月別アーカイブ: 2010年9月

仏陀とイエスの発した言葉

仏陀という一人の人間の言葉は、改変に改変を重ね、おそろしい数の亜流仏典を生み出した。イエスという一人の人間の言葉は、信じがたいことに今でも新約聖書というたった一つの書物に記されている。アジアとヨーロッパの違いだよ。そしてオレはアジア人。

著作権がキライだ

インターネットが流行りはじめて、ホームページというものを個人で作って公開できるようになったころ、よくお目にかかったのが、ページの下に、いちいち「無断転載を禁じます」とか「すべての著作権は××にあります」だ、どうのこうのというせりふ。なんだか素人くさいページ作りの、ゆるくて、のほほんとしたページの雰囲気と明らかに不調和な、脅し文句のような著作権主張の文句が出てくるたびにそれ以上見る気をなくしたものだ。

さいきん、あまり見かけなくなったのは、著作権法の趣旨がそれなりに一般化したからだろうか。それにしても、どうでもいいような写真や文章についてこれ見よがしに「権利」を主張する、という態度はなんだかお里が知れる、というか、オレはイヤだな。

さて、こと作品ということに関しては、自分は、著作権とかセキュリティとかモラルとかいった規制に関わるものはまったく必要ない。ただし、たとえば、作品につき「モラル」というものがもし世の中に無いと、「インモラル」の存在もなくなるのでそれは困るという意味だけで「モラル」が必要だ。そういう意味で、自分の性根は、骨の髄からヒッピー的、ハッカー的なのだが、ヒッピーやハッカーだけで生きてゆくのもツライのよ。妻も子供(はない)もあるし。

しかし、著作権って言葉、ホント嫌いだ。オレのホームページは著作権表示はもちろんなく、コピー、改変、横流し、悪用、全部OK。それで今のところ目立ったトラブルもないのはそれほど人気がないからだけど。

それにしても、ああ、権利、権利。権利なんてなくなっちゃえばいいのに。そうすれば義務もなくなってせいせいするよ。権利と義務のせめぎあいの中で化かし、化かされ、なんていう茶番から離れて、自身の自然な行動で他人と助け合っていければ、それが一番いいじゃないか。少なくとも、理想では、そうあるべきだと思う。

みな、昇天

ジミ・ヘンドリックスの未発表のヴァリーズ・オブ・ネプチューンという曲、ああ、この、高揚感、浮遊感、高速で流れるエネルギーの束、心底すばらしい。

なんだか死ぬ寸前のきらめきというか、ドストエフスキーによると癲癇の発作の直前にこの世のものとも思われない調和と幸福の瞬間が襲ってくるそうだが、そんな感じでも、ある。

ゴッホの絵にもそういう浮遊感のあるものが、ある。サンレミの囲いのある土地に昇る日の出の絵とか。

あと、ニーチェにも。ツァラトストラや、この人を見よ、アンチクリスト、そして、偶像の薄明の恐るべき晴れやかさ、透明感、高山の空気。

どいつもこいつも、みな、昇天って、ことだ。

人生とは

「人生とは、いかに生きるべきか」である、なーんていうことを心底真に受けると後で大変なことになるのよね。それに、そんなことを言うのはほぼ例外なく男だけ。「人生とは、何を手に入れるかである」ってのが順当なところでしょう。しかし、「人生とは、業務です」ってのもあったっけ(笑) 実はその言葉を読んで、しばらく考え込んじゃったよ。結局、「人生とは、人が生きることである」ってのが一番正しい感じだな。ただ、これじゃ、当たり前すぎ、あるいは、高尚過ぎるせいで、何の役にも立たない。

書かないと考えない

オレは手を動かして文章を書かない限り、ほとんどものを考えない。なのに文を書けば思考のようなものが現れる。オレは一体、それをいつ考えたのだろう? 「思考」というのは現れてしまえば、論理的な連鎖や時間順の展開などによって構築された代物なのだが、現れる前には、論理も時間も伴っていないヘンチクリンなカタマリだったわけだ。

時間についての本

またまた図書館で借りてきた時間論って本をめくっていて、時間というのは錯覚かもしれない、なんていうのを読むと頭の中がぐるぐる感じたりする。はたまた、「未来」というのは単なる概念であって存在しない、とかね。

ギリシア神話

うちに薄っぺらいギリシア神話の文庫があったから読んでみた、縛られたプロメーテウスというやつ。ギリシア人はこういう神々を持っていたんだな。あまりに大きくて、くっきりしていて、あいまいさが皆無な、明るい風景に、唖然とするほど。

哲学者の食べもの

ニーチェは、哲学者たるものまず風土と食物に気を配らないといけないと言っている。彼のいち押しの食べものはピエモント料理だそうだ。ピエモントを調べてみるとイタリアのトリノがある州だ。どういう、料理なんだろう。

