月別アーカイブ: 2010年10月

しばらくは下らない世の中、と

校則違反した生徒たちを3時間正座させたことが発覚して学校側が謝罪、で、それがニュースネタになるとは、唖然だ。こんなどうでもいいことがトピックスの上位に入ってあまねく知れ渡るなんて、なんとなく世も末って感じがするな。

やはり、今の世の中は、下々の僕たちの層の積層した力によって、善悪などの構造自体を変化させようとしている真っ最中なのかな。ちょうど変態中の蛹の中のようにね。それにしても蛹が孵ったら、いったいその殻から、なにが飛び立つんだろう。

僕たちはたしかに旧い構造を変えられる力を手にしたけど、その力の使い道はもちろん確立はしておらず、そうとうに危なっかしい。でも、一度は通るべき道なんだろうな。ということはつまり、この現代では、下らないことがこれから先もイヤというほど起こる、ということでもあるな。

初音ミクと実存主義・構造主義・ポストモダン

仕事がらときどき初音ミクで作った音楽を聞くことがあるが、あれはオレには全部同じに聞こえる。オタクのソングには何だか特徴があるね。ちょっと長めのメロディアスな歌い上げっぽいカデンツと、せわしいリズムに乗った単調なメロディーを、交互に繰り出し、声も楽器の音も高音ばかりで、中音というものがなくて、低音もほとんどないのだが、代わりにケツを蹴るような打撃音がカデンツ以外のところにコンスタントに入ってる。

オタクのソングは、あれは、もう、一種の、オタクのBLUESだね。「辛い宿命からの逃避」、というモチベーションがその昔の黒人ブルースとほぼ構造が同じだ。オレはブルースを演奏するが、オタクのソングは忌み嫌っている。なぜならモチベーションの構造は同じだが中身が違うから。でも、しかし、中身、って何だ?  中身、中身、人間の中身ってホントなんなんだろう?

さて、それでは、このオタクソングと黒人ブルースの間の関係を、実存主義のサルトルと構造主義のレヴィストロースになぞらえてみよう。

まず、黒人ブルースは開いた音楽であり、それゆえ世界のポピュラー音楽の基礎となった、という事実を盾にして、狭いコミュニティでしか通用していない閉じたオタク音楽の卑小さを糾弾したのが、サルトル。それに対して、そういうオタク攻撃のしかた自体が、既成社会の価値観に囚われた社会の発展という偏見に基づくものであり、まるで演歌の心以外認めない偏狭ジジイのように進歩が無い、と論難し、勝ったのがレヴィストロースなので、アル。しかしながら、黒人ブルースもオタク音楽も構造が一緒だということで等しく偏見なく認めてしまったら、一体、何がよい音楽だか分からなくなったため、やっぱこりゃイカンと反省して生まれたのがポストモダン、っていうわけで、アル。

もっとも、きっと、ポストモダン的に言ったら、オタク音楽に対してはこうなるかもな。

「きみたち、いいんだよ、それでいいんだ、なすがままにやりたいようになさい、それがゲンダイというものなのだから」ゲンダイとは「現代」ではないことに注意。すべてはキゴウカされ、だからといってムナシクもならない、タノしくカツドウして、すべてはユルサレルのである、アーメン、アーメン、、、

ハイブリッドが嫌い

オレが嫌いな解決法、ハイブリッド。

半端でいやだ。長所と短所がある何かと、これまた長所と短所がある別の何かがあったとき、その2つの短所だけ捨てて長所だけ残して混合して元の2つよりいいものを作ってしまおう、という考え方自体がいやだ。それに、できあがったものを見たとき、そこに元の何かと何かが丸見えになっているのは、やはりぶざまだ。

でも逆に、何かと何かのちょうど真ん中を作ることはよいことだ。そして、混合ではなく真ん中を作ることを、中庸の精神と言うのだ、孔子の言うところの。何かと何かの混合を作るには、当の何かと何かが揃っていればあとは混ぜてちょっと調整すればできるが、真ん中を作るときはそうは行かない。作る前は真ん中には何も無いから、その真ん中を見極めて、新たに作らないといけないからだ。

こういう事情を、中庸を得るのは難しい、というのだ。実は日本は歴史的に言ってこの中庸の方法論が抜群に上手な国だった。しかし、さいきんはどうだろう。白か黒かをやたらはっきり断罪することこそ現代的な人間の姿だと勘違いしているようすが目につくのは、これはかつての西洋コンプレックスが庶民にまで降りてきた、その成れの果てだろうか。

そういう、つまらない人間たちはたいていこの「中庸」というものを逆に中途半端だとバカにする。つまらない人間が中庸を得るときは、それはたいていが単なる混合だ。孔子は、君子の中庸は「時ニ中ス」、小人の中庸は「忌憚ナシ」、と言ったけれど、小人たちはまさに、あれこれのものを節操なく混合しては右往左往して、そのせいで言葉だけがやたら氾濫する。

インターネットのせいもあって、特に、現代は、「忌憚のない人」たち、つまりあたりはばからず騒々しい人たちが氾濫しているでしょう?

