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澁澤龍彦のこと

キッチンで昼飯のスパゲッティを作りながら、本棚に転がっているのをたまたま見つけた、澁澤龍彦の「三島由紀夫おぼえがき」という文庫本をぱらぱらとめくって読んでいた。

それにしても素晴らしい文章だ。澁澤さんのエッセイは一見極めて平易で、さらさらと楽に書かれたようなものなのだけど、ああいうものは並大抵では書けないものだ。そして、文字を追っている自分も、その文体のリズムや、三島と澁澤さんの感覚や思想の交錯する様子を、読みながら心地よく感じることができる、そんな贅沢な感覚を持っていてよかったと思う。おそらくこれも、自分が旧世代に属しているからこそかもしれない。

この文庫は、たしか元はカミさんの持ち物だった。キッチンから居間に出てきて、ソファーに寝っ転がってタブレットでゲームやってるカミさんに

「この、三島由紀夫のおぼえがきって、おもしろいね。それにしても、この文学者といい、かの文学者といい、こんな人たちって、今はもういないのかな、それともどっかにいるのかな」

と独り言みたいに言ってみたら、彼女

「もういないよ」

と答えた。そうか、もういないか。村上春樹をはじめ、文学者はたくさんいるとは思うのだけどね。でも、思うに、今の文学者は情報化社会ネイティブな人たちなせいなのか、そのへんの一般人のところまで、いちいち降りて来るので、そのせいで一般人から抜きん出たような感覚に欠けているんだよね。

澁澤さんも三島も、その周りに、なんというか、特権的な、近寄りがたい香りが漂っているように感じられる。そのへんの事情、三島は見たまんま偉そうなので分かり易いが、澁澤さんは語り口があまりに平易なせいで一見、一般人目線で書いているように錯覚するほどだけど、実際は俗世からまったく超脱している。その題材がことごとく反俗世的である、というのは当たり前としても、それに対する彼の感覚と文体には、凡俗から遠く離れた独特の浮遊感がある。

それにしても、オレ、なんで澁澤さんはさん付けで、三島は呼び捨てなんだろう?

澁澤さんは、オレが三十代の時のアイドルだった。そのころはヨーロッパ芸術に夢中で、特に、西洋古典絵画、幻想文学、退廃芸術、シュールレアリズムなどなどだけで生きていた。澁澤さんの本をそんなに網羅して読んでいるわけではなく、何冊かのエッセイっぽい奇譚集を読んでいた。澁澤さんのメインのサド翻訳については、悪いけど、ほんの少ししか読んでいない。澁澤さんの書いたサドに関するエッセイは面白く読んだけど。あと、ハンス・ベルメールとかレオノール・フィニーとか、あと文学ではジョルジュ・バタイユを読んだりしたのは、澁澤さんに紹介されたから。自分の三十代のそうした浮世離れした趣味の部分は明らかに澁澤さんの影響だった。そして、その最後の最後に、澁澤さんの絶筆の小説である「高丘親王航海記」を読んだのだけど、これはショックだった。

この本に描かれていたことは、オレの三十代の「すべて」だったのだと思う。あまりに素晴らしく、今でも涙なしには思い出せなかったりする。当時、酔っぱらっちゃあ、当たり構わず、この小説について力説したっけ。実は、あまりに強い印象のせいで、この小説、再読できなかった。二度読むのが怖いような気がしてね。人間、あんまり破格に素晴らしいものに出会うと、二度も堪能しようとは思わないようにできているらしい。

そんなわけで、いまだに再読していない。というか、本自体が、無い。買えばすぐ読めるが、どうしようか、いつ読もうか。そんな下らないことを思うほど、自分には、あの本は「神聖な」書物だった。そんなせいもあるのか、澁澤瀧彦を思い出すと、決まってこの本に行き着き、それが酔っ払っているときだったりすると、なんで、ああいう人が死んでしまったんだろう、と思って、感傷に誘われ泣けてきてしまう。

とはいえ、この自分の文じゃあ、なぜ澁澤さんがいま必要で、あの小説の何が素晴らしいか、分からないよね。いつか書くかもしれないが、ここではくだくだ書かない。別の面から言うと、あの小説、自分の心の弱みという弱みをことごとくビジュアライズしたものと言ってもいいかもしれない。そういう意味じゃあ、成瀬巳喜男の映画の「浮雲」と同じかもしれないね。もっとも浮雲の方はたぶん、自分、50回は見てるけど。

