時間を単位としてでなく、できごとを単位にして生活しよう


時間というものはなかなか冷酷なもので、線を一本ひっぱって、そこに区切りを入れて時刻を記入し、区切りと区切りの間にやらなくてはいけないことを記入し、そうやって記入が終わったとたん、なぜなのだか自分の生活がこの一本の線に拘束されるようになる。しかし、実は、大切なのは、区切りではなくて、そこでやることであることは誰でも知っている。しかし、時間を決めないと、いつになったらできるか分からず、それで時間を決めるわけである。しかし、なぜ、ある時刻までにあることがらが完成していないといけないかというと、これはもちろん、自分以外の他人も、同じように時間を単位とした線表で行動しているからである。しかし、もし、誰も時間を気にしなければ、ある事柄がいつ終わろうが一向に構わないか、というとそんなことはない。自分に関わる他人は、自分の仕事の完成を待たないと、次の行動に移れないからである。だから、実は、ことがらは、時間の連鎖によって起きているのではなく、できごとの連鎖によって起きている、と考えた方が自然なのである。事実、たとえば昔の(今はさすがに違うらしい)東南アジアの国へ行けば、できごとは決まっているが、時間についてはほとんど決まっていないに等しく、昼過ぎ会いましょう、とは言うが、1時に会いましょう、とは言わず、仮に言ったとしても1、2時間は遅れたり、あるいはその日には来なかったり、まずはいい加減である。なまけものだ、というよりは、常に、ごく自然にできごとを単位にして生活しているからだ、とも言えるだろう。できごとの連鎖というのは、とてもフレキシブルで、いろいろな異なる結末に人を導いて行く。節目節目のできごとは、そのときの状況によってずいぶんと左右され、偶然がいくらでも入り込むので、ときにはあらぬ方向へ逸れて行く。その結果、ときには思いもよらぬ良いものを手に入れ、ときには失敗をして悪い目にも遭うだろうが、少なくとも生活は充実するのではないだろうか。つまり時間は一本の線だが、できごとは、ツリー状にどんどん広がって行く。また、時間は「必然」を語るが、できごとの連鎖は「偶然」を味方につける。一本の線の上を逸れずに歩いて行くよりは、次々と広がって行く連鎖の波に乗って生活するように心がけたいね。