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Dアップ

そういえば思い出したが、僕が初めて秘密組織というものを、実際に経験したのは、今からおよそ20年前にN研究所で働いてる時だった。僕は陰謀論者でも秘密主義でもなんでも無いのだけど、あの経験はなんか印象的だったので今も覚えている。

あ、期待しないで。つまらない話だから(笑

当時(いまでも?)N研究所では、管理職への昇進を、俗にDアップと呼んで異動時期に辞令が下りる仕組みになっていた。Dグレード以上は管理職なんで、Dアップって言うんだろう。あの頃の職員制度はシンプルで、管理職と一般職の二種類しかなく、ある年齢に達して、ある査定が下ると、一般職を管理職へと昇進させるってわけだ。

あるとき、異動時期に、僕がそのDアップになった。職場にいると、誰だかに呼ばれて、所長だかの部屋へ入って、そこで辞令を受け取るってわけだ。オレは当時、世俗にきわめて疎かったので、辞令受け取っても、へえー、管理職ねえ、って思っただけで、特段の感慨もなかった。

で、翌日(かな?)には、オレは管理職になったわけだが、別に仕事の様子が変わるわけでもなく、そのまま出勤してふつうに仕事してた。

そしたら、別の個室にいる部長と副部長の部屋へ行くように言われ、行ってみたら

「林くん、あのね、今日の夜、ちょっと会合があるんだけどね、それに出てくれる? 場所は成城学園のマ・メゾン、あそこね。予約してるから、来てね」

と言われた。僕もその時は、それ何かの宴会ですか? とかなんとか聞いたけど、来れば分かるよ、としか教えてくれない。

で、夜になってその成城のフレンチレストランへ行ったら、大きめの個室が予約されていて、そこに通された。で、その部屋に入ったら、なんと、僕の部の管理職の全員がすでに大テーブルに座っているではないか。

オレが入って来るのを見て

「林くん、おめでとう、今日から君もわれわれの仲間だね!」

とか言うのである。で、聞いたら、管理職会という会があって、これは一般職にはその存在を知らされておらず、定期的に会合を開いては、管理職だけで、仕事に関する密会をしてる、ってのが分かった。

まー、政治家で言うところの料亭の会合みたいなもんだ。

新米管理職のオレは

「へええ! こんなことやってたんですか!」

とか反応したが、まあ、十人弱はいたと思うんだけど、みな、笑顔でオレの肩叩いたりして、やけにフレンドリーなの。そのときの特権的感覚の快感、っていうか、そういうのを何となく覚えていて、その秘密な感じがとっても印象的だった。

もっとも、世間知らずの自分は、管理職の仲間入りをしても、特段に嬉しくもないし、責任感を感じてなんか自覚するわけでもなかった。あの特権的秘密団体への、なんというか帰属意識みたいなものをオレがあのとき持てたら、ずいぶん変わってただろうな。

ところがオレは、そのまま管理職業務をテキトウにこなしながら、自分勝手にやりたい放題やって、あげくの果てに、上が止めるのもあっさり無視して、辞表出してN研究所を辞めちゃうんだが、オレも、もうちょっと世俗が分かるのが早ければ、今ごろもっと楽に生きてたのになあ、とは思う。

ギリシャ・イタリア紀行

二週間ほどギリシャとイタリアをうろうろして来たので、その紀行文を書いておく。時は、1995年の秋である。もうだいぶ海外遊び旅行に慣れてきたので、今回は、ホテルの予約なしで向こうへ行き、着いてからの予定は未定だった。イタリアを出入口に使い、まずイタリアへ飛んだが、イタリアへはすでに何度も行っていたので、このときのメインは初めて行くギリシャである。イタリアでは、まだ行ったことのない南の方へ一、二か所行くていど、と考えていた。

ナポリへ

ローマの空港に着き、そのまま南下してナポリに泊まり、ポンペイの遺跡を見に行った。僕は、実は、遺跡というところへこのとき初めて行ったのだが、遺跡というのは本当にあっけらかんとした場所だ、というのがそのときの第一印象だった。南イタリアの真っ青な空に輝く太陽の強い日差しの下で、屋根の無い、仕切りだけの部屋が、延々と続いている、からからに乾いたものすごい環境である。僕はここに来るまで、昔このポンペイのあらゆる密室で行われていたであろうさまざまな事々にデカメロン的興味を抱きながら、思いを馳せるようになるのかなあ、と漠然と思っていたのだが、そんなものは、強い日差しの下で、もう跡形もなく蒸発してしまったように思えた。そうなると、見ている人間の想像力だけが頼りだろうが、まあ、遺跡のまっただ中にいるときはそんな感傷のかけらも浮かばず、とにかくなにもかもが乾いている、と感じただけだった。

