太陽系に大巨人が現れて月をスコンとたたき出したら日食の予言は外れる


当然ながら、ニュートンの法則やら何やらの物理法則を使えば、日食の時間は、何年何月何日何時何分何秒まで正確に計算することができる。その昔はこれはまさに「予言」だっただろうね、しかし、たぶん今では「予告」とでも言うのではないか。人知の及ばないことを予告してみせればそれを予言と呼ぶのだろうが、しかし、日食の予告は果たして今ではすっかり人知の及ぶことになっただろうか。いや、そんなことはない。物理法則は、法則という要約によって、できごとを空間的に、時間的に無制限に延長するが、実際は、無制限に応用することはできないことを、程度の差はあれ、皆知っている。すなわち、自分が、予告された出来事が起こるのを待つ間に、実際には「何が起こるか分からない」からである。日食の予言だって、それこそこの「大巨人」が突然現れて予告を外してしまうかも知れない。それがあまりに荒唐無稽だと言うなら、日食の予告までの間に、人間が核爆弾を使って月の軌道を変えてしまうかもしれない、そうすればやはり予告は外れる。
昔、ある人と酔っぱらってしゃべったとき、その人は、我々の発見した何種類かの元素で、この無限とも思える宇宙のすみずみまで構成されているというのはすごいことだ、と言ったので、当時の僕はまた偏狭でもあったので、それは宇宙のひとつの見方の過ぎず、だからそれは一種の信仰なのであって、ロマンチシズムに過ぎないのだ、と決めつけ、言い合いになったことがあった。僕が思うに、その人は、自分がどう頑張っても手が届かないところに存在するものに対して、科学という人知を使って手を伸ばすことができる、ということについてロマンを感じるのだろう、と思う。そうなのだ、知性というのは、自分にとって物理的に手が届かないものを手に入れるための道具なのだから。そのために、知性がねらい通り働くには、自分のいる場所と、手に入れたい物がある場所の間に広がっている空間が、法則に従う「心のない」物体で満たされていることを仮定することがどうしても必要になる。これは空間についてだが、時間についても同じだ。この仮定は、多かれ少なかれ正しく成り立つので、人は知性の力によって広大な世界へ踏み出して行くことができる。しかし、仮定は、仮定に過ぎないので、外れることだってあるのだ。だから、自分の手の届かない世界へ一歩を踏み出すというのは、程度の差はあるが、本当の本当は、賭のようなものなのだ、冒険なのだ。いくら科学が進んで、ほとんど予言が可能なほどになったとしたところで、この事情は変わらず、ただ、最大限の収穫を得るためには、最大の危険をおかす冒険が必要だ、ということになるのだ。しかし、さきほどの人との話だが、今だったら、この「太陽系に現れた大巨人」の話をするだろうな。僕は物理法則をそのようなものとして考えていて、物理法則に従わない何物かが、この物理世界の至る所に潜んでいて、訳も分からず突然姿を現し、人を驚かせる。まあ、そっちの方が物理科学より、面白くなっちゃったんだね。