ばあさんがクーラーにあたってすました顔してるというのは 人生が連続してる証拠だよ


なにもばあさんまで極端にしなくとも、自分について考えてみてもいい。たとえば僕は四十過ぎだが、三十年前の東京の生活はどんなだったか。クーラーなどなく、電車もバスも汗だくになって乗っていて、駅について歩いて汗だく、で、建物に入っても汗だく、と真夏の生活には逃げ場がなかった。道ばたには必ずどぶの溝があり、みみずがうねうねと泳いでいて臭かった、便所はくみ取りでバキュームカーが糞尿の滴らせながら道路を走り、ハエやカの量は今よりはるかに多くて、台所につるされたハエ取り紙にきたならしくくっついていたりしていた、とまあ、今現在では考えられない衛生状況の悪さである。これがばあさんともなると、あともう三十年だか遡るのである、一体どんな惨状だったのか、と思う。それでは、当時の人たちが今より不幸で大変だったか、というとそんなことはない、別にふつうに生活していた、あたりまえである。昔の環境とその中で生活していた自分と、今の環境とその中で生活している自分を、とつぜん取り出して並べてみると、あまりの理不尽な対照にびっくりする。もちろん、昔から今に至るまでの間に、このようになるに至った、一番大きそうな要因やトピックというものはある。クーラーが安くなったとか、日本の経済が上向きだった、とかなんとか。しかし、どうも、ひとつやふたつの事件が原動力になって、このようになった、という感じがしない。何というか、あらゆる事柄が連続して、オーバーラップして、互いに影響を及ぼし合い、大きい事件から小さい事件までのすべての事件が、ある方向性に向かって絡み合って総体として進んでいった、という風に見える。つまりすべてが連続して、すべてが一斉に今の方向に向かって連続的に変化しているように見える。どうもうまく言えないが、もし連続していなくて、ある突出した事件の結果こうなったと説明できるなら、昔の自分を思いだして、簡単にその自分に戻れる気がするが、実際にはどうもできそうにない。