雑文」カテゴリーアーカイブ

科学 vs 哲学

三、四年前だったか、どっかのスレッドで、科学者と哲学者の他流試合があって、それが公に公開されていて、僕もスレッドを読んだりした。スレッド上議論だけでなく、双方からの寄稿、フィジカルな討論会まで催し、そのフォローアップなど、かなり激しくやり合っていた。これ日本の話である。

僕はそれを読んでいて、いたたまれなくなり、途中で止めたし、たぶんまた見つけても読まないと思うけど、激しかった。

そもそも、そのスレッドは、科学系からアプローチした哲学的な謎を議論する場(たとえばクオリア論争とか)みたいなところだったのだが、そこにどっかの理科系の大学の准教授かなんかの、まだ若い科学者がやって来て(スレッド主が呼んだらしい)、それはもう、ガチな科学をもってして哲学を正面切って攻撃したのである。

彼いわく、哲学の議論はあいまいで、定義もあいまいではっきりせず、しかもそのあいまいな定義を自分勝手な推論で大きくして理論を作るのはいいけれど、何一つその後に検証しない。そのせいで、その結論が正しいか正しくないかまったく判定もされていない。なぜ科学のように、明快に定義された前提と、その推論と応用、そして実証を経て論理を補強する、という正しい道を哲学は取らないのか。科学界では歴史的に何百年もそれを繰り返し、今や科学的学説の信頼度は最高度まで上がっているのに、哲学は、いつまでも個々の哲学者が勝手な前提と定義で勝手に説を為して実証もせず正しさを保証しようともしない。そのようなものは無意味とまでは言わずとも、少なくとも信用するには値しない、うんぬん

と、まあ、こうやったわけである。科学者というのは、それまでわりと哲学者に負い目があったりして、科学者は科学の世界で地道にやりますよ、っていう科学者が多かったのだが、その積年の恨みが彼に至って爆発したかのように、哲学を完膚なきまで全否定したのである。さらにたまに哲学者は、科学者は世界について何も分かってない、とか言って小バカにするような発言をすることもあり、腹に据えかねたのであろうか。哲学のいい加減さをこれでもかと攻撃したのである。

科学者の彼いわく、いままでも哲学者たちに、その理論のあいまいさや前提を問い正したことがあったけれど、話をはぐらかすばかりで、一向にはっきりと答えようとしなかった。これは、要は、彼ら哲学者自身も、自分が何をしているか分かっていない、という証拠ではあるまいか。一方、科学者は何を問われても明快に回答することができる。もし、自らが間違っていれば、それを認め、自らの説を修正する謙虚さも持っており、それこそが科学をここまで信頼できるものに育てたわけである。哲学者はなぜそういう知的誠実さを持ち合わせないのか

とこういうわけである。それで、スレッド上ではらちが明かず、実際に、その科学者の彼と、哲学者二名だかが討論会の場に出てきて、討論をしたそうだ。もちろん、科学者は一歩も譲らず臨戦態勢だったわけだが、哲学者二人はどうも煮え切らず、やはり科学者の正面切った反論にはきちんと答えられず、話をはぐらかしたらしい。

その科学者の彼は、この世界は遠い将来科学によってすべて解明されるはずだ、ということを自分は信じている、と何度も書いていた。

こうなると哲学者は、だいぶ分が悪い。そう言い切ってしまう科学者に論理で勝つのは、僕が思うに、論理的に不可能であろう。なので、討論会で哲学者が話をはぐらかしてしまった、その気持ちが自分にはよく分かる。

昔は、科学者は、目の前の現実だけ見て理屈で分かることばかり言うが、哲学者は難解で高尚なことを言う、というふうで、科学は青年、哲学は大人、みたいな感じがあったが、いまや、これはまったく通用せず、いまでは、科学は青年から立派な大人になり、堂々と世界の仕組みを科学で語り、勝ち誇っている。一方、哲学は大人から老人(?)になってしまい、哲学はもう、人間の心をケアする心療内科みたいな役割に変わりつつあるのではないか。

心療内科なんて変なことを言うが、自分が哲学の歴史の進行を見ていて思うに、ものすごく大雑把とはいえ、まずそれは存在論から始まり、近代に認識論に移り、現代で実践論へ移っているようで、この実践論のところになると、下手をすると言っていることが、臨床心理学とかその辺に近くなったり、心理学でなくとも、人間はいかに行動すべきか、とかになってきて、そうなると政治も経済も入ってきてしまう感がある。

昔の存在論や認識論のころの「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物の哲学者」はもう時代遅れ、という風に思えて来る。そのせいで、もう、哲学は「世界を成立させている本質とは何か」とか「人間はいかに世界を認識するか」とかの問題追及より、人に行動指針を与えて人の心をケアする学問に移っちゃうのかな、と思えたりもするのである。たとえば、ちょっと前に話題になったた哲学者のサンデル教授の「これからの正義の話をしよう」 とかそう思えないだろうか。

ところで、「浮世離れした難しい分からんこと言ってる堅物」は昔の科学者もそうであった。哲学が心のケアに走ったとすると、現代の科学はどうだろう?

