。筆文字の太い細い、そしてさらさら流れたり滞ったり、間延びしたり、地獄絵の中のさまざまに苦しむ罪人達の取り留めのなさとまったく同じに見えるよ。彼らは永遠に理由付けも要約もされずに延々と同じ様な、けれど毎回何がしかが異なる形でのたうち廻っている。しかし、これら絵には救いがないね。詞書を読むと、これこれの罪状のため、これこれの地獄に落ちて、これこれの責め苦を受ける、と書いてあるが、ならば、これこれの罪を犯さぬようにすれば、こうはなりません、という教訓が聞こえてこない。むしろ、これこれの罪そのものがここ地獄で様々にのたうち廻っている。どうも浮き世そのものに見えてならない。罪人達の体型が死んだおじちゃんに似てるから?

声に出して読んだこれら古文の独特の音の並びは、音楽という名前では呼び難い、ある音調だ。なぜこうも分類や要約を拒むような取り留めのない音なのだろう。

むかし学生の頃、知り合いの家のおばあちゃんに少しだけ三味線を習ったことがある。僕はギター弾きなので、三味線を手にして簡単な曲を弾くことは、少し慣れれば苦もないことだった。「から傘」という曲を習った。簡単に弾けたが、このばあさんが弾くと、これは僕の弾いたのとは似ても似つかぬニュアンスで弾くのだった。あまりの違いに本当にびっくりしたが、それよりびっくりしたのが、この跳ねるリズムで弾く単音の旋律の全体が、ばあさんが弾いたとき、その弾かれた音の集合が、から傘の形を感じさせるあるかたまりになって聞こえる事だった。旋律とリズムという概念そのものが無いのだ。それはから傘の形と同一の何かの塊だった、それにしても気味が悪い、これは妖怪の姿そのものだ。

社員旅行で鹿島へ行った。そうでもなければこんな所は一生来ることは無かったかもしれない。初日の夜、ほとんど誰も居ない鹿島神社の境内を一人で歩き回った。たまたま菊祭りのときに行ったので、境内にはいる手前の道には延々と菊の花が展示され、こうこうと輝くランプの下で、その白くてこんもりと丸まった花がいつ終わるともなく続いていた。この光景は、僕には、白く晒された髑髏の頭蓋骨、それも目鼻口を失って永遠に外に対して表現することを失った、子供のまるい頭蓋骨を連想させるものだった。

その後、僕は境内の裏へ廻り、真っ暗の森、ぬかるんだ土、雑草の中をそろそろと歩いていたが、それはまるで自分の脳髄の中を歩いているような感覚だった。僕が子供のころは、まだ舗装道路もほとんどなく、土、草、木々、沼、池、そんな中で毎日遊んでいた。今だにいくつかのもの淋しい奇妙な光景を覚えている。それから三十年もたったけど、僕の脳髄に堆積した三十年分の経験の奥底を探ってみれば、まだがらんどうの空洞があって、その空洞の底は未だに土とぬかるみと草が少し生えているに違いなくて、そして、僕は鹿島神社の裏を歩きながら、これは、自分の脳髄の底を踏みしめて、自分でそこにいくつもの足跡を刻んでいるのだ、と想像していた。

しかし、異様な経験だった。これはきっとあの白い菊が器官を失った脳のように見えたことが引き金になったに違いない。直に物に触れるということは妙な事だ。物というのはその時、目鼻口を失ったのっぺらぼうのように見える。面白いのが、手足があって動いて歩いて逃げるのだが、目鼻口が無いせいで表現する事ができない。すなわち物というのは理由なく動くのだ。ちょうど宇宙空間に浮かぶ石をひっぱたくと延々と逃げ続けるのと同じだ。西洋人たちは、始めはこれを人格のある神々のせいにして、次に科学的に説明して納得した。昔の日本人たちは物に向かって訊ねたのだ、でも、訊ねてもなぜそのように動くのか聞き出せない、のっぺらぼうだから。それで日本人たちは訊ねるのを止めて、ある秘訣でそれを模倣して、自分たちに分かるものに変えた。

日本的精神風景から見た「物」というのは、何か外界に対して表現手段を失った閉じ込められた精神に見えないだろうか。僕には、日本人が自然を題材にするときにときどき現れる奇形じみた様子が気になってしょうがない。芭蕉の句にもそんな句がずいぶんある。

会津若松に行って、さざえ堂という木でできた螺旋型のお堂を見た。入る人と出る人が出会わない二重螺旋構造の珍しい建築物で、ヨーロッパの螺旋型建築に影響された日本人が建てた物と言われているらしい。世界的にも非常に珍しい、との事。しかし日本のそれは、長い年月を経て奇妙に傾き、歪んでいるのだ。木でできた建物というのは、木自体が生きているせいで、奇妙に変形するのだろう。見ていると、死体の爪が伸びる、髪の毛が伸びるのと同じ用な不気味さで、人間と物の間の区別を亡くしてしまうような感覚に襲われることがある。

