人間の活動のコンディションを正帰還の臨界点に持って行き、そこにしばらくそのまま留まっていることができると、ごく僅かな外来の刺激がたちまち無限大に増幅され、なだれ現象を引き起こす。そういう臨界点を、あるていど意図的に作るすべを知っている人って、ごくたまに、人間技と思えないようなことを仕出かす。ひょっとしていわゆる霊との交信というのも、そういった臨界点を利用して可能になるのかもしれない。ただ、臨界点を利用したなだれ現象では、いいも悪いも一緒くたに入ってきて増大するだろうから、実際には引き起こされたその結果の良し悪しに保証はないはず。そして、その地点で、はじめて、「その当の人間の資質」が表面化し、結果の良し悪しを左右するんじゃないだろうか。

音楽演奏のアドリブってのは不思議なもんだな。同じようにテキトーに弾いていても2人のプレイには確実に差が出る。で、なぜ、こっちのプレイの方があっちのプレイより「良い」か、理由がよく分からない。

アドリブのプレイの良し悪しを判定できる機械がもしできたら、その機械はどんなアドリブが良いかその理論を知っているわけだから、その理論に従って演奏して音にする機能を付与することで、アドリブプレイができるマシンができそうだ。

で、そのアドリブマシンがごきげんな演奏なんかしちゃったら、客席の女の子はマシンに惚れるぜ。それで、そのマシンが「デヘヘ」とかいってテレる機能を持ってたら、もう、かなりイケてる。

結局のところ、アドリブマシンの設計ポイントはフレーズ生成手法にあるのではなく、いかに聞いてる人間たちと友達になれるか、というところに落着するはず。

と、いうことで、マシンというのは今後、機能よりも演出に比重が移るとオレは踏んでいるのだが。

フョードル・カラマーゾフ、疾走する因業爺の爽快さったらない。あれは「潰して中身を出す」という快感に通じる。実はこれはExpressionの語源だ、つまり「ExPress」だ。日本語の「表現」という訳語は、単に「表に現れる」だけなので、イメージがけっこう違うのだ。「表現者」っていうだけではなくEXPRESSIONISTになりたいね、押して潰して中身を出す人に。

エッセイ教室だとかに通って、いい点取って、自信満々で得意げに書かれたようなエッセイをときどき見かけるけれど、そういう文体って、ほぼ例外なく魅力に乏しいね。作られた顔というものを、人はけっこう敏感に察知するものだ。

編集部に文体を全面的に修正された自分の原稿を、さらに著者校正をしているのだが、読んでいてだんだん腹が立ってきた。無味乾燥な文体になってしまっていて、読んでいてせっかくのワクワク感がまるでなくなっている、ヤレヤレ。たとえば野坂昭如の文章をこの人が校正したらどうなる? ゲラ刷りはおそらく面積比で85パーセントぐらい真っ赤になるだろう。

特に理科系の書物の文体軽視、しかつめらしい字面と、舗装道路のような平坦さ、といったものは、このへんで考え直した方がいいと思う。客観性というものが最重要視された時代は哲学的に言ってもすでに過ぎさったのだ。こういうことは理科系が一番乗り遅れる。

そんな意味で、本よりブログの方が面白い、というのはけっこういいところを突いている。ブログでは、筆者の精神が、書かれている主題に反応して楽しくて踊り出しているような、そんなリアルタイムな精神の躍動が伝わってくることがある。それを、文体、というのだ。文体とは作者の身体なのだ。

ちょっとエッセイに近い芸術に関する真面目論評をこの前書き上げ出版社に送ったら、ゲラが返ってきた。改めて全体を読み直してみたら、あれ? なんだか、おかしい。全体を読んでみた印象がすごく平板な感じなのだ。オレってこんな風に書いたんだっけ?