孔子の弟子

孔子の弟子の一人に子路っていう人間がいて、彼はなんだかすごくいいヤツなんだよ。もっともオレはこの孔子の弟子の子路を、中島敦という昔の文士の「弟子」という小説で先に知ったのだけど。この中島敦は教科書にも載っている有名な人らしいね。

子路は、一途で、不器用で、血の気が多く、考えるより実行するタイプの荒くれ男風の人物像なのだ。子路は字で名は「由」というのだが、孔子の言葉で、この由について言った片言がいくらか残っていて、読んでいると何だか不思議な愛情を感じるんだな。

その中の一つに、うろ覚えだが、こういうのがある。子路は常日頃から自分自身に、いにしえの詩で言われる「出すぎたことをしなければ良くないことは起こらない」という文句を繰り返し言い聞かせていたそうだ。それを見た孔子は「そんなことで、何が良いことが起こるものか」と言った、というのだ。

僕の持っている論語の解説本には、この逸話について「孔子は、積極的に事を進めることこそ大切だ、といましめたのである」などと書いてあるが、そんな馬鹿馬鹿しい当たり前のことを書かないでくれよ。子路は自分の積極性が落ち着いて定まった方向性を見出せないことを痛感していたからこその態度だったはず。孔子は子路のそういう性格をよく知っていたので、きっと「そんな風にして何が良いことがあるものか」という言葉を、微笑みながらちょっとからかうように子路に投げかけたのだと思うよ。そこに現れているさりげない孔子の子路に対する愛情や気遣い、子路の実直さや、その他もろもろに感動するんだ。

先の解説本しかりだが、論語の儒教的な解説というのは、あまり面白くもない感じだな。もちろん儒教は論語が基礎になっているわけが、何だか当の孔子の人間像とずいぶんかけ離れてしまっているね。孔子は、儒教で言うところの聖人君子なんかより、ずっとずっと人間臭い、愛すべき人間だったと思うよ。先の子路に言った言葉とかを読むと、オレにはそう直観できる気がする。

まあ、それにしても、学者ってのは、大半、アホやのう~(笑) あと徒然草を研究してる学者も、ずいぶんつまらない解説を書いてるよ。同じくパスカルのパンセにも、あるいは、さいきん流行のニーチェのアフォリズムの解説もね。だから、まず対象を好きになって、あとは、自分がそれに感じることを素直に信じた方が、ずっといい。

孔子と出会う

さいきん出会った人、孔子。おもしろいね、2千年以上前の人に新たに出会えるなんてね。そんなとき、たしかに、孔子という人は不死なんだと思える。そして、孔子が不死だったらオレたちも不死だろう? そして下々のものたちまでみんな、みんな、不死なはずだろう? オレはそう考えるよ。

善悪の枠組み

オレの元同級生の友人にこれまでさんざんBlogtwitterをすすめたが、ヤツいっこうにやる気配なし。あいつは「走り」、つまりマラソンが趣味なヤツで、 まあ、彼の立場から見てみれば、このオレにジョギングやれって言っても一向にやる気配なし、と同じようなものか。

「おまえもtwitterぐらいやれよ」「おまえがジョギングしないのと同じさ、イヤだね」という会話は、ディベート術的に言うとtwitterからジョギングへの論点の不当なすり替え、ってことなのだが、それは「論点」が「twitterの効能」にあるからで、相手にしてみれば、その勝手な論点の設定が不当ということになる。ここで「やるとよいことは知っているけど、やりたくないからやらない」ということを論点にすると、twitterすることとジョギングすることは同じ土俵に乗る。

twitterをやると、何がいいの? 小さな発散? ライフログが残せて後で楽しい? 他人の生態が感じられる? 世界が広がる? ゆるい情報交換で仕事に役立つ? などなど。