現代社会は、すでに、科学にほぼ完全に支配されているので、科学者は、僕らの生活面での指針を与えてくれる頼れる知者、ということになっている、と僕には見えている。たとえば日本だと、みんな山中先生の言うことなら信用する、みたいな感じ。科学にはその方法論に「謙虚」が含まれているので、みな余計に信用するのかな、と思う。

でも、実際には、その「謙虚」は科学的方法論における謙虚であって、決して「倫理」では無いのだが、みな、容易にその謙虚を倫理と取り違えているように、これまた僕には見える。要は「謙虚な人はいい人で、自分より他人のことを思える人だから、その人の言うことなら私たち全員にとっていいに決まってるよね」ということである。でもこれは、科学という方法の謙虚、という意味だと、ぜんぜん間違っている。だって、もし、上述の通りだったら、科学者は原爆作ったり、人体実験したり、結果見たさに遺伝子操作したり、しないはずである。

科学的方法の謙虚を身につけた科学者たちが、科学の進歩のために、倫理を無視してそれらを進めるのではないか。で、案の定、結果は死屍累々になるのだが、それは人類の進歩のためには犠牲が必要、という大義名分で正当化される。現に、そういう多大な犠牲を払ったうえで、この超快適な現代文明社会になったのだから(もちろん、これは平均的に、である。世界の生活レベルの平均値が上がった、という意味である) 

そういう意味で科学は政治ときわめて親和性が高い。やり方が一緒である。犠牲を払って進歩。人を殺して戦争に勝って発展。

長くなったが、最初に戻ると、とにかく、勝ち誇った科学者は、完全に手に負えず、オレなら、たぶん、逃げる。科学 vs 哲学の討論会に出て来た哲学者、えらいなあ、って思った。

DX

なんかオレらしくない話だけど、DXの話。ていうか、そこらじゅうでDX、DXってうるさいぐらい。なんだろ、って思ったら、Digital Transformationの略だそうだ。で、なんで書いてるかというと、これを提案したのがスウェーデン人の学者と聞いたから。

で、その彼が「進化したデジタル技術を浸透させることで人々の生活をより良いものへと変革すること」という、いつも引用される文句を提唱したそうだ。

うーむ。怪しい。なんでそんなこと言うかというと

デジタル技術を浸透させる「と」人々の生活が良くなる、という文になっているから。人々の生活が良くなる「ような」デジタル技術を開発し浸透させる、では無いということ。それが怪しい。

それに、DXは「Digital Transformation」であって、デジタルはいいとして、transformationというのはいい日本語が無いけど、それは「変容」であって「変身」であって、なにかをデジタル化するなんていう生易しいものではなく、transform(変換)するわけよ。まるごと、とにかく変えちゃうの。生活が良くなろうが悪くなろうが、丸ごとぜんぶデジタルに変換しちゃう、ってこと。

これねえ、スウェーデンに10年仕事生活してると、分かるんだよ。スウェーデンのやり方はそういうやり方なの。まずはじめに、後先をほとんど考えずに丸ごと変換してしまうの。で、見切り発車しちゃうの。そうすると大混乱が起きるでしょ。その大混乱を、人々の社会や政府への信頼感の大きさを利用して、みなにしばし耐えてもらって、うまく行かないところをこれまた見切りで、どんどん改良改造して行くの。で、しばらくたつと、多くの不満はあるものの、みな「ああ、あのときは大変だったなあ」で済んで、忘れちゃって、後々まで恨まない。で、あるとき社会を見てみると、見事に丸ごと変換が済んでて、人々もその新しい社会の上で快適に暮らしてんの。

以上のプロセスがネイチャーで浸透している人々だから、上で述べたようなDXを呑気に宣言して平気なのよ。というか、このDXはスウェーデンそのもの。これぞスウェーデン、お見事。といいたくなる。

同僚のSteven先生は、スウェーデンではなぜそれができるかというと、スウェーデンには長くて深い伝統文化があまり無くて、そのせいで障害がなく、それでできるんだよ、って言ってた(オレが言ったんじゃなくてStevenだからね、それ言ったの。スウェーデンに世界的な古典芸術家いる? いないでしょ、だって)

というわけで、長い長い伝統を持つ日本でこのDXをすると、まー、大混乱が大混乱のままになるだろうね。まあ、僕は日本で荒療治でそれをやっちゃうのには、むしろ賛成だけどね。でも、上述の通りなんで、覚悟しといた方がいい。

気分と現実

ネットを見てたら、三井物産のなんとかいうエラい人が、これからは新資本主義の時代、人材流動化で成長を促せ、とインタビューでガンガン言いまくっている。写真を見ると、まあ、恰幅が良くて、貫禄があって、堂々としたいかにも企業のトップという感じのおっさんである。

以前も経営者トップの座談会で、なみいるトップが、雇用流動化すればうまくいく、日本はそれが無いから成長しないんだ、と発言していて、その無責任さに呆れ果てたけど、トップの気分と現場の気分の、この果てしない乖離がいわゆる今いわれている「格差」なんだろうな。両者で「気分」が正反対を向いている。

この記事を見て真っ先に思ったのは、なんといってもこの人物の血色の良さだ。それがすべてを物語って見える。つまり気分がぜんぜん違う。彼の口から出る言葉や論理はすべてその血色のいい気分から出ていて、それで、気分だけでなく現実にうまくも行き、彼の現実が回っている。

オレ、この格差というのは結局のところ心の問題だと思っているよ。アメリカとかだと心というより現状問題に思えるけど、この日本ではこれは心の問題じゃなかろうか。そんなことを言うと、本当の貧困層は怒ると思うし、あまり頻繁には言わないが、オレはそう思っているよ。

たぶん、自分は、基本、気分が現実を作っていると考えているせいではある。もちろん、気分が現実を作ると同時に、現実が気分を作るわけで、両者は切り離せない。この人だって、経営トップとして采配ふるって、まわりから必要な人と思われ、食べて飲んで笑って裕福な生活を送る現実があるから、こういう血色のいい気分になるわけだ。で、その逆の貧困層の怒りやらひがみやらも同じようにその彼らの現実から出てくる気分なわけだ。

だから気分と現実は切り離せないものの、オレの考えでは、時代によって、そして国によって、どちらが支配的になるか、どちらを先に考えるべきか、というのは確実にあるし、それはすごく長いスパンでくるっと変わったりもすると思う。自分は、20世紀は現実が、21世紀は気分が支配的、と思っている。特にいまの日本は気分が大きい気がする。