後から知ったのだけど、校正の人が文体の大半を修正していたのだった。文章は分かりやすくなっているが、僕の文体のリズムは失われていた。先方も仕事だということを理解できるので、別に怒りはしない。まったく、そんなことはなかったんだが、文体って、なんだろう、と、ちょっと考えちゃったよ。

それにしても、ここ数年来、ずっと、自分は、プロの文章とアマチュアの文章についていったいどっちが本当に他人の心に届くのだろう、と思うことが多くなった。いわゆる名文と呼ばれる文体がほぼ過去のものになってしまい、現代ではその人の文体というのはその人の衣服みたいな感じになっている。そのせいで当然、文体が氾濫していて、さらにそれらを楽しむ、という余裕もできあがってきた。

逆に、名文の衰退と共にプロの文体というのもなんだかわからなくなり、だんだん画一化し、サラリーマンのスーツみたいな印象のものが増えたように思う。色とりどりのアマチュアの文体をファッションとして楽しむ、ということが一般的になってしまうと、変わり映えのしないスーツファッションはどれも退屈なものに見える。

まあ、以上が、昨今のプロとアマの文体の自分の感触である。それで、こうしたことを元に考えると、プロに修正してもらった自分の文章は、たしかに「プロの文章」になっているんだけど、やはり、その「いい加減なブレのある文体の個性」はなくなってしまい、私服を脱がされて無理やりスーツを着せられたみたいで、そんな風になってしまった文章はやたらと平板だ。

さて、どうも自分の文体を大幅修正をされたことに腹を立てて書いているみたいに思われるかもしれないが、実は、自分の知っている別の知人の文章も同じプロの人が校正して文体改変されていたのだ。僕はその人のオリジナルの文章を読んでいて、多少文は乱れているが、その人の性格そのものが飛び出してくるような溌剌とした文体を自分は知っていたのだ。そのすばらしい文章エネルギーは修正後はかけらも無くなっていて、とても残念に思ったのである。

以上は、そういう時代の成り行きなのか、単にプロが怠慢なだけなのか、よく分からない。もちろん文章は文体だけではなく、内容というものがあるのは当然のこと。以上は文体だけの、話である。

病草紙(やまいのそうし)はほんと、オモシロイよ。「けつのあなあまたあるをとこ」とか。烏帽子を被ったきわめて情けない顔の男がケツをまくり上げて糞をしている。しかし、尻全体から糞がしたたり落ち、まことに辛そう。その悲惨なケツを女が覗き込んでいる。それでは台詞をもう一回反芻してみよう。「あなあまたある」というところに「あ」が六つ続いている。実はこの病気は今でいう「痔ろう」なのであるが、この音により、複数の肛門ができてしまったこの男の尻の様子を視覚的に知ることができる。などなど、このように、病草紙にはたくさん見ものがある。

自分が、因果律よりも共時性に法外なウェイトを置いて人生を渡ってきてしまったことにつき、後悔はないが、反省はある。

上野の博物館に仏陀の死を描いた絵があるはず。そこでは横たわる仏陀を囲んで、たしかにあらゆる生き物が泣いている。一番下の方にはなんとムカデもいるのだ。ムカデは、一番末席の一番下等なところにいるが、その彼も仏陀の死を悲しんで泣いているのだ。それにしても、これ以上美しい大団円があるだろうか。反面、ここでは絶対的な階級社会を前提として、そこに美しい大団円を描き出している。僕には、これこそがアジア的なものに感じられるのだけど、当然ながら、これは現代人の心情にはそぐわないし、現代社会の問題解決にはならない。なので、役には立たず、心の中にしまっておくような感じだ。

仏陀が死んだとき人はもちろん、猿も、犬も、虫も泣いた、およそすべての生き物が仏陀の死を悲しんで泣いた、という逸話を思うと、アジア人のオレは心の中に涙が流れる。

それに対して、イエスの死を描いた絵には、猿も犬もいやしない。人間だけがいて、みな悲しみに歯を食いしばって泣いている。

年増のサラリーマン女と、中年のサラリーマン男は、人間の中身は同じっぽいが、外見の印象は天と地ほど違う。男は没個性に走るが、女は差別化に走る。

飲んでいるネクタイサラリーマンたちはいかなることにも動じない。なので、どんなにインパクトのあることが飲み屋で起こっても、実質的にはのれんに腕押しで終わる。まことに、飲んでるサラリーマンほど動じない人たちっていない。彼らにとって飲み屋は、彼らが宰領する宮殿のようなものだ。

