悪霊 (ドストエフスキー)


これは再読である。しかも、実は何度目か分からないほど何度も読んでいる。改めて読んでみて、今になって強く感じるのが、このごった返しの世界全体にあふれている、生きることの充実感である。僕の恩人でもあるドストエフスキーについては、同じくゴッホについて本を書いたように、一大エッセイを書いて恩返しをしなくてはいけないところだが、なぜか書き始める自信が無く躊躇したままである。ここでは、今まで彼について考えてきた真面目路線からちょっと違うことを、ちょっとだけ書き留めてみよう。小説の筋書き自体は、当時ロシアで起こっていた革命分子の反社会行動に取材したもので、西欧の革命思想に感化された若い世代と、物語の舞台になる小さな町の旧世代との間に起こった奇怪な事件について書いている。小説の中には、実に様々な型の人物が現れて、めいめいがどう制御の仕様のない衝動や心情、情熱に動かされて悪夢のように全力で行動している。これを読んでいて、正直に感触を言うと、こうしないといけないという猶予なしの命令を受けて行動に衝き動かされている状況が自分とかぶって、およそ経験したことの無いような充実感で人生を送っているように錯覚するのである。自分の意思で行動している、というより、出所不明の厳命により行動させられている、という感覚である。こういった事態が起こっている現実の場所で、もっとも分かりやすいのは戦場であろう。ドストエフスキーの場合、人間たちに乱脈な命令を下しているのは「神」である。この辺、作者が下しているようにどうしても見えないところに、彼の恐るべき才能と天性があり、ほとほと感心するが、とにかく、ここで展開されている世界は「神の銘による戦場」と言っていいように思う。そういう意味では、たとえば、あの残酷なギリシア神話と同じところがある。ところで、昨今、若者たちの間で定着しているテレビゲームだが、主流はやはり戦闘ものであろう。あのバーチャルな、作り物の、しかし次から次へと行動を強いられる世界にどっぷりつかるのも、やはり同じような充実感によっている気がしてならない。つくづく、人間、特に若い世代というのは、本能的な意味での戦いを求めているのだなあ、と思う。悪霊の世界と、戦闘ものゲームの世界の、その世界の大きさ、深さのあきれるほどの違いは、また別の話だ。僕は、ただ、ゲームに夢中な今の若者と、ドストエフスキーに陶酔していた若者だった自分を並べたとき、その快感の元になっていた生理的条件が同じものらしい、ということを思うのである。ここで、そういった陶酔に必要な条件として重要なもののひとつに過酷な生活環境がある。彼の小説で繰り返し現れるロシアの過酷な自然は、実はとても重要らしい。寒く、湿っていて、夜はろうそくの明かりだけで暗く、自身の情熱の炎がなければあっという間に凍えて死んでしまうような感じである。同じくインドあたりを放浪している日本人たちも、ことさら過酷な場所を選ぶように行動している。これなども同じ生理的要求にもとづいて見える。現代人が生きている、何もかも露出していて、明るくて夜が無く、何でも手に入り、エチケットだけで道徳的欲求が無く、隠れ場の無い、このたまらない現代世界は、特に若者たちにはとても気の毒に感じる。大人たちはまあいいとして、本能的かつ生理的欲求が有り余っている若い世代には厳しい環境だろうね。以上、当の小説とはあまり関係のない話でした。