ゴッホのデッサン

ゴッホが最後を過ごした土地オーヴェールで、死ぬ少し前に描いた、市役所前の広場の変哲ないデッサンがある。午前中、むかし買った画集に載っていたこのデッサンをずっと見ていた。それにしても、こういうデッサンはいったいどうやったら描けるようになるのか。見ていると、たった一枚のちっぽけなデッサンの中にすべてがある、と言いたくなる。

情報衛生術

過剰な読書により人は考えることができなくなる、とは大昔から言われていたこと。ショーペンハウエルの「読書について」って本を読むと痛快だ。「本は読むな」、とか乱暴なことが書いてある。現代にこそ通じる情報衛生術だ。

情報過多の世は考えるより選ぶ方がいい

ネット上の情報過多にずっと接していると、結局、それらの情報を通してものごとを知れば知るほど、人間の知識は平滑化して行くのではないだろうか、という話を聞いた。ここで、「情報を、処理する」という図式で考えると、今は情報そのものの過多だけでなく、処理法、つまり考え方の過多も同時にあるので、考え方つまり解釈法も平滑化されるところが特徴な気がする。そうなると、さかのぼって、「情報を処理する」という昔ながらの図式をうまく捨てて人生を渡るっていう処世術が流行るのかもしれない。具体的には、情報がいくら入ってきてもそれをいちいち処理、つまり考えて比較検討などせず、自分に都合のいい情報を「選ぶ」だけにする。ものの考え方、つまり処理法についても、どれが正しい考え方かをたくさんの情報を「考え方に食わせて」検証するなどという無駄な時間はかけない。つまり、「情報を処理する」んじゃなくて「行為を選ぶ」ほうに比重を置いて、とにかく行動する。

芸術はときに爆発だ

芸術というのは時に爆弾のように作用することがある、とむかしどこかに書いたが、ホントにそうかもな、と思ったりする今日この頃。たとえば自分は、罪と罰を20回読んだから頭がおかしくなったのか、頭がおかしいから罪と罰を20回読んだのだか、分からない。と、いうか、これは同じことを言っている。

願掛け

パワースポットというのは、どうも自分はとりあう気になれないな。いわゆる超常現象などは無条件にその存在を信じている自分なのだが。いや、その存在が実生活に及ぼす影響を信じている、と言うべきか。そのせいなのかパワースポットは存在そのものより、その影響の方がなんだか嘘くさく感じちゃってね。

人生は、目的の達成ではなく、どう生きるかだ、ということがもし正しいとすると、願掛けというものはあまり意味がなくなる。あるいは願をかけるその内容が変わる。なので、自分は寺社仏閣に行くと、草木の様子や、人々のまちまちな動きや、建物の屋根のカーブの曲率を見たりして過ごす。

あ、もちろん、願もかけるけど。健康に幸せに生きられますように、とかね。

副社長の自殺

サムソン電子の副社長が自殺したってね。僕と同じ歳の51だ。その遺書には、過重な社内プレッシャーについての言及が残っていたそうだ。しかし、なぜ、社会組織というのは、気付いて見ると右にも左にも前にも後ろにも逃げ場がないという風な錯覚を人に与えてしまうのだろう。一個の生物として自身は自由なはずなのに。

そんなこともあり、大真面目な趣味、というのは大事なんだろうね。社会組織生活とぜんぜん違うところに何かを持っているということ。もっとも、さいきん、そういうことがよく言われるわりにはそれほど助けになっているかどうかは、分からない。当の行き詰まりを打開してくれるわけではないので、意外と逃げ道にならなかったりもする。つまり、社会で逃げ道がなくなったら、趣味の世界に逃避できるかというとそうも行かない、ということだ。

なので、大真面目な趣味を持つ、というのは、一般に考えられているように、気晴らしや逃げ道、といった現実的なものと言うよりは、心の持ち方を徐々に変えてくれるものとして機能するんじゃないだろうか。つまり、人生は、枝分かれした一本の細い道を歩いているんじゃなくて、大洋に浮かんでどこぞの島を目指している、とイメージすることが大事だと思うんだが、趣味というのはそういう心持を育ててくれるような気がする。

twitter

twitterはたしかになかなかおもしろいことが分かったが、いろんな人のtweetを読んでいると、ときどき、よくお店の入り口に立ってる実物大の人型の立て看板みたいに見える幻が、自分の周りにぴょんぴょんと配置されているように感じるときがある。

言葉と時間

言葉と時間という2つのことは、永遠のテーマなんだな。冷酷な時間に近寄りすぎてしまった現代から、もう一度、豊かな言葉を取り戻すことが、21世紀的と信じよう。「速く軽く薄くはかなく」は、すべて基本は「時間」に関係してるんだな。まあ、どこかで、転換期が来て、もう一度「言葉」に戻る、とオレは踏んでるんだけど、実際には来ないかもな。