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カポーティ―の「冷血」

5年前ぐらいにヤフーブログに書いた文だが、たまたま読んだら面白かったので、ここに載せておく。

では、どうぞ。

最近、このブログ、相当に間が空いてしまった。

Mixiの方で書き散らしているかと言うとそういうこともなく、要するに何も書いていない状態がずいぶんと続いてしまった、ということ。この前の16日に50歳になったのだけれどそのせいかな、なんていうことも、まあ、ない。思ってみると、心が、そこはかとなくシリアス志向になっているように感じないこともないのだが、これもまた、あまりはっきりしない。ということで、実際、悩むようなこともないし、結局は気楽に生活している、と言えないこともない。などという、空疎な文章を前置きに書いて、さて、と。

先週ぐらいから、アメリカのカポーティーという作家の「冷血」という本を読んでいた。自分は過去に読んだ好きな本の再読を思い出したようにするぐらいで、まず新しいものを読まないので、実に久しぶりである。結果、夢中になって読んでしまった。久しぶりに本に夢中になって下車駅を乗り過ごす、などということもあった。改めて小説というのは面白いものだ。もっとも、これは映画も、漫画も、テレビも同じ。受け手を惹きつけておけないものは残りはしないはずだから、当たり前なことだ。

二人組みの男がとある田舎の屋敷に忍び込み、そこに住む地元の名士のような誠実で立派な家族4人を惨殺して逃げ、さんざん逃げたあげく捕まり、刑務所に入り裁判にかけられ死刑を宣告され、そして最後に刑が執行される、というだけの物語である。この二人は、いわゆる社会の底辺にうごめく大量の人間たちの中の一員で、めいめいさまざまな形で社会に対して不満を持ち、信頼感を欠き、社会での自分の位置を見失って、そのほとんどの時間を我執と欲望に従い行動し、最下層に向かって抗し難く落ちて行き、それを止めることができない、そんな人たちだ。

この小説には、この二人の男の周りの実に多種多様な人間たちが描写されている。彼ら二人とその家族のめいめい、そしてその周辺の下層を生きる人たちなど、そしてその丁度反対に位置する、惨殺された何不自由ない立派な一家、地域社会に誠実に生きる人たち、事件の捜査官たち、裁判官たち、群知事など偉い人たち、など。結局、最後まで読み進むと、この二つの陣営の人々の対照はかなりくっきりとしていて、永久に分かり合えない、混じり合うこともない、水と油の層を形作っているように見えてくる。

舞台はアメリカなのでキリスト教徒は至る所に出てきて、この水と油の橋渡しをしようとするように見えることもあるのだけれど、その効果のほどは説教の言葉とともにむなしく消えてゆく、という印象がある。永続を約束するそれら宗教の言葉は実に無力だ。しかし、それに対して、進行する物語の中で、それぞれの陣営に属する人の、相手の陣営の人に対する個人的な共感のようなものが、ある瞬間きらりとひらめくような場面がばらまかれている。光った次の瞬間にはすぐに消えて元に戻ってしまうのだが、でも、この長続きしない短命な光だけがこの両者を結びつける唯一の道のように見えたりする。こういうまるで法外とも見える「共感」は、理屈や、生活観や、習慣や、規範といった、およそ理性的なものと無関係に現れては消えてゆく。まるで前世に何らかの関係なり血縁なりがあって、その遠く忘れられた記憶が本人の意思と無関係に現れては消えてゆくようだ。

さて、それとは別に、読んでいて思ったのは、上層に生きる人たちの、社会に対する義務と権利に裏付けられた生活の単調さである。それに対して、下層に生きる人たちの苦しみと不幸とつかの間の喜びなどがごっちゃになった生活の多様さは呆れるほどだ。生活の単調さだけではない、心の動きも同じだ。苦しみや喜びに安定しない心、高揚し、失望し、やけになり、怠惰になり、また高揚し、ということを果てしなく繰り返している中で、およそ上層に安定する人たちには思いもつかない、大切なものをつかむことがある。もっとも、つかんだ後にそれを育てて大きくするすべを知らず、すぐに手放して無くなってしまうのだが。

さてと、そろそろ阿佐ヶ谷に歌を歌いに行かないといけないので、中途半端でここで止める。

これを書いたカポーティは、二人組みの殺人者の特にペリーの方に異常な感情移入をしたとのことだが、僕も同じだ。心のどこかで「こいつはこの俺だ、俺のことだ」という気持ちを感じる。もちろん僕は、彼のような不幸な生い立ちでは決してないのであるが、しかし、やはり、血縁なのだ。

2009年2月1日

東京五輪決定のこと

(Facebookに投稿した文)

東京五輪決定、みなにならって、まずは、おめでとうと言っておこう。

スウェーデンにいるんで皆より反応が遅いんだが、今朝起きて、東京に決定のニュース見て、へえー、と思った。僕のネット環境ではネガティブ意見の方が目に付いたので、蓋を開けて日本ポジティブに転んだのが少しだけ驚き。ただ、最後に残った3国を見ると、これって東京しか選べなくないかな、と思っていたので順当といえば順当だったのかもしれない。

ところで、「僕のネット環境」と「あなたのネット環境」って、これは激しく違うよね。特にSNSを日常的にやっていると、情報ソースがそれぞれの環境ではなはだしく異なるからね。オモシロい、ヘンな世の中になったもんだ。

あともう一つ意外だったのは、東京への放射能影響はそれほど重大視されなかったかったんだな、ということ。東京の放射能汚染についてはほとんど実態が判然としない状態で、各国の代表たちは本当に東京に来るのかな、と思っていた。代表が来るのを辞退したらオリンピックは成り立たないので、東京はダメなんじゃないかな、と思っていた。でも、250キロ離れてるから、まあ、大丈夫でしょう、という判断だったんだね。