ポンペイの遺跡

イタリア南端のブリンディジ

ギリシアへはイタリアの南端から船で渡る予定にしていた。ギリシャ行きの船はブリンディジ(Brindisi)という港町から出ているので、ナポリからさらに汽車で南下、それが6時間もかかる。ただ、今までのヨーロッパ旅行の経験からあちらの電車は座席もゆったりしていて気分がいいので、わざわさ電車の旅を選んだといったところだ。僕はこのときたまたま通常のルートとはちょっと違った、ナポリからそのまま南下してまず南端のターラント(Taranto)という町へ行き、そこから半島を横断してブリンディジへ行くという経路を選んだ。ターラントで、トロッコと呼ばれている2両編成の小さな汽車に乗り換えて、ブリンディジへ向かう。

ブリンディジへは2時間の旅である。この、延々と2時間に渡って、汽車の窓から見た南イタリアの景色は、僕が生涯見た中でもっとも美しい光景だった。僕の座っていたボックスの後ろには土地の男5、6人が座っていたが、彼らは2時間の間、間断なしに何か怒鳴り合っていた。イタリア語は聞き慣れているはずだが、あの、大声を張り上げた、口げんかそのものの会話は、イタリア語の日常会話というよりは、アメリカの黒人教会での牧師の説教と信者の掛け合いを思わせるものだった。この怒鳴り合いをバックにして見た窓の外の風景は、なんと形容してよいか分からないが、とにかく畑と木々と雑草と土と空と雲だけの風景で、その同じ様なパターンが繰り返し繰り返し現れては消えて行き、永遠に続くかとも思われる光景だった。その主要な魅力は色である。あんなきれいな、そしてあんなに隅々まで調和した色彩は全く夢にも見たことがないほどだった。ゴッホが死ぬ1週間ほどまえに描いた「ドービニーの庭」という絵があるが、あの絵の色彩が延々と続いているといった感じだった。今はあれこれと考えて形容できるが、見ているときはまるでLSDかなにかをやっているような状態で、理性が全くどこかへ飛んで行ってしまったようだった。

これからギリシアへ向かい、また再びイタリアへ帰ってくるわけだが、このターラントからブリンディジまでの経験がその前触れとなった。そういえば、ブリンディジという町は、あのイタリアの犯罪学者のローンブロゾーから演劇性犯罪者の町と言われているそうだ。

ブリンディジの港

アテネの街とアクアポリス

ブリンディジから夜行の船に乗り、ギリシアへ向かった。船旅はこれが初めての経験だったが、このとき船の最上階デッキで僕は完全な闇というのを初めて経験した。僕のような東京育ちは、月のない完全に真っ暗な状態を知らないのである。

さて、ギリシアの船着き場から4時間汽車に乗ってアテネに着いた。アテネの第一印象は、ここはヨーロッパではなく既に中東だ、というものだった。町中の至る所に、むしろ香港を連想させる東洋的混乱がここから始まっているといった感じだ。ギリシャ遺跡のアクアポリスは、僕の取ったホテルの窓から見上げる位置にある。僕は歩いて頂上へ向かい、着いてみると、巨大な石がごろごろと転がっていて、遺跡が無造作に点在している。とにかく空の青さと、石の白さで、目がどうにかなりそうな所だったが、実際、これ以降、ギリシャの島々へ渡ったのだが、ギリシャ滞在の一週間の間は、なにもかもが青と白だった。遺跡はポンペイですでに経験済みだったが、とにかくなんらのニュアンスもない、というのが僕の印象であった。至る所で出会う石彫は単純化されたミケランジェロ(もちろん話が逆だが)といった風に見えた。あるいはミケランジェロから人間臭さを抜いてしまったようなものに見えた。

アテネの街

そういえば、アクアポリスはオフシーズンではあるもののものすごい数の観光客であった。日本人はオフシーズンには来ないらしく東洋人は非常に少なく、半分がアメリカ人、あとはヨーロッパ各地といった構成だった。その中で、恐らくアメリカ人と思われる、30歳前後の、背の高い女性が、神殿に向かって、石の上にまっすぐ立って、じっと動かず、どうやらチャネリングをしているようだった。そう、確かにあそこにあるオブジェは、時空間の遠くの彼方にある何らかの精神と交信する窓としてしか機能しないようにも見えた。

アクアポリス

アテネの町中へ降りると、そこは至る所が中東化した、そして、町の至る所にあの粗末でひどく小さなおもちゃのような礼拝堂が至る所にあるギリシア正教の町である。ギリシャ正教は、偶像禁止なので、他のヨーロッパの街で見慣れたごてごての彫刻のたぐいは一切なく、板絵のイコンが至る所に飾ってある。町の人々はこの小さな礼拝堂に頻繁に立ち寄ってお祈りをしている。イコンに描かれたキリストや聖者達の図は、いまだにジョットの前の時代の画風からほとんど変わっていない。あのビザンチン美術から来た、細く痩せた人間達の像は、極度に禁欲的に見える。

アテネの街のイコンのキオスク

アクアポリスはアテネの町から一段高いところにあるが、この高台には、巨大な石を刻み、これを正確に積み上げて、天に向かって古代ギリシアの遺跡が誇らしく立ち並んでいる。これが地上のギリシア正教の町とどうつながるのかわけが分からなくなる。キリスト教で言うところの精神と肉体の相勉、そこから出てくる禁欲などという代物などおよそ思いついたこともないように見える、あの古代ギリシャ精神は、ギリシヤの全土をあるときに覆い尽くしたキリスト教の下で出口を失っていたのかもしれない。そして14世紀に遂に、地下深くを移動してイタリアの火山と共に噴火した古代ギリシャ精神、それがイタリアルネッサンスだったのかなあ、などとアテネをぶらつきながら空想した。