かつて検索とは、蓄積された過去の事実から今の目的に沿った情報を取り出してくる行為であったが、現代では「検索は過去を探ること」では必ずしもないと思う。「いま」という言葉には状況に応じて幅があり、最近の、たとえばツイッターなどの情報登録スピードと検索エンジンクローラーのスピードを考えると、現代では、十分に「いま」を検索できる。

「いま」を検索できるようになると、それを材料に「未来」は十分語れる。しかし、本当の意味の「未来」というのは、アラン・ケイの言うように「発明するもの」なので、未来を語るには、実は、いまの情報より過去の蓄積の方が遥かに重要だったりする。

「いま」が検索できるようになった恩恵にあずかることで、検索行為によって未来が予想できるようになったのだが、それを実際にやっている人たちが結局「似たような未来」に行き着いてしまい、さらにその大半が実際に外れてしまう、ということが起こっている。この罠は、実は、ネット上に大量に存在する「未来予想が科学的に可能だと信じている愚か者たち」が発する「予想を語る言葉」がこれまた蓄積されて、それを検索が引っ掛けてしまうところにあるのではないか。

と、いうことで、未来を発明できる賢い人になるには、地道な教養の蓄積が必要だ、という昔からありふれた結論に到達してしまうわけだ。

オレがフロイトを学んでショックだったことは、人間の心には我々がまったくコントロールできない理不尽で強大なエネルギーのかたまりの「エス」というものがある、ということを教えられたときだった。

そして、少し救われたと思ったのは、あなたが怖がっているそのエスはそんなに恐ろしいだけのものじゃないんですよ、たしかにコントロールはできないけれど死んでしまった過去の親しい偉人たちもそこにいるんです、とユングに教えられたときだった。

たとえばゴッホの画布の上にはこのエスが目に見えている。それはフロイトが言うように恐ろしいし、ユングが言うように親しい。その、両方だ。

仏陀という一人の人間の言葉は、改変に改変を重ね、おそろしい数の亜流仏典を生み出した。イエスという一人の人間の言葉は、信じがたいことに今でも新約聖書というたった一つの書物に記されている。アジアとヨーロッパの違いだよ。そしてオレはアジア人。

インターネットが流行りはじめて、ホームページというものを個人で作って公開できるようになったころ、よくお目にかかったのが、ページの下に、いちいち「無断転載を禁じます」とか「すべての著作権は××にあります」だ、どうのこうのというせりふ。なんだか素人くさいページ作りの、ゆるくて、のほほんとしたページの雰囲気と明らかに不調和な、脅し文句のような著作権主張の文句が出てくるたびにそれ以上見る気をなくしたものだ。

さいきん、あまり見かけなくなったのは、著作権法の趣旨がそれなりに一般化したからだろうか。それにしても、どうでもいいような写真や文章についてこれ見よがしに「権利」を主張する、という態度はなんだかお里が知れる、というか、オレはイヤだな。

さて、こと作品ということに関しては、自分は、著作権とかセキュリティとかモラルとかいった規制に関わるものはまったく必要ない。ただし、たとえば、作品につき「モラル」というものがもし世の中に無いと、「インモラル」の存在もなくなるのでそれは困るという意味だけで「モラル」が必要だ。そういう意味で、自分の性根は、骨の髄からヒッピー的、ハッカー的なのだが、ヒッピーやハッカーだけで生きてゆくのもツライのよ。妻も子供(はない)もあるし。