個人的に、僕はスポーツが好きじゃない超インドア野郎なので、オリンピックにもあまり興味はない。もっとも、テレビの無い我が家でも、オリンピックとワールドカップについては、壁の共聴コネクタに鰐口クリップで長いビニール線をつなぎ、延々と引っ張って使ってないVHSレコーダのアンテナ入力につなぎ、プロジェクターで見る、みたいなことは、やってた(あ、こんなこと書くとNHKが集金に来るかな 笑)

スポーツも、見れば、面白いんだよね、見ないから無視してるだけで。あと、スポーツもやれば面白いんだよね、やらないだけで。当たり前だ、だってスポーツって娯楽だもん。

経済効果は多大ということで、あと7年の間にあれこれのいろんな仕事が生み出されて、結果、社会に活気は出るだろうね。反面、さまざまな、小さくて、吹けば飛ぶような、でもこれまで日陰の文化として永続してきた、そんなようなものは邪魔であれば一掃されてしまい、翌日からは無かったものとみなされるようなことが進行するだろうね。

前々回の北京オリンピックでも、北京の古い街並みはかなり一掃されたからね。フートン(胡同)と呼ばれる古きよき北京の面影を伝える古びた街並みは、かなりのエリアで更地になったと聞いた。オリンピック前に北京へ初めて遊びに行ったとき、このフートンを散歩して、古い中国の変わらぬ情緒に浸ったのを思い出す。上半身裸の男が行き来して、老人が道端に座ってぼんやりしていたり、子供たちが走り回っていたり、とても気持ちがいい空気だった。

中国政府は強引が許されているから、とあるフートンの立ち退きの時は、2週間前通告ののち有無を言わせずブルドーザーで取り壊しというのも、聞いた。

東京は中国みたいに乱暴なやり方はできないだろうが、結果的に同じことが起こるのは確実だろう。

元来、僕は、「みなで同じことをする」のが子供時代から苦手だった。そんな自分は、たとえば合唱とか恥ずかしくて仕方なく、やむなくやるときは声は出さず歌う真似をしてしのいでいた。そんな自分もバンドでワントップで弾いて歌うのは少しも恥ずかしくない。「合唱で人前で歌うの恥ずかしい」「えー、だって林君バンドで歌ってるじゃん」「一人は恥ずかしくないけど、みんなで同じことするのは恥ずかしい!」「それって逆だよ!」という会話を何度かした覚えがある。

あ、あと、アイドルのコンサートかなんかで会場でいっせいに「おう!」とか「へい!」とか言ってこぶし突き出すのも、恥ずかしくて見ているだけで穴があったら入りたくなる(笑) ましてやそのアイドルがバーチャルだったりすると、もう訳が分からず反射的に目をそらしてしまう。だって、このバーチャルキャラを裏で動かしてるのってすね毛が生えた腋臭な野郎どもだぜ?って言いたくなる(失礼)

そういうひねくれものなので、まあ、東京五輪で浮かれるのは無理。これはネガティブとかそういうんじゃなくて、個人的な性格そのものだ。

そういう性格なので、おのずと、名も無く、変哲も無く、およそ力というものを持たず、吹けば飛ぶような、しかし、長い長い時代に渡ってしっかりと持続し、自立してきた、そんな「文化の形」というものに、過度に愛着を感じる、ということに、相成るわけである。

「失われ行くもの」、という言葉は、常にその失われようとしているものについての生命の微妙さとかけがえの無さと永続性とを表している。また、はかないからこそ貴重なのである、というところも命と同じだ。何度でも自動的に生き返るような代物は命とは言わない。

僕は、宮崎駿の作品をなんと一つも見ていない、という非国民なのだが(すいません、アニメが苦手なんです 笑)、彼が最近引退表明した。最後の作品の評やそれについての彼自身の言葉をいくらか読んだけど、彼自身、そういう、悪い目線だけで壊れてしまうような、しかし持続する変哲ない民族の心のような、そんなものをただ大切にしたかった、みたいな記述を見かけたところを見ると、きっと僕の感覚に近いんだろうな、たぶん。

というわけで、持続する目立たない文化の方が自分には重要なのだ。作り出されては消えて、また、さらにでかくなって作り出されて、また壊して作って、ということを平然と延々と繰り返し、世の中をおそろしく乱暴な手つきで平らにならして行くような、都会の上層で行われている喧騒とはほぼまるで無縁な、持続する小さな文化である。

オリンピックそのものは、まさに永続する世界文化の形なのは間違いないので、それに嘆息するいわれは無い。しかし、オリンピックを、経済活性化を伴うイベントとして見ると、やはり自分はあまり近寄りたくない代物になってしまうな。本当に貧しかった50年前の日本とは事情はずいぶんと異なる。逆に今回も、もっと適任な国もあったのかもしれないね。ただ、昨今のオリンピックはイベント規模がエスカレートしているので、世界が納得するオリンピックを開催するのは貧乏な国では難しいだろうしね。

正直言うと、そういうイベントのあり方がアメリカ的に見えてしまい、これが世界文化の主流であらざるを得ないわけで、その方向性に逆らえる文化は今のところ無さそうだな、という風に見えるんだけど、そんなことを言い出すと不穏なので、これ以上は言わない。

まあ、とにかく、あと7年間、日本は威信にかけてがんばります、っていうことになったわけで、事態を好転させざるを得ないし、たくさんのおこぼれもあるだろうし、悪いことではない。

ただ、その影で音もなく消えて行く貴重な日本の文化というものを、五輪誘致決定のニュースを見て真っ先に思ったので書いておいた。