ギリシャへ行ったらとにかく島へ渡らないとだめだ、とみんなに言われていたから、僕はアテネのトラベルエージェンシーで、ミコノス、サントリーニ、クレタのアレンジをしてもらい、2、3泊ずつ島を渡った。

ミコノス島

ミコノス島はとても小さな島だったが、不定形な真っ白に塗った家が料面に迷路のように密集して立ち、海は青く、空は青く、これはもうひたすら白と青の島だった。確かに海辺は目が覚める美しさだったが、僕は島を回るために貸しバイクを借りて、内地を走り回った。島の他の場所は、もう草もろくに生えない、大きな茶色い岩がごろごろと転がる、火星のようなところだった。昼はビーチからビーチへ走り、夜になると素朴なギリシャ料理と赤ワインと食べ物をねだる猫とでゆっくりするという、いつもの自分には似つかわしくないバカンスらしいバカンスを過ごした。

ミコノス島の民家

サントリーニ島

次の島サントリーニは、ミコノスより少し大きな島で、ここも青と白だった。ただここは、そのむかし噴火があり、大きな湾ができ、その真ん中に溶岩が海底からせりだして出来た巨大な無人島がある有名な場所がある。海面から何百メートルも高い高台は観光地そのもので、この壮大な湾と島にタ日が沈む光景を見ながら食事できるカフェやレストランが山ほどある。それはいいとして、僕がこの高台に着いたときは晴天の空に太陽がぎらぎらと照りつける真昼だったが、広がる湾は、まるでこの高台からそのまま飛び込めるかと思えるほど広大かつ、すぐそばにあるように感じられるものだった。そして、その真ん中に無言で横たわる巨大な無人島は、海面の太陽の照り返しの中で、いくつもの触手を伸ばした巨大なアメーバのようだった。この光景はあまりに印象的で、僕はかなりしばらくその場を離れることができなかった。何かそれまで見てきたギリシャの自然を象徴しているようにも見えたのだ。それは、イタリアのブリンディジで見た自然とまさに対極の自然だった。いろいろなものが強さと、対照を見せていた。青の純度と強度、そして白の純度と強度、すなわち固有色の強さが互いにきわだって対照されているのである。それに対してイタリアで見たものは、色の洪水だったが、それぞれの色は何の主張もしておらず、すべてはその調和の中にあった。

この不気味な真っ黒い巨大なアメーバのような島を見ながら、僕はギリシャというところはその昔、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、と哲学者達がそのへんをぶらぶら歩いていた所として実にふさわしいところだと思った。強さと純度、旺盛な生命力や、創造の力、彼方へ至らんとする意志は、こんな土地から生まれたのだな。

しかしこのアメーバはいつでも人間を陶酔から引き戻そうとする。

こういった自然の中で人間が意識的であり、きわだった存在であらんとする精神に比べて、イタリアで見た自然には創造の力というものが全く欠けていた。あれはその自然だけで天国のように幸福な所で、新しく人間がつけ加えるべきものは全く見あたらず、全ては自然の中でそのままの姿で美しく、そしてそれらは互いにみな手を取り合って、調和しているのだ。それは、人間に対して、人間であるという特権を全て捨てて、我と共にあれと常に誘惑しているように見える。ギリシャで見たものに、意識的という言葉を使うとするなら、イタリアで見たものは麻庫的という言葉に対応しそうだ。あるいは動物的と植物的と言っても良いかもしれない。あるいは覚醒と幻覚でも良いかもしれない。

サントリーニ島の高台より(右斜め上に見えるのがアメーバのような真っ黒い無人島)

それにしてもこの全く対極にあるものが手を取り合うということがあるのだろうか。何かほとんどあり得ないように思う。このふたつは人間に対して常に相反する形で突きつけられているように見える。これはあまりに西洋的な考え方かもしれない。インドや日本など、東洋では、このふたつはこのように鋭く対立するような形で提出されてはいない。それにしても、東洋人の僕も、もう少し西洋人風に行ってみようと思うのである。

クレタ島

さて、サントリーニからクレタ島へ渡った。クレタ島は他のふたつに比べ圧倒的に大きな島で、ビルが立ち並ぶ近代的な町を持つリゾート地のような所である。ここには有名なクノッソス宮殿の遺跡がある。その昔、怪獣ミノタウルスをこの迷路のような宮殿に封じ込めたという言い伝えの残る場所だ。しかし、この遺跡はまあ、見るも無残なほどぼろぼろの廃墟だった。言い伝えがファンタスティックなのに比べると、この遺跡はもうあまりにも粗末に見える上、そこに観光客が群がっているとなると、想像にふけるというよりは、僕も観光客としてとにかくこれを見たという確認をするのがせいぜいといったところだ。それに対して、この遺跡の回りに広がる自然は実に美しいものだった。おだやかで、豊かで、このからからの廃墟と好対照を成していた。