しかし、著作権って言葉、ホント嫌いだ。オレのホームページは著作権表示はもちろんなく、コピー、改変、横流し、悪用、全部OK。それで今のところ目立ったトラブルもないのはそれほど人気がないからだけど。

それにしても、ああ、権利、権利。権利なんてなくなっちゃえばいいのに。そうすれば義務もなくなってせいせいするよ。権利と義務のせめぎあいの中で化かし、化かされ、なんていう茶番から離れて、自身の自然な行動で他人と助け合っていければ、それが一番いいじゃないか。少なくとも、理想では、そうあるべきだと思う。

ジミ・ヘンドリックスの未発表のヴァリーズ・オブ・ネプチューンという曲、ああ、この、高揚感、浮遊感、高速で流れるエネルギーの束、心底すばらしい。

なんだか死ぬ寸前のきらめきというか、ドストエフスキーによると癲癇の発作の直前にこの世のものとも思われない調和と幸福の瞬間が襲ってくるそうだが、そんな感じでも、ある。

ゴッホの絵にもそういう浮遊感のあるものが、ある。サンレミの囲いのある土地に昇る日の出の絵とか。

あと、ニーチェにも。ツァラトストラや、この人を見よ、アンチクリスト、そして、偶像の薄明の恐るべき晴れやかさ、透明感、高山の空気。

どいつもこいつも、みな、昇天って、ことだ。

「人生とは、いかに生きるべきか」である、なーんていうことを心底真に受けると後で大変なことになるのよね。それに、そんなことを言うのはほぼ例外なく男だけ。「人生とは、何を手に入れるかである」ってのが順当なところでしょう。しかし、「人生とは、業務です」ってのもあったっけ(笑) 実はその言葉を読んで、しばらく考え込んじゃったよ。結局、「人生とは、人が生きることである」ってのが一番正しい感じだな。ただ、これじゃ、当たり前すぎ、あるいは、高尚過ぎるせいで、何の役にも立たない。

オレは手を動かして文章を書かない限り、ほとんどものを考えない。なのに文を書けば思考のようなものが現れる。オレは一体、それをいつ考えたのだろう? 「思考」というのは現れてしまえば、論理的な連鎖や時間順の展開などによって構築された代物なのだが、現れる前には、論理も時間も伴っていないヘンチクリンなカタマリだったわけだ。

またまた図書館で借りてきた時間論って本をめくっていて、時間というのは錯覚かもしれない、なんていうのを読むと頭の中がぐるぐる感じたりする。はたまた、「未来」というのは単なる概念であって存在しない、とかね。

上野の西洋美術館はイマイチだが国立博物館は秀逸、そりゃ日本だもんな、仕方ないさ。

うちに薄っぺらいギリシア神話の文庫があったから読んでみた、縛られたプロメーテウスというやつ。ギリシア人はこういう神々を持っていたんだな。あまりに大きくて、くっきりしていて、あいまいさが皆無な、明るい風景に、唖然とするほど。

ニーチェは、哲学者たるものまず風土と食物に気を配らないといけないと言っている。彼のいち押しの食べものはピエモント料理だそうだ。ピエモントを調べてみるとイタリアのトリノがある州だ。どういう、料理なんだろう。

発狂直前に書かれたニーチェの文章は、すでに哲学ではなくて奇妙な芸術作品に見える。

ゴッホが最後を過ごした土地オーヴェールで、死ぬ少し前に描いた、市役所前の広場の変哲ないデッサンがある。午前中、むかし買った画集に載っていたこのデッサンをずっと見ていた。それにしても、こういうデッサンはいったいどうやったら描けるようになるのか。見ていると、たった一枚のちっぽけなデッサンの中にすべてがある、と言いたくなる。

51にもなって人生とはなんだ、と考える。孔子さまには天命を知る歳と言われているのに。

数学者は、数学だけで生きて行けると、数学者に、聞いたことあり。

過剰な読書により人は考えることができなくなる、とは大昔から言われていたこと。ショーペンハウエルの「読書について」って本を読むと痛快だ。「本は読むな」、とか乱暴なことが書いてある。現代にこそ通じる情報衛生術だ。

