1998年4月にあったことと考えたこと
4月1日
先週の土曜、地元のバーで結成したシカゴブルースバンドの初ライブをやった。結果は練習不足ゆえ惨たんたるものだったが、客も酔っぱらっていて大満足のようで、ま、いいかもね。何せ開始が9時で夜半過ぎまで、しかもノーチャージだもん、気楽なもんだ。月いちぐらいで地元バーで演奏もいいよな、ここがテキサスだったらもっといいけど。
4月2日
とある大手電機メーカーへ行って仕事していたが、ここで僕はすごいものを見た。例によってここも仕事場禁煙で、廊下の一角に喫煙室がある。がらんとした割と広い部屋は何だか薄暗く、タバコのヤニで壁は黄ばんでいて、古くさいスライド式の窓ガラスは冬でも開け放してあり、さらに巨大な換気扇が常に音をたてて廻っている。ここには椅子はなく、ひょろりと背の高い黒い丸テーブルが4つあり、その上に大きなガラスの灰皿がひとつずつ置いてある、そして壁際に2台の自販機。
実は僕はここにもう何度も何度も来ていたのだが、このときなぜかふと、この殺伐とした部屋にもうひとつの物体があるのに初めて気が付いた、それは植物だった。細長い幹の上にこんもりとたくさん葉を付けたベンジャミンである。こんなものが置いてあったのかといくらかびっくりして子細に眺めてみると、気が付かないはずだ、葉っぱはほとんど深緑を通り越して黒くなっていて、上には厚く埃が積もっている。その様子が、灰を受けた灰皿を乗せた他の黒いスツールにそっくりなのだ、区別が付かないのだ。よくよく観察すると、何か妙な風に細い枝がとがって突き出していて、葉っぱは醜くちぢれたように変形していて、全体に刺々しい何かの虫のような風貌になっている。
少なからずショックだった。皆はここに来て、いっとき仕事の疲れを煙と共に吐き出してまた仕事場へ戻って行く。この植物はその吐き出された気を吸って生き延びていたのだった。恐らく人に好奇心を持ってあんなに長時間眺められたのは、こいつにとってほとんど数カ月ぶりの出来事だったのではないか、そんな風に見えた。同情には誘われなかった。こんな薄暗い部屋で枯れもせずに、むしろ動かし難い形で立っていた。普通ならあっと言う間に枯れていただろう。そいつはその養分を、そこに働く人たちの、牢獄の中の囚人の怨念のような暗い情熱から摂取していたのだった。普段は目に見えないものが、こんな形で見える物になって現れると実に奇妙である、まるで兼好法師の気分だよ。
4月8日
会社のクラブハウスで花見、料理を担当。ただ、40人だか来たので、その場で火を使う料理はきつく、すべて冷菜。ガドガド風棒々鶏、ゆで豚ニンニクソースかけ、タイの中華風刺身、とうがんのスープ。僕は料理を作るときほとんど食べないのだが、宴会終わり近く、自分の料理をひととおり食べてみたら、あら、なかなかおいしいじゃないの。15年続けてやっとここまで来た、単に料理を作るということを越えて実に色々なことを習ったよ、やっててよかった。
4月10日
桜が満開である。桜が散りはじめて地面を薄桃色にべったりと染め始めると、坂口安吾の「桜の森の木の下で(だったけ?)」を思い出す。そんなに気に入らなかったんだけど、まいど思い出すところを見ると印象が深かったんだろうな。つまり桜が散る風景には、なにか気味の悪い、残酷なものがある、ということ。
4月22日
ここのところ忙しくてまいっている。まあ、自分で立てた企画が通って自分で忙しくしてるんで文句は言えないが・・乃木坂駅から歩いて10分ほどのところにあるマンションの一室で仕事していた。乃木坂周辺の風景はいいねえ、山の手ってやつだ、実に落ちついていて気持ちがいい。いっぽう僕の家は大森山王、草木がのびのびとしていて猫がたくさんいる。なかなかいいところだけど、駅前に出るとまだ田舎くさいね、そこが山の手と違う。この前、家から池上本門寺を経て国道まで散歩したが、こちらは正反対、ぎすぎすしていて殺伐としている。草木はあるが、良い空気を発散していない、猫もいない。同じ都内なのにね
。
4月27日
土曜に文屋さんの結婚パーティで演奏した。渋谷クロコダイルですごい人数で、ウィーピングハープ妹尾にローラーコースターズ、ピーターバラカンやらも来ていてまあ、豪華だったね。演奏はいい加減だったけどまあまあ楽しかった。最近僕は、自分のバンドでワントップのばあい真面目にやるが、それ以外のお手伝いのときはひどくいい加減で、リハはさぼるは遅れるは、超ヒンシュクで、もう呼んでくれないかも知れない。しかし半ばそれでもいいやと思っているところがあって、たちが悪い。人のバックでやるのはもう飽き飽き、という訳。
4月29日
ゴールデンウィークの初日の晴れた暖かい日、上野毛にある五島美術館へ行った。美術展自体には特段のものはなかったが、ここ五島美術館の敷地は広く、展示場から外へ出ると、割と急な斜面一帯に草木が生え放題に生えてジャングルのようになった遊歩道がある。この一角に、草木に見えかくれしながら五十体は越すであろう大小の石のお地蔵さんが乱脈に至る所に置かれたところがある。短めの石段を登り切ったところの一等地に置かれた小さな地蔵は、他のおびただしい数の地蔵達とちょっと違っていて面白かった。こいつはなんとなくつるっとした感じの、目をつぶった、下膨れの顔したお釈迦さんの像で、その表現が他とくらべてとても稚拙な感じなのだ。今でも町のいろいろなところで目にするお地蔵さんのあの素朴な感じでもなく、また逆にもちろん立派な寺に安置された仏像の立派な顔でもない。しかしこの稚拙な感じの顔は、うっそうとしたこの森の中央にある像としてはふさわしかったよ。その場にぼんやりと立って、ふと像をのぞき込むと、木々に囲まれ、雨風にさらされ角の取れた、花崗岩の肌をした、このお釈迦さんの精神は、固い石の中で、ぐっすりと眠り込んでいるように見えた。この様子がいかにも回りの植物達と調和している、それはきっと植物というのが何か安らかに眠っている動物を思わせるからなのだろう。
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