クノッソス宮殿

これで僕のギリシャ回りは全てである。僕にとって、結局ギリシャは、自然については哲学者の国、そして人間についてはギリシャ正教の国だった。この後、アテネへ戻り、飛行機でローマへ戻った。結局イタリアへは当初の予定よりずいぶん早く帰ってきてしまった。帰国まで4日残っている。結局、僕はギリシャにいて、イタリアが恋しくなってしまっていたのである。結局、僕はギリシャの太陽や空や島や日の入りや海や、そのもろもろを愛することはできなかったようだ。それらは、僕には愛するというにはあまりにも強すぎる。陶酔するより覚醒を迫られてしまうのである。たぶん僕はひねくれものなんだろう。

イタリアへ戻る

この再び降り立ったイタリアで、これから僕は、それまで見てきた、先にも触れた、意識的と麻庫的、動物的と植物的、そして覚醒と幻覚の鋭く対立するふたつが、手を取り合って大団円となる光景を実際に見ることになる。これはなかなかの神秘的体験だった。

ローマでは行くところを特に決めていったわけではなかったので、その日の気分で場所を適当に決めて行動した。ローマ市内はもう昔さんざん回ったので、汽車に乗って郊外へ行こうと思ったとはいえ、バチカンでミケランジェロのピエタがどうしても見たくて、ローマ中央駅まで行ったのだが、ごみごみしたローマが急に嫌になって、オルヴィエート(Orvieto)という小さな町へ行くことに急遼変更した。オルヴィエートはローマから汽車で2時間ほどの小さな町で、小さな町に似合わないほど大きくて立派なドゥオモがあり、その内部の壁画では、ルカ・シニョリやフラ・アンジェリコのフレスコを見ることができる。

汽車に乗り込みのんびりとローマ郊外を走っているとき、たまたま僕は、途中の停車駅で、Attigliano-Bomarzoという駅名を見付けた。このボマルツォ(Bomarzo)という地名は自分にとって特別な響きがある。ボマルツォという山間の小さな村には、「怪獣庭園」と呼ばれるさまざまな奇怪な石彫を配した庭園があり、いつか必ず行きたいと思っていた所なのである。ただ、この場所に関する情報がほとんどのないので、行き方が分からず、前回も前前回のイタリア行きでも諦めていたのだ。とにもかくにも駅名にこの名前が付してあるということは、駅からそう遠からぬ所にあるのではないかということになるわけだ。いずれにせよ、この偶然を心に止めて、オルヴィエートへ向かった。

オルヴィエート

オルヴィエートの町全体は数百メートルのわりと切り立った丘の上にあり、駅からロープウェイで町まで登って行く。ここのドゥオモはやはり素晴らしく、ギリシャの遺跡とビザンティン美術ばかりのあとでは、この彫刻や装飾で一面飾り付けたバロックの建物を見てほっとするのだった。こじんまりしたきれいな町だったが、歩き回っているうちにくたびれて、早めにロープウェイの発着所へ向かった。日没までまだ3時間ほどあったので、その時たまたま見付けた駅へ続く小道をのんびり歩いて下ることにした。

この小道を僕は2時間くらい歩いていただろうか、とにかく、人影はなく、あるのは草と木々と土だけだが、この小道の両側に広がる景色は、あのブリンディジで汽車の窓から見た光景と全く同じなのだった。ところどころに田舎の民家があり、手入れの行き届いていない、雑草の中に埋もれてしまいそうな小さな畑に、トマトやナスやその他いろいろな色の作物が生っていた。その合間合間にあまり背の高くない樹木が乱脈に生えている。まるで僕は天国に居るようだった。あらゆる色彩が親しげに優しげに輝いていて、全ての色彩が信じられないほどの調和を見せていた。草木の葉の色は、日本ではまったく見ることのできない、鮮やかで独特な緑色のあらゆるバリエーションを見せていた。僕はそのへんにある白茶けた石塀に生える苔と枯れ草の色にまで、完壁な色の調和を見いだす始末で、どうにもしようもない状態だった。

まさに麻薬かなにかをやってうっとりしているのに似て、時間の感覚もなくなってしまい、どれだけ歩いていたのかもよく思い出せないような状態だった。歩きながら僕は、ふと小道の横の地面に、黒ずんて腐りかけた汚い皮に包まれた木の実が一面にたくさん落ちているのを見付けた。踏んづけて皮を剥いでみると、中からきれいな薄茶色の胡桃がころんと転がり落ちた。この汚い黒い実は天然の胡桃だったのだ。殻を割ると、あの一対の脳のような形の核がちゃんと出てきた。食べてみると柔らかく味も上々である。僕は夢中でこの胡桃を拾い集め、あっと言う間に袋がいっぱいになった。