ネット上の情報過多にずっと接していると、結局、それらの情報を通してものごとを知れば知るほど、人間の知識は平滑化して行くのではないだろうか、という話を聞いた。ここで、「情報を、処理する」という図式で考えると、今は情報そのものの過多だけでなく、処理法、つまり考え方の過多も同時にあるので、考え方つまり解釈法も平滑化されるところが特徴な気がする。そうなると、さかのぼって、「情報を処理する」という昔ながらの図式をうまく捨てて人生を渡るっていう処世術が流行るのかもしれない。具体的には、情報がいくら入ってきてもそれをいちいち処理、つまり考えて比較検討などせず、自分に都合のいい情報を「選ぶ」だけにする。ものの考え方、つまり処理法についても、どれが正しい考え方かをたくさんの情報を「考え方に食わせて」検証するなどという無駄な時間はかけない。つまり、「情報を処理する」んじゃなくて「行為を選ぶ」ほうに比重を置いて、とにかく行動する。

芸術というのは時に爆弾のように作用することがある、とむかしどこかに書いたが、ホントにそうかもな、と思ったりする今日この頃。たとえば自分は、罪と罰を20回読んだから頭がおかしくなったのか、頭がおかしいから罪と罰を20回読んだのだか、分からない。と、いうか、これは同じことを言っている。

パワースポットというのは、どうも自分はとりあう気になれないな。いわゆる超常現象などは無条件にその存在を信じている自分なのだが。いや、その存在が実生活に及ぼす影響を信じている、と言うべきか。そのせいなのかパワースポットは存在そのものより、その影響の方がなんだか嘘くさく感じちゃってね。

人生は、目的の達成ではなく、どう生きるかだ、ということがもし正しいとすると、願掛けというものはあまり意味がなくなる。あるいは願をかけるその内容が変わる。なので、自分は寺社仏閣に行くと、草木の様子や、人々のまちまちな動きや、建物の屋根のカーブの曲率を見たりして過ごす。

あ、もちろん、願もかけるけど。健康に幸せに生きられますように、とかね。

サムソン電子の副社長が自殺したってね。僕と同じ歳の51だ。その遺書には、過重な社内プレッシャーについての言及が残っていたそうだ。しかし、なぜ、社会組織というのは、気付いて見ると右にも左にも前にも後ろにも逃げ場がないという風な錯覚を人に与えてしまうのだろう。一個の生物として自身は自由なはずなのに。

そんなこともあり、大真面目な趣味、というのは大事なんだろうね。社会組織生活とぜんぜん違うところに何かを持っているということ。もっとも、さいきん、そういうことがよく言われるわりにはそれほど助けになっているかどうかは、分からない。当の行き詰まりを打開してくれるわけではないので、意外と逃げ道にならなかったりもする。つまり、社会で逃げ道がなくなったら、趣味の世界に逃避できるかというとそうも行かない、ということだ。

なので、大真面目な趣味を持つ、というのは、一般に考えられているように、気晴らしや逃げ道、といった現実的なものと言うよりは、心の持ち方を徐々に変えてくれるものとして機能するんじゃないだろうか。つまり、人生は、枝分かれした一本の細い道を歩いているんじゃなくて、大洋に浮かんでどこぞの島を目指している、とイメージすることが大事だと思うんだが、趣味というのはそういう心持を育ててくれるような気がする。

むかしイノキの卍固めの身体形態の美しさに魅せられていたのを思いだした。

ナンプラーとパクチーは「臭くてうまい」というモチーフのもとに動物と植物から生まれた。モチーフが一緒だから、相性もいい。

NHKにいたころ、君たちはNHKという肩書きがあるからどこでも通用するのだ、ということを忘れるな、とよく言われた。

twitterはたしかになかなかおもしろいことが分かったが、いろんな人のtweetを読んでいると、ときどき、よくお店の入り口に立ってる実物大の人型の立て看板みたいに見える幻が、自分の周りにぴょんぴょんと配置されているように感じるときがある。