今回のコロナで、全員マスクの国境鎖国みたいな風潮を見ると、オレはその日本を覆っている気分を感じるんであって、マスクや鎖国がはたして感染症防止にいいか悪いか、なんていう問題は知らん。この問題は科学的にも、良いと悪いが半々出そろうようなタイプの問題で、ということはすでに科学の扱う問題の域を超えてしまっている。なので、科学系の論争は続けるのはいいけど、そもそも自分は興味がない。

それより、このまえ帰国して、上述、気分と現実における、日本人の気分の問題が可視化されているように感じて、マスクに反発したんだよ。あまり理解してくれなかったけどね。

日本は特にみなの気分で現実が動くスピリチュアル系の国なんで(たぶん孤島が長いから)、現実をあれこれ場当たりにいじるんじゃなくて、みなの気分を大切にした方がいいと思う。特に21世紀に入ってそれが支配的な気がする。

じゃ、どうするか、っていうと、めいめいが行動して気分を上げるんですね。月並みな結論だけど、そういうことになる。「現実」はトップダウンで政治で変えられるでしょう? でも「気分」はトップダウンでは決して動きません。だからボトムアップしか方法が無い。だからめいめいの問題なの。

トップダウンの「政治」に対応するのは、ボトムアップでは「芸術」です。だから芸術を大切にするべき。そういうの、今のトップは冒頭の座談会を見る限りほとんど理解してない。そのせいで今のトップには教養が不足してるって言うわけだ。でも、その状態はかなりしばらく続くだろうから、あとはめいめいが何とかするんですね。

あと最後にいいたいのは、この血色のいいおっさんの言うこと、真に受けないこと。これは彼の気分が言ってるだけ。

あともう一つ、このおっさん発言を受けた2chまとめサイトとかで、今度は逆陣営の不幸層がこの発言を味噌糞に言ってるけど、それも、真に受けないこと。それもやつらのうじゃうじゃな気分が言ってるだけ。

なので、あなたはどうするんですか、に尽きると思うよ。

戦争

いまさらだけど戦争ってのは怖いね。直接の殺し合いはもちろんだが、直接関与していないところでも人と人の分断と戦いが起こる。

人間の本質が闘争と繁栄にあるというなら、そうなるのは当然のことなので、むしろ戦争が起こるのは健康的な状態で、戦わないといけないときは戦う、という人には一種のカタルシスにもなるだろう。でも、自分はそう思っていない人間なので、見るに耐えないことが多い。

ところが、実は、僕は元来かなりの闘争型の人間で、若いころはその闘争心剥き出しのころもあった。そんなものが歳で容易に消えるはずもなく、瞬間的に怒りが湧くことがある。

さっきも、そうなって、戦おうか(つまり関わろうか)と反応したが、思いとどまった。昭和ながらの、お前はそれでも男か、って声が聞こえてきたが、それでも止めた。騒乱は騒乱している人がいるから起こる、と思っているから、オレは騒乱しない側に立つことを選ぶんだが、闘争型人間としては、けっこう無理をしている。

まー、何を言ってるか分かんないよな、独り言だからな。ところで、実は本能に任せて戦いを選ぶ方がどんなにかいいかもしれない、とときどき思うのだが、ひとつ逸話がある。

もう30年ほども前だったと思うが、職場の人間たちで話しをしていて、戦争の話になった。その中で反戦な人間が一人いて、彼が議論に夢中になって、色めきだって、僕らはこうして安全なところにいて、戦争がどうのと話してるけど、じゃあ、自分が戦争の前線に行かないといけなくなったらどうなんだよ、ってひとりひとりに聞いていったのである。みんな、えー、それは、とかいって言葉を濁している中、一人、韓国から来た同僚がいて、彼が、自分は、二次大戦のようなシステマティックなのはいやだけど、昔の戦争のような戦いだったら、ロマンがあるし戦争に参加してみたい、と言ったのである。そしたら、それを聞いた反戦の彼は絶句して、まわりの人間も、えー、それ、本気なの? とか言って、なんとなくみなで笑って、議論が終わってしまった。

その彼の言葉を今も思い出すんだよなあ。実はオレももともとは彼と同じなんだ。では、なんでいまオレ、それと反対側の立場に無理して立ってるんだろう。

というところまでで、めんどくさいので考えるの止めた。

大麻

大麻すなわちマリファナは日本では違法である。ここ最近、アメリカのいくつかの州、カナダなど、世界ではマリファナを合法にするところが増えてきた。とはいえ、これは西洋圏での話で、一方、シンガポールなどいくつかのアジアの国では相変わらず厳罰が科せられていたりする。というわけで、やはりいまだにマリファナはおしなべて問題のある代物という扱いになっていることは分かる。酒やタバコはほぼ完全に合法なので、事情に大きな開きがある。

ここで僕が、この大麻の合法違法問題について主張したり論じたりする気はない。第一、社会問題として考察して、こうすべきだ、と主張すること自体が自分の性にも合わない。しかしネットをしばらく見ていると、けっこうな知名度な人が大麻を違法とする日本の法律に疑問を持った発言をしているようである。たとえば池田信夫は、大麻は合法にして規制すべきだ、と端的に発言していた。

日本は言論が自由な国のように見えて、実際にそうとはとうてい思えないのは、自分の心に照らし合わせると分かる。特にいわゆる日本のサラリーマンは、たとえばこの大麻の問題などについて自由な言論を公で行うことはほぼ不可能と言ってもいいかもしれない。サラリーマンには、暗黙の前提となっている社会の決まりに対して疑問を投げかけ議論をしようとすること自体が、暗黙に禁止されている、と言って過言でないように思う。理由はすこぶる単純で、そういう社会の異分子を自ら名乗ることで職のコースを外れるかもしれないという恐怖心を植えつけられているからだと思う。

