「ああ、ここの真夏の太陽の美しさ! 頭を日にうたれて、気が変になるのも無理はない。もうおかしいのかもしれない、僕はただ悦ぶだけだもの」

南仏のアルルから、友人のベルナールに宛てた書簡の言葉である。僕がゴッホを知ったのは、絵よりも先に、岩波書店から出版された文庫「ゴッホの手紙」を通してであった。特にベルナール宛の書簡は、そのほとんどがアルルで書かれたもので、そこには、冒頭にあげたような言葉が至る所にばらまかれていた。それら強く彩られた言葉に、僕はどれだけ魅せられたろうか。太陽と自然への度はずれた讃美、美を求める烈しい情熱、果てしの無い形而上的夢想──当時学生だった身にとっては、精神を高揚させてくれるものこそ必要だったのだ。そして、やがて興味は精神病を患ってからのゴッホの、弟テオに宛てた手紙へと移って行った。そこには、芸術と、狂気と、日に日に追い詰められて行く生活との悪闘の中で、絵画芸術にひたすら捧げられた殉教者のごとき精神があった。それは、何事に対しても一線を踏み越える彼の、その過剰が産み出した苦悩に満ちた悲劇として、僕の心を打った。彼の熱狂も、彼の不幸も、皆ひとつの大きな運命の劇として詩われているように感じられたのだ。ゴッホの画集を買い込んだのは、随分たってからだったように記憶している。僕にとって、彼の数々の絵画は、ゴッホという人間の悲劇の力強さの明かしであり、画集を眺めては、この類い稀な人物を襲った、運命の大きさを、心の中に思い描くのだった。そんな風だったから、近い内にゴッホ展が日本で開催されると聞き知った時の喜びは大変なものだった。一九八五年に上野の西洋美術館で開催されたゴッホ展は、過去最大の規模であった。待ち焦がれたその日がやって来て、上野へ向かう電車に乗った僕は、震える心を抑えきれず、じっとしている事ができなかったのを覚えている。はやる気を抑えて会場へ入り、足速に身て回り、そして、結局、茫然としたのだ。僕が期待していたような饒舌はどこにも見当たらなかった。絵は全て物言わぬ光だけで出来上がっていたのである。………


この単純な事実を納得するのには、余程時間が要った。始め、どんな絵が運ばれて来ているのかを知るために、入口から足速に見て回ったのだが、遂に印象的な絵に一枚も出会わぬまま、出口まで来てしまっていた。いわゆる傑作が展示されていないのだろうかと訝ったが、日頃画集で見慣れた絵は幾つもあったのだ。しかしそれらが僕に何らの衝撃も感動ももたらさないのはどういう訳か──出口近くに掛けられた、あっけない、真青に塗られた女性の肖像の前で、僕は気が抜けて突っ立っていた。仕方がない、期待し過ぎた僕が悪いのだ。気を取り直してもう一度ゆっくり見て回ったが、やはり合点が行かない。ここには本当の傑作が運ばれて来ていないのだ、という疑いがなかなか消えようとしない。

しかし、何回目だったろうか、一枚の絵がようやく僕の眼に止まった。「刈取る人のいる麦畑」という題の付いた真黄色に塗られた絵だった。無論この有名な絵は、画集で幾度も飽きる程見て知っていたのだが、いま自分の目の前にある絵は、今まで見ていた絵とは、似ても似つかない絵であることに僕は気が付いた。それまで僕は一体この絵を見て何を感じていたのか──気違いじみた黄色の緊張、恐ろしい厚塗りに込められた情熱、渦巻く筆触の荒々しさ。しかしそんな大仰で騒々しいものはどこを探しても見当たらない。画布の中に広がっていたのは、絶対的な、静寂だった。それまで僕が見たことも感じたこともない、恐るべき静けさだった。ただ僕の心は、硫黄と鉛白にバラ色を混ぜ込んだ、奥行きも遠近法もない、ゆっくりと流れる黄金色の画布の中に、死んだように溶け入ってしまったのだ。この時僕は、初めて、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホという名の画家の描いた絵画を見たのだと思う。それまで僕は、ゴッホという人間と、彼の手に成る絵画を混同し、画布に盛られた絵具の厚さが彼の情熱を、筆触の勢いが彼の感情を、どぎつい色彩が彼の感動を、僕にたたきつけてよこすだろうと、自分勝手に決め込んでいたのだ。しかし、このたった一枚の絵によって、僕は自分の考えが間違っていた事を、徹底的に納得させられたのだった。それから後、彼の数々の絵画は、僕に、それまで見た事もないような魅力を明かし始めた。それは全く新しい経験だった。複製で見飽きる程見ていた絵が、今では僕に、今までは想像もできなかった言葉で語りかけてきた──それは、色と線という、画家の扱う手段の純潔を、僕に告げたのだ。