大人は何もしなくても生きていける、ってどっかで読んだけど、なるほどな。子供は何かしてないと生きていけない。たかが砂場に穴掘るだけでも真剣だ。

恵方巻きはともかく、韓国海苔巻きってホントうまいな。芯に牛肉とホウレンソウのナムルなどが入ってゴマが利いてるやつ。

言葉と時間という2つのことは、永遠のテーマなんだな。冷酷な時間に近寄りすぎてしまった現代から、もう一度、豊かな言葉を取り戻すことが、21世紀的と信じよう。「速く軽く薄くはかなく」は、すべて基本は「時間」に関係してるんだな。まあ、どこかで、転換期が来て、もう一度「言葉」に戻る、とオレは踏んでるんだけど、実際には来ないかもな。

物事を処理するとき、その「方法」にしか興味がない人、という話が出たが、いわゆる「官僚」の次のオレ流定義を思わせる。

”入力と出力を持つ箱において、入力に対し最適な出力を得る性能、常に性能に変化がない定常性、さらに、入力の種類によらず同等の性能が出せる適応性、の3つを満足する箱を「完全な官僚」という”

少し考えるとわかるけど、以上の定義を満足する完全な官僚というものがどういう性質の持ち主かと言うと、それは「常に元気で、明るく、活動的で極めてフレキシブルな人」なのである。ステレオタイプな、いわゆる、頭の固い退屈な理屈っぽい役人像と間違っても混同してはいけない。そんなわけで本当に官僚的なタイプの人と一緒に遊ぶと、実はとっても楽しい。

そして、彼ら官僚に欠けているのは、「産む苦しみ、生きる苦しみ」、コレである。というわけで、仏教には向かない。いや、一般に宗教には向かない。そして、芸術にも。

かのホンダの経営者が製品の量と質の問題について、「どこに本質があるかを見る目が必要だ」と語ったそうだ。

さて、「本質」とは何か。こんな問いがあったとすると、それを哲学的に捉えるか、現実の分析結果からの帰結と捉えるか、という最初の選択にぶつかるんだが、僕は古いのでどうしても前者的発言になってしまう。で、答えると

”「あるもの」の「本質」とは、当のあるものをあらゆる角度から分析したときに、常にその結果を説明しうる「あるものの性質」を言う。”

となる。おそらくホンダの人の意味と違うところは一箇所だけ。「あらゆる角度から」というところ。彼の場合これが「ある角度から」になる。で、「量と質のどちらが本質か」の問題だったら、彼の場合、「製品の市場性」という角度から見た本質とは何か、ということになる。

本質の哲学的定義の方の、「あるもの」というところに「生命」を置くと、その「本質」がそもそも規定できるか、という大問題に発展する。たとえば、サルトルの有名な「実存は本質に先立つ」などの哲学的問題になる。

と、いうわけで、「あるもの」に「商品」を置いたときにも、その「商品」を、「物質」と見るか、「生き物」と見るかによって、その本質議論はまるっきり変わる可能性がある。前者を採用して物質だとすれば、科学的マーケティング手法になる。後者のように商品は生き物だということであれば、これは研ぎ澄まされた経営者のカンがモノを言うのかもしれない。

ちなみに、哲学的でない本質定義であれば、「あるもの」にたとえば「労働者」や「消費者」といった人間(生命)を入れても、まるで心配は要らない。なぜなら「ある角度」からしか見ないから。これが、「経営」である、あるいは「政治」も長い間そうだった。

作る人食べる人構造の過去の形態では、質が量を決めて量が増えることで質を維持していたけど、今後は、量が質を決めて質が量を決めて、結局、質と量は等価になってしまう。。。 と、いうのはSFかな。