とにかく、澁澤龍彦のような人が僕らの過去にいた、ということは忘れることはできない。いま現代の日本に、あんな人は、いない。どこにもいない。寂しいことだ。

1987年に澁澤龍彦が亡くなったとき、朝日新聞が紙面に「渋沢竜彦氏死去」という記事を載せた。澁澤さんの名前の4文字は常に旧漢字だったのだけど(本当は彦も旧字だけどワープロ変換できない)、なんと朝日新聞はそれをすべて常用漢字に変えて、「渋沢竜彦」という活字にして報道したのであった。澁澤さんは生前、略字の渋沢竜彦という表記を嫌っていたのを知っての所業だ。

それで、友人に朝日新聞社勤務のやつがいて、記事が出てほどなくしてたまたま、そいつと、僕と、とある澁澤龍彦を敬愛する女性と、三人で飲んだことがあった。飲みながら、彼女、この朝日のやり方を口を極めて非難しはじめ、これは僕もまったく同感だった。朝日の友人はそれに応えて、たしかに亡くなった作家に対して礼を失したやり方だった、と認めたが、その次にこう言ったのである。

「でも、別の考え方をすると、朝日新聞には社としての記事に関するレギュレーションがあり、これはもちろん他紙にもある。それで、澁澤龍彦の記事に関しては、朝日だけが社の一貫性を貫いて常用漢字で報道したわけで、新聞社としての独立性がもっとも強固だとも言えるんだぜ」

よく覚えているが、そうしたら、彼女、これ以上ありえないだろうというぐらい、言ったその当人を、哀れみ、軽蔑したような顔をして、二の句が継げないというよりは、相手のあまりの馬鹿さ加減に瞬間的に絶句したように、そのまま、即座に話を打ち切ってしまった。はたで見ていた僕は、その朝日の友人には、お前それは違うだろ、みたいにぶつぶつ言ったが、やはりそれ以上は止めた。

その瞬間に、その彼女は、その朝日の友人を、おそらく、一生涯、死ぬまで心の中で軽蔑し続けることに相成ったであろう、と、自分はその風景を見ていて確信したっけ。

いま調べたら澁澤さんが死んだのは僕が28歳のときで、思えばこれは自分の20代の風景だったんだな。実は、その女性も、その朝日の友人もみな同い年だ。ヤツは時々本当に馬鹿なことを言うのだが、彼は今でもオレの数少ない親友なので、あいつが馬鹿でも何ともない。そういう関係というのも、大人になるにつれ急速に維持が難しくなるものだが、ヤツとはそんな厄介はない。だから、平然と言わせてもらうが、本当に馬鹿なヤツだよ。

澁澤龍彦は、現在の日本ではついにメジャーになることはなかったけど、ときどき、この現代日本がたまらなく嫌になるとき、いつも彼を思い出す。そういうときは、今のこの時代に、澁澤さんがいてくれれば、と心底、思ったりする。

でも、この人、昭和と共に死んだんだよね。とても、軽々しく、あっさりと、死んでしまった。高丘親王も虎に食われて死ぬけれど、その骨は、モダンな親王らしく硬いプラスチックのようだったって書いてたっけ。澁澤さんも、きっと同じだ。

それで、今日、澁澤さんを思い出して、文など書いているとき、Wikipediaでつらつら澁澤龍彦のページを見てたら、急に、鎌倉にある澁澤さんのお墓の写真が出てきて、不意を突かれた自分は反射的に号泣。

澁澤さんのいないこの世に生きているのが嫌になったのかもしれないし、あるいは、単に、自分の幸福だった三十代を想い出したのかもしれない。

日記と親父の話

子供のころの自分は従順だったので、中学生になって、親父に日記帳を渡され、日記を付けろ、と言われたので日記を書き始めた。思えば、あれが自分の文章修行の始まりであった。日記といっても、最初のころは、判で押したようにおなじことしか書かなかった。その日にあった出来事を書き並べただけで、何時に起きた、朝ごはんを食べた、何時に学校へ行った、何と何と何を勉強した、誰と遊んだ、何時に帰った、という記述を毎日欠かさず続けていた。