そして僕は、西洋美術館の最上階の最後の間に立っていた。天窓を通して、柔らかい太陽の光が降り注いでいた。そこには、ゴッホが、彼の最後の土地、オーヴェールで描いた数枚の絵画が掛けられていた。崩れかけた藁葺の家屋も、昼下がりの田舎道も、荒寥とした麦畑も、木々と草花に閉ざされた裏庭も、すべて清らかな光に包まれて、驚くべき純粋さに輝いていた。僕はもう、ほとんど信じ難い思いであった。僕の聞き知っている、彼のごった返った生活の一体何処からこのような絶対的に沈黙した光が現れるのだろうか。画肌を見れば、変わらぬ荒い筆使い、大胆な色使い、安定感を欠いたデッサンが、如何にして安らかな光の中にひとつに溶け入ってしまうのか。ゴッホという人間の動的に高揚した精神と、画布を支配する静的な輝きは、一体何処でつながっているのだろう………

相変わらず天窓から光は注ぎ込み、部屋は光で溢れていた。僕にはそれが、彼の絵の美しさに共感した太陽が送ってよこした、慈愛に満ちた讃美歌であるかのように感じられるのだった。いつもはうるさい見物人のやたらな足音や話声も一向に耳に入らない──既に僕は絵を見ているのではなかった──光の音に聞き入っていたのだ。………


この印象は非常に強いもので、それ以来僕の考え方は一変した。僕は幻を信じる事を覚えた。僕には、オーヴェールで描かれたゴッホの絵に現われた光が、書簡集を読んで知ったゴッホという人間とも、現実の風景にあくまで固執した彼の画布の上の自然の容貌とも、無関係であるかのように感じられるのだ。それは、苦悩と歓喜のぬかるみの上にぽっと現れた、光輝を背負った幻とも思えるものだった。しかし同時に、僕は、その幻がおよそ女々しさを知らぬ、強靭な理性の行使の果てに生まれたものだという事を知っている。彼の生活は、結局、絵画によって滅茶苦茶になったが、同時にその生活は絵画を必要とし、絵画なくしては存在し得ないものでもあった。こうした解き難い人生そのものの謎が、彼の運命に深く根ざした矛盾があったのだが、僕には、画布の上に現れた光が、それら矛盾憧着する人生と絵画とを結ぶ、幻の架け橋であるかのように感じられるのだ。彼のどの画布を見てもその裏には彼の書簡の言葉が記されている、と叫んだのは小林秀雄だが、注意せよ。ゴッホは決して画布の表に言葉を記しはしなかった。依然として、絵画と言葉は薄っぺらな一枚の画布で隔てられ、それは越える事のかなわぬ溝なのだ。それは最も近いと同時に最も離れている。それ故に、その光は──幻は──最も見事な嘘をつくのだ。

ゴッホ展は終った。僕が見た光は、僕の心に一生消えない印象として、深く刻み込まれた。その後、他の機会に、これら最初に出会った絵に再会する事が幾度かあったが、僕が心酔した光は、再び現れる事はなかった。そして僕は考え始めた。僕の目的は、ゴッホという人間を分析する事でも、絵画と書簡の因果関係を割り出す事でも、絵画の中の謎を解き明かす事でもない──僕の見た光の正体を掴む事だった。それから実に乱脈に秩序なく文献を漁り始め、画集を買い集め、ゴッホの生活の輪郭を知り、大半の作品を色刷りで見た。ゴッホ展が終ってからも、幾つかの美術展でゴッホの作品が展示され、更に数枚の画布を目のあたりにする事ができた。中でも、アルルで描かれた自画像や、オーヴェールで描かれた特に有名ではない数点の作品から強い印象を受けた。


僕のゴッホに関する考察は、ほんの僅かな数の画布から始まっている。したがって最初の手がかりとして僕が掴むのは、丁度、大木の無数の葉の中のたった一枚の葉に過ぎないだろうが、その掴み方さえ誤らなければ、一枚の葉から枝を、枝から幹を、幹から根を、根から大地を、そして大地に降り注ぐ太陽の光を辿ることが出来ると信じている。今では僕は、あの西洋美術館の一室で、僕を包み込んで陶然とさせた光が何であったのか、理性的に把握する事ができる。ならば、彼の絵を無心で見入っていたあの時より、僕はそれを理解したと言えるだろうか──確かにその通りだろう。しかしあの感覚が二度と戻って来ない事を僕は知っている。感動の命は長くはない、むしろ驚く程短い──それが人の心に残して行くのは思い出という、手に取ることのできる安全な代物に過ぎない。しかし、それを思い出にせしめた理性の動きを記す事は、これは僕にとってどうしても必要な事だ。それは、感動を蘇生させるためでも、手に取れるものにして皆に見せるためでもなく、むしろヴィンセント・ヴァン・ゴッホに対する感謝のためである。