まったくメージャーミュージシャンではないんだが、オレの尊敬するアバンギャルドジャズギタリスト&シンガーのJAMES BLOOD ULMER のインタビューを読んだのだけど、とても面白かった。ウルマーは、自分にとって、歌を歌うことと、ギターを弾くことは全然異なる行為だ、と言っている。自分が歌えるのはブルースだけだが、ギターでは自分が弾けるものが何だか知らない、と言う。つまり、ギタープレイでは可能性は不定で無限だが、歌では可能性はたった一つしかない、と。

しかし、こういうのを読むと、現在読んでいるベルグソン哲学的な解釈に易々と結びついてしまうのが、いいんだか悪いんだか。野暮だけれどネタを明かすと、可能性が不定で無限というのが人間の「悟性」を、たった一つの決して間違わない可能性というのが「本能」を、それぞれ代表している。ただし、上記、実は言葉を誤って使っている。後者の「決して間違わない」のは「可能性」ではなく、現在進行中の「単一の行為」である。

まあ、やはりすごいことを言う人だ。とにかく、ずっとご無沙汰だった最近のウルマーを聞いてみよう。

本音を書けば、政治家の汚職は10パーセントまで認めるという不文律でもできないものかね。ま、何十年か前には、それはあったんだが。

「七人の侍」の侍たちが、明日を煩わず、今を全力で生き、楽しいときは思い切り笑い、悲しいときは思い切り泣いている様子を見ていると、心が洗われる気持ちがする。もっとも、自分は百姓の側だったり、してるかもしれないけどな。

あさりご飯を炊いている。

いまだに実用書を退け哲学書を読んでる、っていう偏狭さが、「金儲け」と「理念」という両極端の間を揺れて安定しない、という自分の態度の原因になってるのかな、、、などと、クソ真面目に考えるところが、すでに文芸書読みすぎ。

このまえ図書館でジョン・コルトレーンを4枚借りてきたが、結局、もうコルトレーンを聞けなくなってる自分を発見した。なぜだろう?

Twitterをやっていると、「過去というものが、将来、完全可視化される」、というオレの大予言(笑)が当たるかもしれない、という気がしてくる。未来では、イタコを使う代わりにTwitterなどを使う。そして、デジタルイタコ、電子イタコ、電脳イタコ、Twiter霊視などなど。ああ、それにしても大御所の恐山はいずこへ。

「物事に興味が無い人は、思考能力の低下が著しい」との記事を読んだのだが、思うに、「興味がある」、ということと、「思考する」、ということは同じことで、「興味を持つと思考力が向上する」とかいう因果関係とは関係ないと思う。これって昨今の幼稚な因果律過信から来た言葉という感じ。そんなのほっといて気楽に興味のあることだけをやっていればいいんじゃないだろうか。

ユングの言った「共時性の原理」を知り、激しく共感する。共時性とは、何の因果関係もないふたつの事柄が偶然同時に起こってそれがきっかけで何か新しいことが始まることをいう。たぶん、現代のネット社会のポジティブ面に、正確に適用できるはず。

ところで、調べてみたら、ユングの共時性など彼の後年の心理学は、現在の心理学会では異端扱いだそうだ。まあ、当然か。今は、物質としての脳や遺伝子をあれこれいじくる時代だもんな。それでこの共時性という概念だが、当時ユングは誤解されること覚悟で発表したそうだが、はたして案の定その通りになった。何となく感慨を感じるね、複雑な気持ちって感じだ。それにしても、こういうものが新興宗教的いかがわしさと紙一重になってしまうのはなぜなんだろう。共時性そのものは、ただの「生活の知恵」に近いものなのだが、そんな常識的生活の場にまで心理学などという科学を持ちこまないでくれ、という一種の抵抗なのかな。

神は存在するや否やが問題になった時代は19世紀で終わった。そして20世紀になって現代に至るまで、人間たちはものすごい勢いで、親離れしようと、もがいてきたようにも、見える。そして21世紀になって、これからしばらくも。