そうこうして、2年も経ったころだったか、出来事をひたすら書き綴ることもだんだん間隔が開いてきて、その代わり、どうでもいい雑文をときどき書きつけるようになった時のこと、とある文を親父に褒められたことがあった。これは親父にしては極めて珍しいことで、自分は叱られたことこそ多数だが、褒められたことなどめったになかったのである。ともかく元文学青年の親父はこれを読んで感心し、ひょっとすると正樹には文才があるかもしれんな、と親馬鹿ぶりを発揮し、お袋にそう言っているのを、僕は聞いていた。褒められて嬉しくないこともなかったが、中学生の自分は文才などというものに興味はなかったので、あっさり受け流した。

ところで、その文はこういうものだった。

ある晩、家族でぼんやりテレビを見ているときのこと、そのへんに昔ながらのガラス棒の体温計があったので、それを取り上げ、その温度をあれこれして上げようと試みた。最初、指でつまんでしばらく待ったが、体温より少し下ぐらいしか上がらない。もっと密着しそうな手の平やら、腕の間やらで挟んだりしたけどそこそこ。そのうち、そっか、と思って指でつまんでぐりぐりしたら少し上がった。こすって摩擦で温度を上げればいいのだ。で、服の上や、床や、いろんなところでごしごしこするものの、ほどほどしか上がらない。で、最後に、親指と人差し指の間の付け根の柔らかいところで包むようにしてごしごしこすると面白いように上がって行くことを発見し、しばらくこすって、とうとういちばん上の42度まで上がった。上がってしまうともうすることもないので、体温計を放り出し、テレビを見ていた。しばらくすると、親指の付け根あたりが痛いんで、ふと見たら、さっきこすったところの皮が剥けて赤くなってヒリヒリする。あ、夢中でこすったせいだ、と気づいたが、それにしても、これを書いている今でも痛い。

と、まあ、そういう内容だった(つまんなくて失礼 笑)。この文はそこそこに長い文で、それにしても、単に描写を延々とつなげただけのものだったが、何かしらの文才がひらめいていたのであろう。

ところで、その後、中三になって不良仲間と付き合ってギターを始め、すべてはストップする。日記ももちろん止めた。思えば、それ以来、大学まで僕の文章はまったく進歩が止まっていた。今思い起こしても、自分がそのころ書いた文章は、内容も文体もかなり稚拙だった。よく、小さいころイマジネーション豊かな文才を発揮した子が、学校で国語を習うようになって混乱し、あっという間にかのビビッドな文才を失って、以降、混乱した稚拙な文しか書けなくなる、ということはごく普通に起こっていることなのだが、僕もそんなようなものだったのだろう。

再び自主的に日記というものを書いてみようと、始めたのが30歳前ぐらいのとき。最初は硬かったが、書き始めて一年ほどして、そこそこに文が書けるようになり、そこが自分の文章修行の本当の始まりであった。それから1、2年たち、残念ながら親父は早くして死に、僕のマジメ文も、その後に完成するアホ文体もほとんど知ることなく、逝ってしまった。それからさらに数年経ち、35歳ぐらいのときに「ゴッホ─崩れ去った修道院と太陽と讃歌」という本を自費出版し、自分のマジメ文体は完成したと言っていい。僕は、この本の冒頭に「父の霊に捧ぐ」と書いたが、これは率直な本心だった。この本は親父に読んでもらいたかったな、残念だ。親父は若いころさんざん苦労したが、最後まで物書きになる夢を捨てたことはなかったらしい。もし、僕に文才のようなものがあるとすれば、間違いなく、それは親父から受け継いだものだろう。

ところで、この本で思い出したが、お袋に聞いた話。むかし、親父が死んでずいぶん経ったある日のことだったらしいが、かつて親父を尊敬していた知り合いが、突然、家にお線香をあげに来たことがあったそうだ。どうやらしばらく親父の死を知らなかったらしい。その人は、お袋に挨拶もほとんどせず、そのまま玄関を上がり仏壇のところへ直行すると、そこでおいおいと声を上げて泣いたそうだ。しばらく経って、お袋とよもやま話をしているとき、お袋が思い出し、そういえば、長男の正樹がこんな本を書いたんですよ、と僕のゴッホの本を渡して、血は争えないですね、とでも言ったであろうか。その人は、本を手にして、ページをめくり、冒頭の、父の霊に捧ぐ、という一文を見て、その場でまたはらはらと涙を流したそうだ。

僕のゴッホの本は、出版しても何も起こらなかったが、親父の供養にはなったと思う。

 

(2017年1月10日、Facebookに投稿)