ちなみに先の池田信夫はサラリーマンでないのでもちろんOKである。

しかしサラリーマンとはいえ、自分の家に帰ってくれば一人の人間に戻るわけだが、そうなったときに社会に対してラディカルなことを考えるだろうか。これはすこぶる疑問だ。人間はそうそう二つの顔を同時に持っていることはできないはずで、知らず知らず時間がたてば、結局は、社会が押し付ける暗黙の価値観を一個の人間としても肯定しはじめ、疑問を抱かなくなり、最後には飼い慣らされた国民に成り果ててしまうだろう。

ずいぶんひどいことを言っているようだが、自分もサラリーマンをずっとやっていたし、自分のこととして切実にそう感じるのである。加えて、飼い慣らされた国民になって人生を送ることにつき、そんなに悪いことは無い。いや、ぜんぜん無い、と言ってもいい。きっちりと国民としての義務を果たして生活しているのだから十分に社会の役に立っているわけで、その見返りとして生活の安定を得て、ときどき酒でも飲んで罪の無い愚痴を言う生活の、なにが悪いことがあろうか。

さて、脱線したが、大麻の話である。実は、先日、僕の古い知り合いに大麻のことを聞いたので、その話をしようというわけだ。ネットで大麻について調べても、大麻を吸うといったいどんな風になるのかについて、はっきり書かれておらず、掲示板などでおもしろおかしく嘘も交えて話されているだけで、本当のところが分からないのである。ということで、体験者の友人の言葉を紹介しようと言うわけだ。

その彼も今はまったくやっておらず、マリファナをやっていたのは期間にしてひと月ほど、さらに何十年も前の話である。彼いわく自分が経験した限りではマリファナに悪いところは何一つ見つからなかったとのこと。

それでは以下に紹介する。

「マリファナを特に考えなしに1万円で買った。ビニール袋に入ったタバコの葉っぱみたいな代物で、変哲ない。ただ、その匂いは独特で、マリファナを知っている人なら、すぐに必ず分かる臭いだよ。毎日はやらなかったけど、一日おきぐらいかな。昼間は仕事をしてるので、もちろんもっぱら夜の寝る前ぐらいにやってた。最初はたしかアルミホイルで小さなパイプのようなものを作って、それで先のところに、タバコをほぐした葉っぱとマリファナを混合して置いて火をつけるわけ。すーっと吸い込んで、そのまましばらく息を止めて十分に成分を取り入れてから吐き出すの。だいたい、そうだな、ティースプーンに半分ぐらいが一回分かな。吸っている時間はほんの5分か10分ぐらいだと思う。吸い始めてから1、2分で効きはじめて、結局、効いた状態から完全に覚めるのに1時間ぐらいという感じ。一時間ずっと吸ってるわけじゃないんだわ。5分ちょっと吸うだけで、そのまま飛んだ状態がかなりしばらく続く、っていう感じ。

で、1時間、飛んでぼんやりしているわけだけど、それが終わった後、もっと吸いたくなる、とかいうことはほとんど無い。一度にたくさんやっても効果はあまり変わらないし、1時間じゃ足りなくてもっともっと、たとえば一晩じゅう飛んでいたい、なんていう気は起こらないし、第一、吸い続けていてもそれは無理。だいたい1時間ていどで満足して、そのまま眠ってしまうことが多かったな。

さて、吸うとどうなるか、なんだけど、これは、それなりに人それぞれなのと、あと、吸っているマリファナの種類でずいぶん違うそうだ、ということは後から知った。俺がやったのは良品だったようで、いい経験だったんだろうね。

さて、葉っぱの種類によって効果が違うってのは、後に、オランダのマリファナショップの話を読んで知ったよ。まさに、ピンキリみたいだね。俺のが、どの種類だったかは知らないけど、一ヶ月ほどずいぶん楽しんで、リラックスさせてもらったよ。これから話す体験も俺が経験したことで、マリファナ一般ではない、というのは知っていていいかもしれない。

火をつけて吸い込んで、そうだな、2、3分すると何が起こるかというと、まず、耳に聞こえている音が変わってくる。マリファナは静かな室内でじっとして吸っていたんだけど、周りにある音が変な感じで聞こえるようになってくる。たとえば、左側の窓の外で木々の葉っぱが風で触れ合う音、斜め後ろの時計の音、右斜め前の扇風機の音、階下の住民がときどきたてるコツコツという音、隣の家がときどき水道を使う音、などなど、すべていつもなら気にも留めずにいる音があるだろ?

これらひとつひとつが生き生きと「音源」として、鳴り始めるの。自分がその中心にいて、そこからいろいろな方向に音源があって、それらが同時に音を奏でているように感じ始めるんだよ。音源の数がたとえば5つあったとして、意識がその5つすべてに均等に注意を向けることができるようになるわけ。きっとオーケストラの指揮者みたいな感じなんだろうね。

それで、それら偶然の産物である音源が、たまたまあるリズムを形作っている場合、それがたしかに音楽的なリズムを持った「楽曲」に聞こえることもあるよ。マリファナと音楽というのは特によく結び付けられることが多いけど、このせいだろうね。メロディーより、リズムだったな、俺が経験したのは。

この状態は非常に気持ちがよく、非常にリラックスしていて、まんじりともせずにそれらの音に囲まれてずっとじっとしていて飽きることがない。いや、飽きるというのは変だ、「飽きる」なんていう言葉自体がなくなってしまってるんだ。「行動するなにか目的」があって「それをやって」それで「次の目的に移る」という人間行動と、ぜんぜんまったく金輪際違う原理で存在している感じなんだ。「飽きる」とか「疲れる」とか「嬉しい」とかそういう人間的な反応と別次元にいて、静かに存在しているみたいな感じ。