しかし俺はなぜこう日本を不気味なものと解釈したがるのだろう。きれいで良いものをもっと探すべきだなあ。

去年、ボストン美術館へ行ったときは既に西洋美術に食傷していたので、東洋のものを丹念に見て廻った。一番面白かったのは中国の小物、薬ビンや小箱など。あらゆる形や色の細工が、夢のように次から次へと、およそあらゆるパターンとなって現れる。そして日本の仏像や浮世絵は、なるほど魅力的だ。西洋人の眼でなるべく見ないように注意しなくちゃあ、なにせ十年もヨーロッパ絵画に染まりっぱなしの眼でいきなり浮世絵などを見ると、昔の印象派の連中の反応のようになってしまう。さて、美学で見るのを拒否すると、今度は僕の中にある日本が、眼の前の作品に重なり合って見えて来る。これが僕の鑑賞の仕方の限界なのかな、再び、絵が異様なものに見えてくる。

たとえば、写楽の描いた役者絵は、そのグロテスクさで西洋人を引きつけたが、実際に見てみると、あのグロテスクさは、やっぱり奈良時代やそのほか昔に描かれた日本の絵に現れる異様な雰囲気と同一だよ。すなわち日本人の生活の異様さそのものだ。では、なぜそれが異様なのかと言えば、これは仕方ない、僕がその古い日本と何ら関わりを持たないこの現代東京に生きて来たからだ。だから僕の日本観は結局、僕の血の奥底に眠っている古い日本の生活原理と、それとほとんど関係のないように見える現代東京の生活原理とのあまりの不釣り合いが生む、ある奇妙な効果の総体に過ぎないような気がする。古い日本の遺物をあれこれと眺めて、それを、自分の裕福とは言えなかった幼少時代の経験の全体に照らし合わせて判断している。けっきょく、僕は日本を観察してそれについて考えているというよりは、自分の中にある、古い日本と新しい日本との奇妙な対照について詮索しているだけ、という気がする。忌々しいね、これがまともなものの考え方じゃないのは分かっている、けどどうすればいい?

だからもっと享楽しろよ、それがヤクザや政治家と僕の違いだと信じてね、へっへっへ

それにしても、日本を悪く言うなら際限なくいくらでも出てくるが、良く言おうとするときに出てくるのが、妖怪やグロテスクや、ことごとくエキゾティックな物共ということになると、閉口するし、やっぱり僕も日本人とは言えないかもしれないなあ。常々、自分は西洋の教養で育った東洋の子供だと思ってきた。それで、いつか里帰りしたときは、きっとジャングルの川を下るように、エキゾチズムの直中を興味津々で通り抜け、その果てに広々とした東洋のパラダイスがあって、そこで解放されて自由に幸福に暮らすだろうと、夢想するのだ。

僕は、仏陀が死んだとき、色とりどりの草花に囲まれて、そして人間も猿も犬も、およそあらゆる動物が悲しんで泣いた、という逸話を想うといつも陶然とする。上野の国立博物館に、仏陀の死を描いた縦長の絵がかけてある。画面の一番上のまん中の一番いい場所に仏陀が横たわり、その回りを嘆き悲しむ弟子達が取り巻き、そしてその回りに猿がいて、犬や馬や鹿やらがいて、そしてその回りに鳥やら蛙やらがいて、そしてさらに虫もいて、そして画面の一番下にはなんとムカデまでいる。このムカデなど、ほとんどお情けで同席させてもらっている、でもその彼も一番末席で仏陀の死を悲しんで泣いているのだ。こんな美しい大団円が他にあるだろうか。

これこそ西洋には決してあり得ない東洋のパラダイスじゃないか。この仏陀の死の図と対極をなすのが、西洋のキリストの死の図ではなかろうか。十字架にかけられたキリストを描いた絵の中には猿も犬もいやしない、歯を食いしばって悲しみに耐えている人間しか登場しない。しかも悲しんでいる人間達は人間社会の中で低い階級にいる人たちだ。彼らはこのキリストの死によって自分達の階級から自由になって、精神的な意味で、キリストのいる最も高い境地へ向かって登って行こうとしている、その悲壮な意志と決意が伝わってくる。