オルヴィエート

ボマルツォ

さて、このオルヴィエートの小旅行からローマへ帰ってきて、タ飯までの小一時間を町中でうろうろしているとき、たまたま本屋の店頭で地図を目にして、僕はボマルツォを思い出した。ローマ界隈はラツィオという名前で、僕はラツィオのロードマップを買い、ボマルツォについて調べてみた。そうすると確かに、Parco di Mosteri、怪獣庭園が載っている。昼間通過した駅から7kmくらいの所にあった。ボマルツォ行きにはいくつか方法が考えられ、例えばレンタカーがいちばん良いのだが、僕は10年以上乗っていない上に、聞いた話だとローマ周辺の高速は異様にわかりにくく、乗り慣れた人でもぐるぐると何周もしてしまう、ということなので、とても自信がない。Parco di Mosteriの電話番号だけは分かっていたので、行き方を聞けばいいのだが、イタリア語ができないのでこれもだめ。本当は、ローマのインフォメーションで聞けば、分かったかもしれないが、僕はこれを思いつかず、結局、駅へ行き、バスがあればバス、タクシーがあればなんとか交渉して半日貸し切り、最悪何も無ければ歩いて行く、という場当たり的計画で、翌日とにかくボマルツォまで、だめなら元々で行ってみることにした。

朝早くローマを出て、中央駅で、とにかくParco di Mosteriに電話をかけてみることにした。仮にたどり着いても閉まっていたら目も当てられないので、開いているかどうかは最低確かめる必要があったのだ。開くはAperto、僕の知っているイタリア語はそれがすべてだったので、いや、明日Domaniは知っていたのだが、まぬけなことに今日という単語が分からず不安だったが、思い切って電話してみた。英語がもし通じればと思ったが、やはりだめだった。そこで、「Parco di Mosteri, Aperto?」とだけ言うと、相手は「Si, si!」と応えてくれ、そのあと行き方を親切に説明してくれているようだったが当然全く分からず、礼(これは大丈夫Graze)を言って電話を切り、とにかく行けば開いていると信じて、汽車に乗り込んだ。

Attigliano-Bomarzo駅前はやはり何もなく、車の通りもなく、駅前からすぐ民家が続いている状態だった。これでもう歩いてたどり着くしかなくなったわけだ。しかも、手元にあるのはかなりおおざっぱな地図だけで、かなり不安だったが、とにもかくにも歩き出した。7kmというと歩いてだいたい1時間半というところだろう。しかし静かで気持ちのよい所だった。しばらく歩くと高台に出た。遠くに山々が見え、その合間の切り立った丘に、薄茶色の古城のようなものが、霞の向こうに見えている。僕はあれがボマルツォ村だろうと見当を付けて歩き出したが、どうも地図の方向と違う。かなり歩いて途中で引き返して、を繰り返し、実際途方にくれてもう引き返そうかと思ったのだが、ガソリンスタンドにいるおじさんにBomarzoと言うと、あっちだ、と指を指すのでその方向に歩き出した。

かなり歩くとようやく地図の道と一致しているらしい所までたどり着き、あとはくねくねした道を道なりに行けば着くはずだった。それにしてもボマルツォまで歩こうなどという人間がいるわけもないので、歩いているのは僕だけ、道は車がときどき通り過ぎるていどである。迷っている問にたっぷり1時間は過ぎてしまったので、これから本格的に1、2時間は歩く勘定になる。

回りの自然は気持ちの良いものだったが、日本の山道を歩いているのと大差はなかった。木々や草花の色や形は日本のそれと似ていて、どこぞの高原を散歩している感じである。例の古城のような所は本当に少しずつ少しずつ近づいてきたが、1時間も過ぎてそれが目前に迫りはじめ、地図と付き合わせてみると、これは違う村だった。僕はまだ半分にも達していなかったのである。仕方がない、諦めて歩いて行くと、道はだんだん登り一辺倒の山道になってきた。もともと僕は山登りもハイキングの趣味も全くないので、これだけ長時間山道を歩いたのは初めてだったが、それでも気持ち良く歩いて行った。

ボマルツォの村

怪獣庭園

さて、ボマルツォの怪獣庭園について紹介しておこう。ボマルツォはローマ近郊の変哲ない古いイタリアの小さな村である。16世紀にこの村に住んだヴィキノ・オルシニ公爵は、自らの大邸宅の回りに、大小二、三十はあるであろう奇怪な石彫を配置し、庭園とした。それがParco di Mosteri、怪獣庭園と呼ばれる所である。この異様な庭園は公爵の死後忘れられ、ずっと長い間放置され、物好きなごく少数の人間がたまに訪れるていどだったようだ。今でもこれは変わっていないが、少なくとも20世紀に入るころには囲いがあり門番が居たようである。現在でもガイドブックの片隅に名前の紹介があるていどだ。この庭園の存在は、マンディアルグ、澁澤龍彦といった20世紀の幻想文学に属する人達を通して知った。僕は、このボマルツォの怪物に関する本を数冊持っていて、そこに載る白黒の数枚の写真から見て、非常にファンタスティックな場所であることが想像され、是非訪れたいとずっと思っていたのである。