とても表現しにくいけど、はたから見るとたぶん、単に呆然としているだけ、という風に映るだろうね。

以上のようにまず耳の感覚がおかしくなる。続いて、これは毎回起こるわけじゃないけど、たまに幻聴みたいなものが起こることもある。ただ、幻聴というより、実際にそこで鳴っている音がエフェクターを通って変な音に変化させられて聞こえる、と言った方がいい。この状態では、それぞれの音源の音量が、耳に入ってくる音圧で決まるのではなく、意識の度合いで変化するので、たまに意識がある音源に集中するとそのとたんに音が過激に変化したりする。

たとえば、隣の部屋で何か物音がしたとすると、それが、ものすごくはっきりした輪郭で、たとえば「クワッ!」とかいう妙な大きな音ですごくクリアに聞こえたりする。まるで音が視覚的な塊になってそこに出現したみたいなイメージがあわられる。それで、一瞬、なんだなんだ! と驚くんだけど、すぐにまたコンスタントな音のリズムに埋没してゆく。

以上、音の変化は一番先に現れるけど、そのあと、視覚の感じが変わってくる。ただ、この視覚の方はそれほど明確な変貌はせず、たとえばモノがグニャグニャ曲がるとか、そういう幻覚的なことは起こらない。それより、目の前にある変哲ないモノに意識がやけに集中してしまい離れなくなってしまうことがある。

たとえば、100円ライターの炎に見入ったまま、ずっと意識が炎から離れなくなったりする。ゆらゆらゆれる炎を見入っているだけですごい満足感に包まれる。あるいは、時計の針が回るのにずっと見入ったりする。

こんなこともあったよ。吸っている横にベッドがあったんだけど、そこに布団がぐちゃっとして置いてあったのね。それで、それが、どうしてもどうしても布団の中に人がいるように見えるわけ。そんなはずはないことを理性では分かってるんだけど、それがどうしても人に見えて目が離せられなくて、しかも、ときどきピクっと動くもんだから余計に人に見える。もっとも動いたのは錯覚だと思う。

以上が、マリファナをやり始めてしばらくの間続く状態なのだけど、マリファナの効能でひとつすごくはっきりしているのが「時間が延びる」ということ。感覚的に言って時間が5倍から10倍ぐらい長く感じられる。たった1分のできごとが10分ぐらい続いているように感じたりするんだよ。マリファナやってるときにも、いわゆる理性はなくならないので、ちゃんと時計も見れるし、時間も読める。それでときどき時間を見てびっくりするんだ。え? まだこれしかたってないの? と毎回驚くわけよ。

一度なんか、マリファナを吸った後、もよりの駅まで歩いて行ったことがあってね、そのときはすごかったね。駅まで歩いて10分ほどなはずなんだけど、意識の上ではたっぷり1時間はかかった。歩いても歩いても駅に着かないの。歩いている通りの周りで起こっていることにいちいち意識を向けているせいで、ただの商店街が「目くるめくワンダーランド」みたいに感じたりしてね。きっと、子供のころって、ちょうどそんな感じだったんだろうね。

以上、聴覚にしても視覚にしても、始まりもなければ終わりもない集中の中に、ただ、たんに意識が存在している、という、それだけの状態になるせいだと思うのだけど、「時間」というものが一時的に意味をなさなくなるんだろうね。

いや、「時間」というのは不思議な概念じゃないか。マリファナをやってわかるのが、「時間」はなくなりはしない。しかし、世間で言う時分秒で測られるところの「時間」がなくなってしまう、ということなんだ。常々思うけど、時間という概念には、そういう二重性があって僕らはみなこれを混同して生きていると思うんだ。

生物が元来持っている「時間」というのは、均一には決して流れないし、意識の度合いによって変化する代物なはずだろう。むしろ、時間というのは意識と同じと言ったっていいはずだ。意識の無いときには時間は無い、意識が集中したときに時間が表れる。「時間」は確実に「行動」と結びついていて、行動は意識と結びついている。時間が無ければ行動も意識もない。だから時間が錯覚だとは決して言わない。しかし、「均一に終末に向かって流れる時間」というのは現代人の錯覚だと思う。時計の針が「分」を指すようになったころから不幸が始まったのかもよ。

マリファナの体験で分かるのが、「時間」というのは実はとても優しくて親しい代物だっていうこと。「非情で容赦ない時間」という現代の発明物が、葉っぱの力で一時的になくなってしまうんだよ。

ミュージシャンにマリファナって、昔はつきものだったよね。今の世の中、特に日本ではまったく無理になっているけど、依然としてミュージシャンはマリファナで時々捕まってるよね。この音楽っていうのが、「優しくて親しい時間」を使った芸術なんだよね。コンスタントなリズムを使った音楽は現代に多いけど、「非情で容赦ない時間」は使ってないよ、均一な時間では音楽は作れないからね。

さて、ここでマリファナをやって聞いた音楽の話をしておこうか。なかなかすごい見ものだったんでね。

マイルス・デイビスの昔のアルバムに、モード奏法を完成させたと言われる「カインド・オブ・ブルー」ってのがあって、その一曲目にSo Whatという有名な曲があるじゃん。ミディアムテンポの長い曲で、コードの起承転結のない、ほとんどワンコードに近い曲だよね。これをね、マリファナ吸ったあと、ヘッドフォンをして、目をつぶって聞いたんだよ。

カインド・オブ・ブルーでは、マイルス・デイビスがトランペット、ジョン・コルトレーンがテナーサックス、キャノンボール・アダレイがアルトサックスを吹く。So Whatは、テーマの後、マイルスのトランペット、コルトレーンのテナー、キャノンボールのアルトと三人が順にソロを取るんだよ。

