人生論 (トルストイ)

前に感想文を書いた「懺悔」の発表を境にして、トルストイは、芸術と美と詩を崇めた前半生から、キリスト教に基づき人類を善へと導く思想を説く後半生へと転向する。「懺悔」では、その精神的危機を執拗に語っているが、人生の意義に関する結論は書かれていない。最後に、信仰に救いのきっかけを見出し、これから神学に関する膨大な調査を始めるところである、というようなところで終わっている。

この「人生論」は、ちょうどその回答に相当するものである。トルストイの転向後の文学については、ほとんど乗りかかった船だ、とばかりに読んでいる。

それにしても、この人生論、たしかに人生の深刻な諸問題に関する綿密な回答なのであるが、なんと余裕の無い回答であろうか。

僕の中のトルストイのイメージは、上質で、まっすぐに伸びた竹のような硬さ、という感じである。すこぶる硬いが、いったん割れると、まっすぐにきれいに割れて、そこには等間隔のがらんどうの部屋が整然と並んでいる。同じロシアの、もうひとりの同年代の大作家ドストエフスキーの底なしの深みとなんとイメージが異なることか。ドストエフスキーの地下は深く広がっていて、そこにはボッシュの描いたようないろいろな秘密の部屋が通路でいくつもつながっている感じである。

まあ、いずれも僕の勝手な空想なのだが、この二人は同じキリスト教に思想的根拠を求めている同時代人だが、その根本的思想に似たところが無いような気がする。似ているところといえば、二人とも、その、人生を考える上での度外れた真摯さと純真さゆえに、他に例がないほど過激だということぐらいか。

トルストイほどの作家に対して、好き嫌いを言うのは的を得ていない反応だとは承知だが、僕は彼の一種の冷徹さ、物事をあからさまにえぐり出して見せる、あのやり方についていけない感じがする。それに対してドストエフスキーには、いろいろな隠れ家がある。隠れ家の中の様子は執拗に描かれているが、白日の下に引っ張り出して描くのではなく、あくまでもその隠れ家の中で語られている。したがって物語りは気違いじみているが、冷たさは無く、異常に対する愛着すら感じられ、なんというか、僕には、彼の作り出すその全体の世界から、生きることに対する感謝と愛情が溢れて出ているように感じられるのである。

僕は、ドストエフスキーについてはその全作品を過去に熟読しているのだが、今回、トルストイをいくつか読んでみて、やはり、自分にはドストエフスキーが合っていることを再認識したように思う。