おまえさ、去年、失業してたころ私小説を書いてただろ、あれどうした?

あ、そうだ、すっかり忘れてた、そのままになってる

続けたらどうなの

うん、そうだな、たしかにやってるときは楽しかったけど、忙しくなって途中で止めちゃったな。たしか、5節分ぐらい書いたっけ

書かないのか

うーん、どうしようか。書こうかな

なんで迷う?

うん、それはさ、あの私小説ってちょっと日記に近かったんだよ。失業前後のさ。だから事情を知ってる人に公開したらまずいだろうなって思ってさ。あのころは、例のブコウスキーを夢中で読んでいたときでね、彼のようにあったことをダラダラ書くのにあこがれたのもあるな

なるほど、ブコウスキーは半分は事実だと思うけど、けっこう気にせず書いてるよな

ああ、他人をありのままに書くとだいたいはその他人は気を悪くするからな。それを分かって書いて公開するってのは、それだけ性根が座ってるってことかな。まあ、世の中と一回決別した人の持つ潔さみたいなもんか

ああ、で、おまえはそこまで出来ないわけだな

うん

でも、別に悪口を書いているわけじゃないんだろう?

そりゃそうだ。そんな気は毛頭ない。単に、ありのまま自分の感じたことを書いただけだ

だけど、それを読んだ当人は気を悪くして、最悪の場合、おまえに対して社会的復習をするんじゃないかと、怖いんだな?

まあ、そうだ

小説家にはなれないな

それも、同意だ

やっぱりさ、小説家にしても、評論家にしても、哲学者にしても、そういったものを書く人ってのはさ、社会的しがらみみたいなものといったん決別する覚悟が必要だよな。

つまり、いったん、死ね、ってことだな。それは、意外と大切なことかもしれないな。人間が社会で生きていく上で

ああ、いったん腹をくくった後、実はまた社会に生きなくてはいけないわけで、ただそれが以前と違った社会になるってだけだけどな。案の定、その新しい社会に、再び社会的しがらみは発生するしな

最近の日本が息が詰まるってずっと思っていたことの一つに、この、社会をポンポン変えて渡り歩けない感が強いってのがあるな

つまりどこの社会へ行っても同じしがらみが支配してるってことか

えーと、社会的に一回死んじゃうと、もう2回目が無いんじゃないか、っていう村八分的恐怖が蔓延しているように感じたりね。

あ、いや、たぶんさ、それは日本の問題じゃなくて、単なるお前の問題じゃないか?

まあ、それもあるが、情報化社会にはそういう一面があるのも、確かだぜ

まあな。しかし、なんだか、今日のお前は歯切れが悪いな

歯切れか。なるほど。ところで、さっき図書館へ行って、例によって哲学架をうろうろしてたら池田晶子という哲学者の本を見つけて少し読んだよ。あの人、過激だな

小林秀雄を敬愛している人だよな。新・考えるヒントというのを出しているから知ってただけだけど、読んだことなかったな

テレビは下らなく、馬鹿になるだけだから見ない、インターネットもパソコンも不要、とか言ってるし。考えること、そして、善く生きることが人間の本来のあり方なのだが、特に現代人は楽して生きるために必要な物質的なものに翻弄されて右往左往しているだけだ、って言ってるな

言うとおりだけどな

いろんな人や社会現象やなにやらをずいぶんばっさりと否定して攻撃もしているな

あれだけはっきり否定や攻撃すれば、そこそこに敵も作っただろうな。しかし、敵を作って苦境に陥ることなんかより、自身の人間として善く生きる道の方がはるかに重要だ、という信念があったんだろうな

うーん、信念という感じじゃないんだな。信念と言っちゃうと、見つけて育てて大きくなるものに思えるんだけど、この人は違う気がする。むしろ、業のようなものに見えるな

ネイチャーで、こう。ってやつか

この人、笑顔がホントかわいらしいんだよ

うん、美人だよな、この人。若いころモデルをやっていたって聞いたよ

うん、でも、あの素敵な笑顔は文章の上にはほとんど感じられないんだよ。笑顔だけは子供のころからの、昔ながらの顔だったのかな

彼女が敬愛していた小林秀雄はとてもいい顔をしているけど、彼の場合、あの顔はそのまま文章の上に現れているように感じるな。小林秀雄が昔、軟弱な文学者や評論家をべらんめいで一刀両断に攻撃してたときも、すごくナチュラルな行為に見えるんだよな

ああ、池田晶子さんとはそこは、違うな

彼女、47歳って若さで死んじゃうんだよな、ガンで

うん、こういう邪推はあまりよくないけど、なんだか無理してたのかな、って思っちゃうよ

しかし、惜しい人を亡くしたとは感じるな。こういう人は早死にしちゃうのかな。それにしても、おまえ、結局、池田晶子の本借りてこなかっただろ

ああ、そうなんだよ。ぱらぱらと読むと面白かったんで借りようと思ったんだけどさ、なぜだかわからないけど、なんとなく虫の知らせ的に借りるの止めちゃったよ

ふーん、へんなの

さて、どうも、調子が悪いな

ああ、悪い

まだ10時だけど、寝ようかな

寝るか

あ、そうだ、コーヒー買ってくるの忘れた。明日の朝どうしよう

たまには外へ出て、お店で朝コーヒーでも、したら?

なるほど、それはいい、そうするか!



新どうでもいいこと9