3時間ちかく歩いて 、ようやくボマルツォの村に着いた。恐らく最近になって観光地として整備されたのだろう。 広い駐車場があり、入り口の建物には売店やBARがある。ちょっとした田舎の鉄道の駅舎の感じである。さて、そこを抜けて高原風の散歩道をしばらく歩くと怪獣庭園の入り口がある。 訪れる人はやはり少なく、僕のほかに1、2組ていどだった。

僕がこの散歩道を歩いていると、あたりからどこからともなく猫数匹が現れて、僕のあとをついてきた、何か食べるものをねだっているのだろうと思ったが、やるものもなく、そのまま歩いて、僕は猫たちとともに怪獣庭園の入り口の門をくぐった。白と、白黒ぶちと、三毛の3匹の子猫と、大きくてまるまる太った大人の縞猫一匹だった。

庭園は広々としていて、ゆるやかな斜面になっている。あらゆる草や木々が生えた土地の所々に奇妙な、奇怪な、謎めいた、荒削りな、かなり大きな数々の石彫が配置されている。入り口を入って最初に現れたのが、ユーモラスな顔をして大口を開けた首が地面の上にあり、頭の上にはいかにも危なげに地球儀のような大きなボールを乗せている像だった。僕は白黒写真でこれを知っていた。奇怪という言葉は確かにこれらの像の形容に使えるものだが、実際には、恐ろしげな所や、思わせぶりな所や、おどろおどろしい所は全くなく、実にすっきりと明快なものなのだ。確かに奇妙で謎めいてはいるが、その雰囲気には実に自然なところがあり、その意味を詮索する気になるようなところはなかった。回りを取り囲む草木は実に美しく、これら奇妙な石彫と対照はせず、手を取り合っているようだった。

入り口にある像

ところで、入り口を入ったところで、太った縞猫はどこかへ行ってしまい、残りの3匹の子猫たちは僕のまわりをじゃれつきながらこのあとずっとついてきた。特に三毛猫は僕をときどき振り返りながら、先導するように付いてくるのである。あとの2匹はこの三毛猫と兄弟だったかもしれない。この庭園の散歩道にはちゃんとした順路もないし、柵もなく、木の杭が続いている程度だが、何故かこの子猫たちは僕から離れることもなく、じゃれあいながらついてくるのである。他にも何組か人はいたし、僕は特にかまったわけでもないので、これは不思議だった。

一応見たものを列挙すると、女の両足を掴んで逆さにし、股を裂こうとしている巨大な無表清のヘラクレス、背中にボールを乗せた亀、その横を実際に流れる渓流から突き出した大口を開けた巨大な魚の頭、ペガサスを中心にした噴水、大股を開き、足が魚の尾になったニンフの像、ヨーロッパ各地で見られるあの松の実を逆さにした石柱で囲まれた広場(この広場は特に幻想的だった)、始めから傾けて作られた2階建ての小さな塔、長い鼻で人間を巻き取っている象、数匹の虎と戦う大口を開けたドラゴン、大口を開けて笑う奇妙な生き物などなど、その他小さなものを入れると三十種以上になるだろう。

ドラゴンと犬
半ば地に埋まった魚の頭

これらを見て回ると、斜面をゆるやかに登って行くような感じになり、最後に現れるのが、ボマルツォの怪物達でもっとも有名な、恐ろしげな怒りの表情で大口を開けた巨大な顔の像である。口の中は空洞の小さな部屋になっていて、真ん中に小さなテーブル、そして内壁がベンチのようになっていて腰掛けて休むことができるようになっている。これらは全てひとつの大きな石の削り出しで作られている。僕はしばらくここに腰掛けて、明るい外を見ながらぼんやりしていた。マンディアルグが面白いことを言っている。この口の中で交わされる会話は、空洞で反響して、外にいる人間にとっては、この顔の像があたかも恐ろしげに吼えているように聞こえるだろうと言うのだ。

怪獣庭園のシンボルの大口

さて、口の中から出てくると、ずっと僕についてきた子猫たちはいつの間にかいなくなっていた。最後に見たときは、ドラゴンの前足を滑り台にして遊んでいたっけ。ここから上へは階段になっていて、それを登ると、途中に歯をむき出して凶暴な顔をした3つの頭を持った地獄の番犬ケルベロスの像がある。登り切ると、そこは広々と開けた芝生に出る。その広場の奥には、幾本もの右柱で支えられた、小さなお堂がある。ちょうど、礼拝堂をそのままミニチュアにした感じだ。奥にはどうやら昔何かが祀ってあったようだが、今では、誰かの写真が柵の向こうに飾ってあり、イタリア語で説明書きが添えてあった。たぶん、この公園を整備した人か誰かだろう。

地獄の番犬ケルベロス

このお堂から出てくると、これまたどこからともなく、入り口でいなくなった例の太った縞猫が僕を待っていた。僕と猫は広場を横切り、一緒に岩の上に腰掛けた。イタリアの太陽、紫色や黄色や緑色に色づいた木々、広々として開放的で実に気持ちのよい気候だった。この猫は、座っている僕に体をすりよせて、しきりに媚びていた。ふと僕はかばんの中に、オルヴィエートで拾った胡桃が入っているのを思い出した。僕と猫は、ボマルツォの怪物たちを延々と巡ってきた果てに、オルヴィエートの自然の中で生まれた胡桃を食べたのだった。