目をつぶってその3人のソロを聞いているときに現れた夢の中のようなイメージがすごくてさ、その話。

まず、マイルスのソロだけど、聞いている間じゅう、延々と伸びたガラスのチューブの中を高速で移動する乗り物に乗って、ジェットコースターのように移動するイリュージョンを見続けた。ガラスチューブの外には面発光体のようなものが貼り付けてあって、それらが後ろに向かってものすごい速度で飛び去ってゆく、そんな光景だった。

それが終わると、次はコルトレーンのソロ。こちらには今度は動くものは何も出てこなくて、静止した映像が1、2秒の間隔でフラッシュバックのように 次から次へと目の裏に浮かぶの。その映像が、なぜか、日本の五重塔などの寺院建築の屋根の下についている複雑に入り組んだ「裳階」のイメージと、 岩石が割れたときにできる複雑な断面のイメージの混合で、とにかく静止した複雑な形状のイリュージョンが連続してた。

この、二つのまったく異なるイリュージョンがそれぞれ延々と続いて、呆然としつつも自分の脳的には疲れきってしまった。どう考えても、どちらも異常極まり ない感じだったから。しかし、一見、ロングトーンが多く単純に言えばスピードの遅いフレーズを繰り出すマイルスが高速移動で、一方、超高速で繰り出される音のジェットコースターのようなコルトレーンが静止イメージだ、というのも面白いよね。

さて、そして最後にキャノンボールのソロになった。この人のときは、前の二人のときみたいな奇妙なイリュージョンはまったく現れず、「ああ、ようやく、ようやく、人間的で、血も涙もある暖かい人に出会えた・・」みたいな感謝の気持ちでいっぱいになった。最初の二人のマイルスとコルトレーンは、しかし、どう考えてもまともな人間とは思えない、ほとんど狂人に近い。そんな狂人たちの演奏で金縛りにあっていた自分を助けてくれて本当にありがとうキャノンボールさん、みたいな、そんな感じがしたんだよ。

本当に面白いイリュージョンだったよ。まさに、音楽の魂を見ているみたいな感じだったんだろうな、って思ったよ。

さて、まだいろいろ話はあるんだけど、これぐらいにしておこうか。

自分として言うとマリファナには悪いところはひとつもなかったな。結局のところ習慣性もないし、吸った後のダメージもない。習慣性とダメージで言えば「酒」の方が最悪にひどいよね、おそらく煙草も。マリファナは平和だよ。いまだに合法な酒と煙草と比較して、たった一点悪いところがあるといえば、それは「マリファナ吸いながら仕事ができない」ということかな。酒と煙草って面白いのが、両方とも仕事しながらOKなどころか、仕事を促進したりもするんだよね。マリファナはその点、まったくの逆を向いていて、やっている間は、勤労意欲は見事なほど完全に失われるね。

日本政府がマリファナに過度にうるさいのは、敗戦後のアメリカの影響とか聞いているけど、勤労というものから意識を開放されてしまうと政治が困るからなのかな、と思わないでもない。以前の日本は、マリファナつまり大麻は神社の祭事にはつきものな、伝統的な日本には無くてはならないものだったはずなのにね」

以上、友人の言葉を要約して紹介した。

彼を見ていると、まったくのノーマルな人間で、話を聞いていても面白そうだし、マリファナぐらいはいいんじゃないかと思えてくる。ただ、逆にマリファナ以外の麻薬は全部、ダメみたいだ。それだけは注意が必要ってことだろうね。

考えてみると、彼の言葉では、マリファナに比べるに「酒」と「煙草」を出していたけど、人間社会での同じようなアディクション(中毒)でいうと、なんと言っても「セックス」があるね。セックスも仕事しながらできないのでマリファナと同じ系列だね。それが証拠にマリファナと同じく国はあの手この手で制限して取り締まるしね。ただ、決定的にマリファナと違うのはセックスは子供を作るのに必須な生産的行為だ。そうなると、やはりマリファナはひとつだけ余計なもの、ということになるのだろうか。

さて、以上、世の中にはさまざまな中毒があるけど、そこには実際、目くるめく快楽や興味深い事実が待っていたりする。社会生活が無傷なまま中毒できる人は幸福な人、ということだろう。

ホームセンター

水曜日の昼過ぎ、一人暮らしをしているワンルームマンションを出て、ホームセンターへ足りないものを買いに行く。7月末の真夏の暑い日の中、国道沿いの、人がまばらにいる歩道を歩き、店へ向かう。

60歳を過ぎて、まるで25歳新卒サラリーマンの一人暮らしみたいなところに住みはじめて5日目ぐらいで、とはいえ借家ではなくAirbnbで借りた長期滞在マンションである。間取りは1K。いわゆるコンドミニアムみたいなものなので、ひと通りの日常品はそろっているが、ひと月以上住むには、たくさん足りないものがある。

入ってすぐ思ったが、オレはこれまで実にブルジョアな生活をしていた。ここに来る前は、スウェーデンの世界遺産の街にある庭付き一戸建ての大きな家に一人で余裕で住んでいた。自然の美しい、気候の過ごしやすい、抜群の場所である。あるいは日本に帰れば、世田谷区の一等地にたつ古いマンションの広い一室にいた。大きなリビングの一面がガラス窓で、外の緑が見える、そんなところである。

しかし、このAirbnbのマンションは1Kで外は国道なせいで窓を開けると騒音がうるさい。もっとも窓を開けたところで、目の前に貧乏くさい日本の家々が見えるだけで景観と呼べるようなものでもない。新築で、きれいなのだけがいいところ。エアコンを入れっぱなしにして、ワンルームに籠っていると、かなり、わびしい。なにかあったときも、生活レベルを極端に落とさない方がいい、ということはよく聞いたし、自分もそういうシチュエーションの他人にそうアドバイスしたこともあったっけ。それが、いまでは、自分がそうなっている。

