創るより作るの方が高級だ


いつごろだったか、企業のイメージチェンジが盛んに行われたときがあった。まずは、社名、そしてロゴデザインを各社次々と変えて行き、それに伴い、企業方針のようなものを謳った、いわゆるキャッチコピーも氾濫していた。社名はたいてい横文字になり、ロゴはポップアート調、そしてキャッチはやけに高邁な雰囲気になっていて、おもわず笑ってしまうものもずいぶんあった気がする。そんなキャッチのなかでよく使われた言葉が、この「創る」である。「何とかかんとかを、私たち何とかは創り出します」、といううたい文句がとても多かったように思うが、実にキザっぽくて、照れくさい。当然ながら「創る」というのは、新たに作り出すこと、「作る」は一般的な用字で、主に形をこしらえることに使うわけだが、さて、「創る」などという漢字の「つくる」が、それより前にあったのかどうか。ひょっとして、キャッチ作りのために流行らせただけじゃなかったか。新しくものを作り出すということが、まるで安易な簡単なことになったのは、現代以降のはなしで、こんな現代に聞く「創る」という言葉ほど安直な響きはないように思う。それに対して、その昔から綿々と作られてきた伝統的なある形を、着実に受け継ぎながら、ほんのわずかずつ、ほとんど目に見えないほどの遅い速度で変化させて行く、昔ながらの「作る」という行為の方がどれだけ高級か、と思う。だって、どんなにつまらないものでも、これまでに無いものを作れば一応新たに創造したことになるが、歴史を経て洗練されてきたある形を作ることには技術の習得と鍛錬がいる。現代では、創造の行為を、それがどんなに稚拙であっても認めてやって、ある力を持たせることができる流通機構ができあがっているせいで、創造行為がいとも簡単なことになった。すなわち、創造のための創造というものが現れたが、昔はそんなものは単純に相手にされなかったはずだ。もっとも、今では、広告のキャッチの「創る」はすでに古くなっていて、もう使われることはほとんどなくなった。結局のところ、ひととき多用されてあっという間に捨てられた「創る」という言葉のこの運命そのものが、「創る」という言葉のやくざな意味そのものを現わしている、ということか。