まるで童話のようだが、僕にはこの猫が「どうでしたか、きっと気に入ったでしょう」と言っているように聞こえるのだった。そして子猫三匹はこのデブ猫が僕につけさせた案内役のようにも思えたので、「案内の彼らはどうでしたか、お気に入りましか」と言っているようにも聞こえるのだった。子猫たちは、あの最後の大口の怪獣は嫌いのようだ。それにあの凶暴な3つ頭の犬はもっと嫌いだっただろう。あの犬の顔は他の数十ある石彫の中でも飛び抜いて凶暴な顔だったから。それに犬と猫は仲が悪いみたいなのだ。ギリシャで、僕はかなりしばしば犬が猫を全速力で追い回しているのを見た。もっとも最後は猫が木や塀にぴょんと飛び乗って終わってしまうのだが。とにかく、この猫たちの振る舞いは不思議だった。

覆い尽くし ~ 動くもの ~ 大団円

僕には、この、ブリンディジの自然から始まって、ギリシャの風景を経て、再びオルヴィエートの自然に戻って、そしてこのボマルツォで終わる一連の巡り合わせが、大きな流れを持っているように感じられたのである。ギリシャで見た意識的なものと、オルヴィエートで見た麻庫的なものという、この相反するふたつのものが、ここボマルツォでは手を取り合っているように見えた。あたりの美しい自然、木々や草花の広がる斜面のところどころに、地面から長い年月をかけてゆっくりと生えてきたようにも見えるこの奇妙な形をした石彫が点在するようすは、僕たちが風景の中にときおり見つけて気を留める、珍しい形をした草花のようでもある。オルヴィエートの色の洪水の中で、僕はまったく麻癖的状態で恍惚としていたわけだが、僕の意識をまんべんなく覆っているようにも見えるこの調和の中に、やはりところどころ節のように、見えない意識が凝縮した何かがあるのだ。これらのせいで僕ら動物は、この自然で中で植物になってしまうことから常に引き戻されているようだ。その象徴が僕にとっては、オルヴィエートで拾った胡桃の実だった。

胡桃の実というのは、本当に脳髄に形が似ている。それをあのボマルツォの自然の中で食べるということは、何か一種の儀式めいて感じられる。食べるというのは動物的行為だから。植物には、覆い尽くすというテーマがあるようだ。それに対して動物は凝縮して、それが動く、という感じだ。覆い尽くすというのは、調和という性質の中にも見て取れる。それは意識をまんべんなく取り巻いてしまい、光のようなものですっぽりと包み込んでしまい、意識はその調和の中に無限に拡散してしまうのだ。植物がこの地表を覆い尽くすように育っていくさまが、人間が調和に捕らわれてしまうことのアナロジーに見える。それに対して動物は調和を振り切って空間の一個所に凝縮して、ある強度を作り、自分の回りのものと自分を区別するために、まわりより強い何かをある一点に集中させる。そしてこの凝縮した意識は、それ自体、空間と時間を自由に動き回ることをその目的としているようだ。自らが動くことによってまんべんなく淡く広がっているエネルギーを摂取して、さらに自分の強度を増し、きわ立った存在になろうとしている。

さて、これでいろいろな問題が、ある二元論になって見事に関連していることが分かってくる。動物的と植物的、意識的と麻癖的、強度と調和、凝縮と拡散、運動と覆い尽くし、これらいろいろな局面で現れる概念が、互いに関連しているのである。そして僕は、今回の一連の旅行でそれを目に見える形で見たように感じたのだった。

それにしてもボマルツォの石彫は素晴らしいものだった。人間が自然や伝統から意識的に離れることで、いくらでも物珍しいものが作り出せるということに気付いた現代人は、あらゆる奇妙で奇怪で人を驚かせるようなものを大量生産しながら今に至っている。しかし、そのおびただしい量のがらくたの中で本当に光っている作品は実に数少ない。おそらくそれら優れた作品は、人間の綿々と続いている伝統からあるものを得て、それを作品の中に開花させ、今後も生き続けるために必要な生命を吹き込んでいるのだろう。誰の言葉だったか、「ひとりのボードレールの出現で何人ものボードレールのような詩人が葬られた」という、皮肉だかなんだか分からない言葉があるが、僕にはなぜだかひっかかる言葉である。ボードレールはあの象徴詩という見た目にはだいぶわけが分からない詩の新しい形式、そして言ってみれば従来の詩の形式から意識的に離れて今までと違った技術を詩の中で実現することで、一瞥しただけで、物珍しく、奇妙な詩を作り出した。トルストイなどはボードレールの象徴詩を口を極めて罵っている。それにしてもボードレール流の詩人達が生き残らなかった理由は、ボードレール自身が、自らの生きる時代に至る時の流れと、その中での美の伝統を、正確に認識していたからなのだろう。まあ、いい。この話はあまり面白くないのでこのへんにしておこう。

