月別アーカイブ: 2017年3月

猫とドクター

今朝思ったことを、書いとくか。
 
今日はちょっと遠回りして久々に海沿いの道を行って、海を見てしばし佇んだ。ああ、スウェーデンのこんなところに、なんで俺はいるんだろう、とか思ってね。
 
思い起こしてみれば、およそ20年前に自分が飼っていた猫が死んでね。10歳だった。もうだめだと思う、と連絡を受けて、仕事をぜんぶほっぽり出して、家に着いて、一時間ぐらいだったかな。これは、どうしようもなく悲しい思い出で、20年たった今でもきちんと書く気にならない。しかし、思い出したのはその悲しい方じゃない。
 
俺はそのとき、およそ一か月は泣いて過ごしたが、そんな時がようやく去って、なにを考えたかというと、もう、自分がいま無理して送っている日本での生活には何の未練もない。だから、俺は今の仕事を辞めて日本を出て東南アジアあたりで暮らしたい。ただ、自分の性格からいって、いきなり放浪したり、地位も何もかも捨ててブルーカラーになったりするのは絶対無理だ。だから、何かしら今と同じ知的労働に就けるようになっておく必要がある。
 
それで、どうしたかというと、ドクターを取ることにしたのである。それまで研究所にいて、林もドクターを取った方がいいと言われ続けてたけど、知的労働に嫌気のさしていた自分は、学位なんか下らない、と相手にもしなかった。
 
でも、実際、自分が外国に出て、ストレスで潰れないように生きてゆくには、今の俺にはドクターの資格を取るしか方法がない、と思い至ったのである。まったくに、捻じれたモチベーションなのだが、そういうわけで、社会人博士にアプライしたのが、猫が死んで半年ぐらいだったか。
 
そして、そのドクターのおかげで、スウェーデンに職を見つけてここにいる。20年前に猫が死んで自分が取った行動は、こういう形で、少しずれてはいるけど思う通りにはなったんだな、とバルト海を見ながら思った。
 
もちろんエジプトへ帰った猫の魂を想ってね。

絵画を見る眼

オスロの国立美術館へ行ったときのこと。建物の真ん中の大きめの広間に西洋古典絵画が三十点以上かかった質の高い部屋があり、グレコはあるわ、ベラスケスはあるわ、ルーベンスはあるわ、なかなかのコレクションで、一点一点なるほどと見て行った。
 
一通り見て、次の間へ行こうとしたら、奥さんが、ゴヤがあったね、というんで、え? ゴヤ、あったの? と言うと、絵を指さして、あそこにあるじゃん、って言うんで、引き返してキャプションを見てみたら、Francisco Goyaって書いてある。ちなみにゴヤは古典では、僕が一番に好きな画家である。
 
さっき全部見たので、もちろん、この肖像画も見ていたはずだ、でも、ぜんぜん気が付かなかった。ああ、よくある平凡な肖像だな、と思ったかして通り過ぎてしまったのだ。
 
で、ゴヤだと分かってからその同じ絵を見たら、これがまた、突然、平凡な肖像画が素晴らしい画布に見えてきた。小さ目の縦長の画布で、帽子を被った男の膝上の肖像。シャツの何とも言えない素晴らしい緑と、上着のこれまた何とも言えない赤黒い色が見事に調和して、白い絵の具でめったやたらに突っつくように乗せられたゴヤらしいハイライト、そして、普通より赤を多く乗せた、やはりゴヤらしい顔の表現などなど。まあ、何と、素晴らしいこと。しばらく見入った。
 
かくのごとく、人は、まず肩書でその姿を見るわけで、これで分かるように、ゴヤだと分かっただけで、絵は突然光り輝くのだ。
 
たぶん、これを読んだらきっと、林はゴッホで油絵に開眼して、西洋古典絵画については訳知りで目利きだ、みたいにさんざん自己宣伝しといて、結局、先入観抜きで絵を見る力なんかないじゃないか、とふつう、思うであろう。僕もそう思う(笑)
 
ただ、僕には、まったくのブラインドで初見で絵画の良し悪しを判断できる眼は無いかもしれないが、その絵画の「見方」が分かった途端に、その良さを十二分に見つけ出して、陶酔して、おまけに評論の一つも書ける能力なら持っているのも、確かだ。
 
この場合の「見方」とは、「ゴヤの作品なので、ゴヤらしい色やデッサンや表現に注目しなさいね」という指令が、Francisco Goyaと書かれたキャプションから僕に発せられているのである。そうすると僕の眼は、さっきまでの漠然としてオーガナイズされない眼から、突然、ゴヤにチューニングされた眼になって、その魅力を余すところなく感じ取ることが出来るようになる。
 
かくのごとく、視覚というのは、あらゆるものが関係して、その視覚経験の結果を形作るのであって、人によって見えているものが、まったく違う、というのは当然のことなのである。それは、単なる強度の違いではなく、質的に異なるのである。そして、それは、見る対象と視覚だけを取り出していくら科学的に詮索しても、それだけでは説明は出来ないのである。かといって、それに、脳と記憶を追加したところで、知れているのである。すべては一体になって進行しているのである。ベルグソン流に言うと、視覚というのは眼や脳にあるんじゃなくて、対象物の中にあり、生命は行動によって、それを顕在化させるのである。
 
と、まあ、そういうことなのだが、ゴヤの素晴らしい画布を見逃して帰って来なくてよかった。

(Facebookより)