随園のビビン冷麺はおいしいのだが


仕事がらなのか、何なのか、僕には韓国人の友人が多く、韓国になぜか縁がある。とは言っても韓国事情に詳しいという訳ではなく、自分の興味のある事以外にあまり立ち入らないせいもあり、個人的友人を通してその国を知っているというだけである。韓国に限らず、外国に対する態度は、僕はだいたいそんな感じである。初めての外国に接するとき、どんな国であれ、僕はまずだいたい食い物から入って行くのが普通である。趣味が料理なだけに、外国人に会ったり、その国に実際に行ったときも、まずは事細かに食の事情を聞いたり、調べて回ったりするのが常である。まずは底辺から味わって行く、というやり方である。もっとも、底辺だけで終わってしまうこともしばしばであり、ある国に何度も行ったことがあるくせに、その国の地理も歴史も、日本との関係もロクに知らない、ということもよくあることである。

さて、韓国へはこれまで二度遊びに行っているが、韓国の友人達はそれはそれは親切で、二拍三日のソウル滞在中ほとんどつきっきりで、あちこちに案内してくれた。案内先は大半は食い物関係。だから僕の韓国旅行は、食い物屋から食い物屋をひたすら梯子していた、という印象である。僕は韓国語も分からないし、ハングルも読めないので、ネイティブの付き添いは必須で、観光客が行かないところを特に選んでもらって、ひたすらディープなソウル巡りができたのも、友人達のおかげである。持つべきものは外国の友人だ、とつくづく思う。ソウル巡りの旅については別に書くとして、ここではソウルで味わった並みいる食い物のなかで、結局僕が一番恋しく思っているものを紹介するとしよう。それは「ビビン冷麺」である。

さて、韓国料理に興味を持つまでは、僕も一般人と同じく、韓国と言えば、焼き肉、キムチ程度の連想しかなかった。日本の街の至る所にある焼き肉屋へはよく通っていたので、コシの強い灰色の麺に、冷たいスープをはり、キムチその他の具の乗っかった、いわゆる冷麺もしばしば食べていた。それに対してビビン冷麺という和え麺の存在に、ソウル旅行で本物を食べて初めて気が付いた。ビビン冷麺はスープ冷麺で使われているのと同じ、あの灰色の麺を、赤いトウガラシ系のタレで和えたものである。

二度目のソウルで、友人に冷麺のうまいところがあるから連れていってやる、と言われて行ったのが「オジャンドン」というところで、そこには冷麺屋がいくつか並んでいるらしい。ちなみに韓国では、食い物屋は専門店が主流で、一種類の料理しか出さない、という店の方が多く、何でも揃っている料理店は少ない。だから、このオジャンドンの店も、冷麺しか出さない。ここで僕は初めてビビン冷麺というものを食ったのだった。せっかくなので、詳しく紹介しておこう。

テーブルに付いて注文するとまず、小さなヤカンが出てくるが、この中には薄い塩味のついた熱い牛のスープが入っている。ほどなくビビン冷麺が変哲ない白い腕に入って出てくる。少量のネギ、キュウリ、ゆで卵と、ゆでてスライスした牛肉がいくらか入った、赤いタレで和えた麺である。これに、食卓に並んだ、酢、ゴマ油そしてマスタードを各少量入れ、好みでグラニュー糖をさじ一杯入れて、始めにぐるぐるとかき混ぜてから食べる。口に入れたとたんはかなり甘く感じるが、そのうち何とも形容しがたい旨みが広がり、最後にかなりの辛みが来る。そこで、先に出てきた熱い牛のスープを飲むと、これが辛さでしびれた舌をさらにしびれさせ、そうこう食っているうちに全体に病みつきなる。タレの味は、基本的にキムチ、コチュジャン系の味なのだが、実に奥行きの深い、複雑な味がする。このビビン冷麺、誇張ではなく、この世にこんな旨いものがあったのか、という感想であった。

さて、ソウルでビビン冷麺の存在を知った僕は、日本に帰ってきて、例によってさっそくビビン冷麺を探し始めた。たしかに、焼き肉屋そして韓国料理屋のメニューを見てみると冷麺の部にあるあるビビン冷麺。さっそく、とある焼き肉屋で注文してみたら、これが似ても似つかぬ代物で、さらにはっきり言ってまずい。それ以来、何軒かの店で食べてみたが、ソウルで食ったものとは比較にならない。残念ながら、これはこれでうまい、というものすらなく、何かおいしくないのである。スープ冷麺にはうまいものがいくらでもあるのに、これは不思議だった。

そんな頃、歌舞伎町の外れの韓国系バーが立ち並ぶあたりにある韓国料理屋「随園」を知った。店員はオール韓国人で、注文した料理はすべて本場ソウルの味そのものでとても満足だった。そして最後に問題のビビン冷麺を頼んで食ってみた。うーん、確かにうまい。今まで東京で食った中ではダントツにうまかったのは間違いない。しかし、やはりオジャンドンのものに比べると落ちるのである。何かが足りない、という感じがどうしても拭えないのだ。僕が食事をしている最中、韓国人のOL風の女性が入ってきて、このビビン麺を6個テイクアウトして行った。ここ随園のビビン麺はそれなりに評判なのがうかがえる。

やっぱりソウルへ行くしかないのか。そうこうしてしばらくたったある日、韓国人の友人が日本にやってきた。久しぶりに会って、あれこれ話しているとき、ふとこのビビン冷麺を思いだし、結局、日本ではオジャンドンの味は見つからなかったよ、と言うと、ソウル在住の彼はこう言った「それはしかたない。ソウルですら、あのビビン麺はオジャンドンでしか食べられないのだ。どこを探してもあれより旨いビビン冷麺はないよ」なるほど、そうか、それじゃ仕方ない、次のソウル行きを待つしかないということか。彼は、今度僕がまたソウルに来たら、必ずオジャンドン冷麺屋に連れていってやるよ、と約束してくれた。