まあ、それでも、だいぶいい方ではある。しかし、その中途半端感がまた独特のわびしさを喚起する。つまり、生活がクリーンに維持されているので、物理的な意味で生きる苦しみになることは決してなく、苦しまない分だけ余裕があるので、わびしくなる、というわけであろう。

炎天下を歩いてたまたま近くにあったホームセンターへ到着した。所狭しと商品が並んだ店で、いかにも日本的だが、店内に人はほとんどいない。それはそうだろう。ここは日本だ。平日の2時過ぎはみな職場で仕事をしている時間である。

グラスやマグカップ、コーヒードリッパーにザル、といったものをうろうろ探して回ったわけだが、たまに見える客は、オレと同じような年恰好のいかにもリタイヤして行くところのない爺さんとおっさんの中間ぐらいの歳かっこうである。なぜ、このぐらいの歳のおっさんの日常着ってのは、みな、白のポロシャツなんだろう。何度も洗濯したせいでゆるんで波波になってしまった裾をだらしなくズボンから出している。横から見ると腹も出ている。この独特なプロポーションは、かつての平安時代の絵巻物に出てくる中年男みたいな、あの、手足の肉が落ちておなかがぽこんと出ている、あの体型のさしずめ現代版といったところか。

オレとて、まあ、ひどいかっこうをしているわけで、オレはレジに力なく立っているそのおっさんを遠目で見ながら、まるで自分を外から見ているような気になっていた。

いかんいかん、やはり、わびしさが心からだいぶエネルギーを奪っているようだ。やっぱり国道沿いはまずかったかな、と思ったが、予約するのが面倒で放置しているうちに、このマンションぐらいしかリーズナブルなものが無くなってしまっていたのである。ひと月たったらここを出て、別のAirbnbへ移るが、そっちは商店街沿いで少しは居心地がいいかもしれない。しかし広さも設備も変わらないので、あいかわらず60過ぎのおっさんがワンルーム、という状況は変わらないのである。

レジの人もおっさんで、この人はおそらくこのお店の経営側の人だろう。髪の毛はあんまりなくて禿げてはいるが、背が高く、きびきびしており、おそらく50歳代であろう。商品をすべてレジに通すと、袋に入れますか、というので、自分はリュックに入れるからいいです、と答えたが、グラスを包んでくれもしないのか、まあ、いっか、と思ったら、これ、お包みしますね、とエアパッキンで包みはじめた。微妙に下手である。やはりレジ専の人ではなく、店長側なのであろう。

でも、なんだか、彼、疲れ果てているようにも見えた。これだけ客が少ないと経営も大変でストレスがひどいのであろう。今回買ったものも、実は百均で買えばぜんぶ100円で買えるようなものが500円とか、えらく高い。オレは、面倒なのでここですべて買ってしまったが、ふつうはこんな法外な値段のものはみな買わない。なので繁盛とはほど遠いのは、すぐに推察できる。

オレみたいなのや、よれよれポロのリタイアおっさんとかが、ぽつりぽつりと商品を買って、それでかろうじて持っているのであろうか。店長っぽいおっさんを別のおっさんが援けてるようなもんだ。などと思うが、もちろん、これはただの勝手な想像である。

オレはリュックに商品を詰めると、店を出た。広い国道には車がごうごうと音を立てて走り、日本の夏の日差しの中で、あたりがゆらゆら揺らめいている。ここは同じ広さの国道が立体交差する場所だ。ひどく錆の出た白い鉄の手すりがついた階段をのぼり、直交する上の国道に出る。用もなく周りにはすすきが生えている。上り切ると、ふたたびバカ広いだけの国道だ。この夏になると、殺伐として乾いた風情もなく、ただ、熱い空気がコンクリートの上に大量に停滞しているみたいな状態である。

オレはあいかわらず人のまばらな歩道を歩き、マンションへ向かい、いかにも無味乾燥な、電子施錠された鉄のドアを開錠して、押し開けた。

哲学の授業

たしか高校のときだったと思うけど、倫理社会かなんかで、一学期分だか西洋哲学の授業があった。先生のしゃべった内容はまったく覚えていないけど、授業はグループワークがメインで、4、5人のグループに分かれて、それぞれ、ギリシャ哲学とか、功利主義とか、実存主義とかなんとか割り当てられて、そのメンバーがそのカテゴリーの中の代表的な哲学者を担当して、それを最後に模造紙かなんかにまとめて発表、それから各自レポート提出、ってことになっていた。

僕のグループは実存主義で、僕はサルトルの担当だった。そのグループにいたオオヤマってやつはニーチェ、それからコイケってやつはヤスパースだった覚えがある。あとの人は忘れた。

で、そこでオレは初めて哲学というものに接したわけだが、それがたまたまサルトルだった、というのが面白い。高校の当時、自分は完全なる理科系人間で、科学の人だった。そういう自分にはサルトルの「実存は本質に先立つ」みたいな論理はよく理解できたので、彼の言葉にすごく魅せられた覚えがある。しかしもちろん、その論理の向こうにある実存の苦々しさや悩みなど微塵も分かっていない理科系小僧である。

というわけで、サルトルが気に入った僕は一生懸命レポートを書いて発表して、我ながらうまくできたように思って内心自信があった。ところがグループ発表になって、先生が特別に褒めたのはオレではなく、たしかオオヤマのニーチェの方だった。他のグループでも先生は感心したレポートにいくつも触れたけど、僕のはスルー、そして提出したレポートの点数も良くなかった。