もとへ。17世紀だかにオルシニ公爵の庭を飾る石彫は作られたわけだが、想像するにこの時代は物珍しさが大量生産できることに気付いていなかった時代、あるいはそれに仮に気づいても誰も見向きもしなかった健全な時代だったのだろう。だからあれを作った人たちは、奇妙さというものを、人間の内面から、あるいは外の自然から取ってきたに違いないのだ。それが証拠に、何百年たった今、これら石彫たちが回りの自然とこの上なく、そして独特の調和を見せている。確かにこの作品とて美術史的に言えば、バロック芸術の極端な例に過ぎず、しかも表現はいまだ稚拙である、ということになるだろうが、これら石彫が、緑色の苔やツタに覆われて、侵食されて、隠れてしまいそうになりながら、それらとうまく調和しているさまからは、人間の中のバロック的噌好の本当の出所を暗示しているようにも見える。

動物的と植物的、意謝的と麻庫的という対立した言葉は、実はフランスの哲学者ベルグソンのものだ。旅行に行く少し前、彼の「創造的進化」という本を持ち歩いてまぐれあたりに読んでいたのだった。そこで展開されている考え方は、僕には容易に理解できるもので、強く共感できるものだった。しかし、当時、あるいは今でもベルグソンの哲学は直観と飛躍の哲学と受け取られて、論理的構造に矛盾が多く理解しにくい、と言われていたようなのだ。哲学を勉強する者に芸術的側面が欠けているというのは、まあ仕方がないことだろう。まさにベルグソンが言っているのは芸術の意味を説明しうる哲学だが、芸術の内面的な意味が直観で分からない者には理解できないだろう。実際、僕もかなり極端なのだ。本当は哲学の論理的構造などどうでもいいのだから。

女の股を引き裂くヘラクレス

ローマへ戻る

さて、あまり思いつきを書き飛ばすのはこの辺で終わりにしよう。ボマルツォの庭園から僕は早めに切り上げて出てきた、日が沈むまでに駅に着かなければ宿へ戻れなくなりそうだからだ。しかしこの小旅行はおまけ付きだった。ボマルツォ村から出て、さあこれから2時間は歩かなければ、と思いながら道を引き返していると、ひとつの車が僕に目を留めて止まり、駅まで乗せていってくれたのだ。二人のイタリア人だったが、運転している方の人はイギリスでしばらく仕事をしたことがあるそうで英語ができた。それにしても車に乗り込んでものの10分ほどで駅に着いてしまった。信じられない速さだ。

こうして、僕は、イタリアの自然の調和から、ギリシャの強度を経て、ふたたびイタリアに戻り、その最後に、ボマルツォの怪獣庭園で、それら相反するふたつが手を取り合うところを実際に視覚的に見る、という経験をしたのだった。しかも猫たちとの童話つきで。一種の神秘体験だなと思った。

ボマルツォから無事に夕方に帰りついたその日の夜は、ローマ中央駅近くの大衆食堂で、実に楽しく食事をした。

カセットプレイヤー

オーディオ談義。

オレのオーディオのメインギアは、自分で作った2A3シングルの真空管アンプと、フルレンジスピーカをインストールしたトールボックスで、大変良い音がする。

オレ、かつて、アパートで一人暮らしをしてたことがあって、もちろん、このギアを部屋にどかんとセットして、CDかけて、ええ音やなあ、と悦に入っていた。

ある日、友人が部屋に遊びに来た。もちろん、そのオーディオセットであれこれBGMして、酒飲んでた。そしたら、彼が部屋の隅っこにあるブツを指さして、それ、なに? という。ああ、それはオレがヒマつぶしに作ったカセットプレイヤー、って答えた。

そう。それは、適当な板の上に立体配線で作った真空管カセットプレイヤーだったのである。ウォークマンをスペーサで板に固定し、そのヘッドフォン出力を2球のモノラル真空管アンプで増幅し、それを、8cmぐらいのスピーカを100円ショップで買った木箱に入れたヤツで鳴らす、ってシロモノだった。

オレ、聞いてみる? って言って、部屋の隅のカセットテープ箱をがさごそして、大昔にダビングした、Muddy WatersのSale Onというラベルのついたテープを持ってきて、電源入れてセットして再生ボタンを押した。B面をかけたんだな、オレ。曲は、I Can’t Be Satisfiedだった。Muddyのエレキ弾き語り。

そしたら、それを聞いたその友人、即座に

林さん、こっちのほうがぜんぜんいいよ! あっちの化け物みたいなのより、ずっといいよ!

と言うのである。で、オレはというと、うーむ。たしかにこっちのほうがはるかに音がいい。不思議だなあ、って思ったけど、きっと1948年に録音したMuddyの音は、圧倒的にこの糞チープなカセットテーププレイヤーに軍配が上がるのだ、と思い知った

その後は、ずっとこの糞カセットプレイヤーでブルースを聞き、いい気分で酒を飲んだ。

オーディオってね、そういうもんだよ。