ジョギングやると、何がいいの? 運動不足解消? 目標の達成感? 外界の空気を吸ってリフレッシュ? 同じジョギングの仲間作り? などなど。

こうやって2つの事柄の「よいこと」を列挙すると、だいたい対応するものが見つかるわけだ。きっとこれは「悪いこと」でやっても同じことになるだろう。それじゃあ、結局、「twitter」と「ジョギング」って「内容」が入れ替わっているだけで、それを容れる「枠」は同じってことじゃないか。ま、こういうのを、構造主義っていうんだよな。「枠」すなわち「構造」がものごとを作り出している、という考え方だ。

ところで、構造主義のレヴィ・ストロースが、当時論戦常勝の実存主義のサルトルに勝った、っていうことになってるらしいのだが、でも、なんだか、これを聞いたときは痛快だった。オレは世代的に実存主義の空気で育ったはずなのだけど。

しかしさいきんはね、善悪っていうのが、かなりのレベルでなんだか分からなくなってきたよ。オレたちは、原理的に善悪の枠組みを変えることができる、つまり、オレたちは善悪の基準を作ることができる、ということが実感できるようになってきた。ということは、オレたち自体は善悪を超えたポジショニングができる、ということも薄々わかってきた、というか。

それにしても、オレたち庶民のように、移り気で、見識があやふやで、いい加減で不徹底で、他人の意見に影響されやすい、そういう人間たちのかたまりが善悪の基準を作れるようになってしまう、というのははなはだしく危険なことなんじゃないか、とも思えてくる。さらに恐ろしいことに、我々めいめいが善悪を超えたところにいる、いわゆる善悪の彼岸にいる、と感じはじめたときだ。なぜなら、その論理的帰結として「われわれは何をしても許される」ということになってしまうからだ。

さて、まさにこういう風に感じ始めたときこそ、古典の空気が必要なときだ。なぜなら、古典として名が残っている思想家たちは、みなめいめいの時代の中で自分は善悪の彼岸にいると強烈に自覚した人間たちだったからだ。もちろん当時はなかば密かに、であるが。

ということで結局、このように庶民が善悪を作る時代になったとき、めいめいがしなくてはいけないことは、過去に戻って偉人たちの吐いたよい言葉の空気を吸うことなのだと思う。

でも、まあ、善悪の話なんていうのはタイソウな話なんで、あんまり人前ではしない方がいいかもな。

しかし、やっぱり、今日電車に乗ってて漠然と思ったんだけど、かつて実存主義的だった自分のものの考え方も、時代が進むと共に構造主義的に変って行った。それは確かだ。とはいえ、それでも変らない自分の心ってのがあって、これは一貫しているように思えるが、はて、どんな心だろうね?

心、心、と。 これは一種の矜持のようなものかもしれないな。

自然ものより人間もの

目黒川沿いの桜は見事だ。満開の桜の花の下の遊歩道を歩いていて、ふと我に返ると、自分が見ているのが、花見の場所取りをしてる下っ端や、発泡酒飲んでオニギリ食ってる主婦や、何も分からず走リ回ってるガキとかばかりで、肝心の桜をぜんぜん見ていないことに気がついた。やっぱりオレは自然ものより人間ものが好きなんだろうな。

ミケランジェロやピエロ・デラ・フランチェスカや

うちで和食だとかなりの確率で、ご飯、キノコ、大根おろし、山芋、のコンビネーションが出てくるが、まったく片田舎の木食上人じゃあるまいしな。と、書きながら、なんでオレは「木食上人」なんていう言葉を知っているんだろう?

これは、たしか、青山二郎と小林秀雄の酔っ払い対談に出てきた単語だ、それを読んで覚えたんだ。小林の「ミケランジェロは89歳で死ぬとき、ようやく何でも表現できるようになったとき死ぬのか、と言ったのだ」という言葉を受けて、青山が「そんなことは木食上人でも言えるさ」と一蹴する場面だ。

ところで、バチカンにあるミケランジェロの「死せるキリストとマリア」の彫刻は、彼が24歳のときの作品なはず。驚異的というのはこういうものに使う言葉だ。ほんのかすかな傷も見当たらない、真実に完璧な作品で、唖然とする。そのミケランジェロが89歳になって「ようやく何でもうまく表現できるようになったのに」と、言うんだからなあ、表現とは果てしのないものだ。

しかし、オレはルネサンスの最盛期はちょっと苦手で、どうしても前期ルネサンスへ行ってしまうな。ピエロ・デラ・フランチェスカが、結局、一番、好きだ。やっぱりオレは何についても「エキゾチズム」に走る傾向があって、この性癖は直らない。ここで言うエキゾチズムとは「あり得べからざる組み合わせが生み出す不思議な効果」という意味だ。「傷の無い完璧な調和」というものをそれ「単体」で想像して享受することがうまくできない。