それに対して仏陀のパラダイスには厳然たる階級が最初からあって、皆は名々に与えられた場所で、仏陀の死を悲しんでいる。だから逆に、アウトサイダーがこのパラダイスに入場しようとしても無理だ、このパラダイスに入るには体と血が東洋人に成りきらなければいけない。観念でこれを求めても入場できない。それに対して西洋思想は、どんな異邦人でも仲間に入ることが可能な、度量の大きさと冷たさがある、すなわち理性がその切符なのだ。根本的なアウトサイダーのひとつの道は、幾何学に恋をすることだ。

僕はイヤだね、幾何学に恋なんかするもんか、やっぱり僕はあの東洋のパラダイスへ行きたいよ。その途中で僕が出会う物共が、地獄絵だったり、病の草紙だったり、みすぼらしい乾漆像だったり、たるんだ皮の古い日本人だったりしても文句を言うのは止めよう。それがきっと僕に割り振られた道筋なんだ、と考えておこう。

上野の博物館に、縄文、弥生、古墳時代の品物を集めた建物がある。いかにもお馴染みの顔が並んでいる、実際、こんなところでひっそりと無造作に並んでいたんだな。縄文のあの呪術めいた様々な奇怪な怪物達の像については言うまい、最近はブームにもなったし、遠く想像力を喚起する力がある。それにしても昔学校で、縄文は幼稚で、弥生になってやっと本当の日本の血統につながる洗練された美意識が現れる、と習ったような気がするが、理屈の道筋としては正しいと思う。例えば平安から鎌倉にかけて彫られた仏像達は、朝鮮や中国の血統からようやく離れて独自の形を見いだしたように見えるが、これらに現れたあのつるっとした楕円形のイメージは、弥生の形態に通じる。言うまでもないが、これに比べると縄文の形は異星人の作った物のように見える。先の「縄文は幼稚」という言葉には南方の土人に対する明らかな優越意識が見え、偏狭な昔の日本を思わせるが、これは今は不問としよう。

弥生から古墳時代へとやって来て、何と言ってもびっくりしたのが、埴輪の造形の稚拙さであった。埴輪の形というのは、これは僕が小さいころからあまりに馴染みの深いもので、ほとんど風景の一部になってしまうほどのものなので、改めて注意して見ることのずっとなかったものだが、さて博物館のガラスケースの中に無造作に並んだ、鎧を着た人や、馬や、その他動物などの埴輪の一群を改めて見ると、その幼稚さに唖然としてしまう。これほどの稚拙さは世界のどこを探してもそうはあるまい。というか、稚拙というより、白痴が作った造形のように見える。実際、白痴の作った造形には、常人の思いつかない独特なものが現れて人を驚かすが、埴輪の醸し出す雰囲気は、そんな風にも感じられる。もう少し言えば、白痴の作った造形には、他という意識が欠けている、ひたすら自分だけと対話した挙げ句に出てくる代物なのだ。

古墳時代は、前半の古墳埴輪を経て、後半は今度は一気に朝鮮一色に染まってしまうが、他国との交流の始まりと共に、それとの接触をひたすら避けるように内にこもった当時の日本の魂の、白痴的な内向性、それが埴輪になって、盛り上げられた土の中に埋められて、日本という土地の胎内で永遠に眠り続ける。古墳の盛り土は妊婦の腹のように見えないだろうか。

もうひとつこの博物館でおびただしく並んでいるのは勾玉である。くの字の形に穴を開けたあの形は、ちょうど胎児の形とそっくりである。一度そう思って見ると実に気味の悪い代物である。ちょうど、胎児が胎内で人間の形になる直前の、まだ魚の形と未分化な一瞬を捕らえて、あの勾玉の形が設定されている。いくつかの勾玉は、穴の下に幾本かの筋が入っていて、余計に胎児に似るのである。勾玉もやはり古墳時代に流行したものだが、朝鮮文化、仏教文化が日本に入り込む直前の、日本の魂の胎児的状態を暗示していないだろうか。

してみると日本の魂とは随分脆弱なものである。それにしてもこの脆弱さは、内にこもってひたすら外部との接触を避けるか、あるいはあまりに率直に外へ出かけて全てを受け入れてしまうか、のどちらか一方の選択を常に迫っていたのかもしれない。このふたつは日本の歴史の上に繰り返し現れるように思うが、その中に、日本の最上のものが何かしらの形で開花して来たことは、幸運であった、とでも言っておく他にない。ひたすら模倣した挙げ句に奈良時代あたりから独自の物が、その模倣先と一体になって現れるし、鎖国の江戸時代には、他にはあり得ない独特のものを生み出した。

そして、全てを受け入れた戦後、僕達の日本は最上のものを作り出しただろうか。いろいろな思いが錯綜して答えにくいが、現代東京人の僕として、この問いにはイエスと答えておこう。これについては、次に、現代日本について書くことで考えることにしよう。