なんだか面倒な話になっちまったな。キノコと大根おろしの話だったのに。

しかし、ロンドンのナショナルギャラリーは、とにかく、スゴイ。先に書いたピエロのすばらしい絵があるなどコレクションがスゴイのは大英帝国の名残だが、何がスゴイって、作品の保存状態などのメンテナンスや、展示の仕方に細心の注意を払っているところなど、芸術作品に対する愛情のかけ方が尋常じゃない。

たとえばイタリアの並みいる素晴らしい古典絵画など、イタリア本国では展示がいい加減、フランスへ行ってもいい加減、アメリカはけっこうきちんとしてる、しかしイギリスにはかなわない。やっぱり、イギリスって、本国産の古典絵画にいいものがあまりないからな、尊敬と憧れがあるのかな。

そうそう、それから大英博物館もすばらしい。あと、大英博物館の入り口からちょっと裏に入ったところのワガママっていうラーメン屋も旨かったっけ。

メタデータが気に入らない

7、8年前だったか、自分が情報系の研究職だったころ、「メタデータ」ってのが流行ったときがしばらくあった。当時、オレはこのメタデータというのがどうしても虫が好かず、嫌っていたっけな。

メタデータとは「データについてのデータ」のこと。当時は、メインのデータというものにくっつける説明用のデータのことを指していた。例えば、「映像」がメインデータで、「その映像の作者名や制作日時」などがメタデータである。

メタデータのどこが虫が好かなかったかと言うと、「メインとサブ」という主従の関係がどうしても固執されていたところ。当時から、そして、もっとずっと昔からオレはメインサブ、主従、ハイアラーキ、階層的整理、といった一連の概念を嫌っていたのだった。

もちろん、ここでいうメタデータはかなり狭い意味で、本来の「メタ」という接頭語は「高次な」という意味なのでずいぶん違う。と、いうか、むかし自分が嫌っていたメタデータはむしろ「メタ」の誤用とも言えるかもしれない。

それにしても、いま現在、モノからコトバへのパラダイムシフトという概念を新しく習った自分は、かつてメインとサブという構造を嫌った自分の目指すべき故郷を見つけた感じだな。

データのためのデータは、それで結構。でもこれからは、前者のデータが後者のデータを生むというだけでなく、そうして現れた後者のデータがさらに新しいデータを生んで、それが円環を成す、という経過を経て、あらゆるデータが並置される世界観へ移行する、と考えてみよう。

世界は因果律の連鎖によって現前しているのではなく、並列的な関係性によって現前している、と感覚的に納得したいのだ。でも、これは自分でもちょっとやってみるとわかるんだけど、現代人にとってどれだけ大変か、とも思う。

ややこしいな。ま、いっか。ただ、自分が言葉に固執する意味がだんだん分かってきたって、こと。

将来の養老院を垣間見る

昨晩は三宿のロックバーで集会、演奏、飲み。ここ、ターゲット層が50代以上なんだわ。で、ホントに客のほとんどが50以上。一番若い人で47歳だったぜ。生ギターかかえて、あれやろう、これやろう、と、次々とみんなで楽しく歌って演奏してたんだが、ふと正気に戻って周囲を見渡すと、ホントにみんな50以上のじじいばっかで、なんだか侘しく切なくなったよ、なんかね。深夜のじじい集会ロックバーでビートルズやイーグルスを演奏しながら、ああ、10年後、20年後の養老院はきっとこんな感じなんだろうなあ、と未来を垣間見た気がして、ちょっとブルーになったぜ。でも、オレが将来の養老院に入るころは、オレは確実にスターだな、あまりうれしくないけど。

臭いから旨い

東南アジアではエビを発酵させた蝦醤(シア・ジャン)が調理によく使われる。国によっていろんな名前になっていてたとえばインドネシアではトラシというそうだ。これは料理に一種の臭いにおいを付けるために使う。臭くないと旨くないからだ。いまではポピュラーになったナンプラーや、この蝦醤や、日本のくさやもそうだが、その臭いのタイプは「肛門臭」に分類されると思われる。料理にこの臭いをつけることは多くの国で見つかるので、まったく世界中だれもかれも肛門の臭いが大好きだ、ということになる。一種の肛門愛の変種なのであろうか。高度に文明化した現代人であっても、肛門臭への偏愛のようなプリミティブな感覚を料理の上にしっかりと残して、それを「うまい」という代替語でおおっぴらに言ってはばからない様子はなかなかに、感動的ではないか。