とまあ、軽い失望だったわけだ。でも、いま思うと、これは当然のことで、理科系小僧のオレは哲学の背後に人間がいることを理解しておらず、まるで数学の公式か、物理の法則みたいに、その当の哲学を扱っていたわけだ。点数がいいわけがない。

一方、褒められたオオヤマだが、その授業のあとみなで話してて、彼、たしかこんな風に言った。

「あの哲学ってやつね、オレは哲学なんかホントにくだらないと思ってるよ。哲学なんていうのはあれはただの人間のエゴの記録だよ。この世で信じられるのは母の愛で、哲学なんかじゃない」

いま思うと同じ年とは思えないほど、ヤツ、ませてたな。が、ところが思い出したからいうが、ヤツね、かなりひどい道楽者のデザイナーの親父と、その家庭にものすごく尽くす献身的な母親との間の一人っ子で、頭脳明晰で小さいころから神童って言われてた。で、つまり彼の哲学観は、彼の家庭環境をきれいに反映してたわけだ。

で、後年、オレも哲学体系というものには背後に、あるいは前面に、「人間」がいる、ということがわかるようになったわけだが、それはだいぶ遅れてやってきた。おそらく40過ぎだと思う。

かの十代の理科系小僧がなぜそれを脱出したかというと、それは大学になって、ドストエフスキー、ブルース、ゴッホ、そしてなにより実生活での激しいごたごたを経た挙句であった。それらを経てようやく自分は、哲学も、形而上も、文学も、芸術も、宗教も、ぜんぶまとめて「実感」できるようになったのであって、まあ、遅咲きにもほどがある、ってなもんだ。

思うに哲学というのはいったん実感できてしまうと、それほど厄介なものじゃない。あとは単に複雑なだけ。そういう意味では数学と一緒かもしれない。そりゃそうだよな、数学も哲学も起源は同じだからね。ただ、数学は基本的に一つの真実というのを人為的に作り出しているけど、哲学にはそれは無く、「自分にとっての」真実を作り出すところが、異なっている。哲学者とは、自分にとっての真実が世界にとっての真実であって欲しいと強烈に願う人のことで、そこは芸術家と同じである。

ということは、やはりオオヤマがかつて言ったように、哲学はエゴなのである。こういうことをオレは63歳になって言っているが、オオヤマは18歳でそう言ったわけだ。あいつ、大学に行ったら、道楽者の父親遺伝子が全開になり、ひたすら女遊びしてたが、さっさと就職して、社会で仕事始めたら、とっとと世俗の垢にまみれた糞オヤジになってた。が、しかし、その後の消息は不明。道楽者の糞オヤジの彼も、その心に若々しいものを維持していたのかもしれないし、今もそうかもしれないし、ただのクソかもしれないし、とっくに死んでるかもしれない。

ヤツ、どうしてるんだろうね。ちなみにヤスパース担当のコイケはいまだ腐れ縁の呑み友達だが、こんど帰ったら以上の思い出話でも振ってみるわ。

窓際

昔のサラリーマンの窓際族は、まだまだ緩かったから、のほほんとしてて、それなりに悠々感があったよね。僕も三十年ぐらい前にオフィスにいるそういう人を何人も見たけど、パソコンの前で、いつも将棋ゲームやってたり、人差し指だけでキーボードをぽちぽち押しながら自分史書いてたり、のんびりとしたもんだった。

いまのブラックな大企業の現場でのリストラ予備軍は、デスクだけはかろうじて与えられるけど、パソコンなどコンピュータ無し、備品も無し、携帯も使用禁止、ってところで干されるんだ、ってどこかで聞いて、いたたまれなくなった。ひどいところはデスクもなく、何人かでたこ部屋に入れられて、9時から5時まで時間を潰すんだってね。

そんなことを聞いてしまうと、あるとき発狂して無差別殺人する人が出てもなんにも不思議じゃない気がしてしまうな。

昨晩に夢でねえ、そういう人をよくよく見たの。へんなさびれた路地にある古いビルの2階のオフィスの大部屋で、3人ぐらいの40代ぐらいの人が、仕事がまったくないまま出社してて、働いてる他の社員の中、ぽつぽつとデスクの前に座って、なんにもしてないの。なんにもすることがない人って、なにをしてるのかな、って、オレ、ずっと観察してた。

彼ら、机の前には座ってるけど、机に向かってはおらず、中途半端に横を向いていて、じっとしてるんだけど、なんだか少し困ったような表情をして、ときどき姿勢を変えているだけだった。並んでいる二人もいたんだけど、お互い向いてる方向が違ってて、もう、同じ境遇が長すぎて、雑談をするネタも尽きた、って風をしていた。

実はその夢、そのオフィスにやって来たこのオレも、することが無いの。そこの社員じゃなくて自分は派遣されてきて、知ってる人が一人しかいなくて、自分もなんの目的でここに来たか分からないの。だから、オレもその仕事干された人とあまり変わらず、それでもまだなんとなく仕事してるフリをしていて、そこの社員の人に愛想笑いしたりあいづち打ったりはしているけど、身の置きどころが無いの。

実は、そういう夢を自分は定期的に見る。自分がまわりにまったく必要とされていない人になる夢。人知れず自分も恐れているんだろうね。そして、そういう人がこの社会にいったいどれだけの数いるだろうって思う。おそらく膨大な数じゃなかろうか。そんな中、宗教にすがる人の気持ちもわかるってもんだ。

ところで、その夢の最後は、全社員あげての部屋の模様替えで、最後に作業が終わったら、全員が部屋の片側に立ってその出来栄えを無言でながめている光景だったのだけど、それは、オフィスの中にきれいにできあがった巨大な仏壇だった。

高級蕎麦店にて

昨日の立ち食いソバから一転して今日のお昼は高級蕎麦店。

広々としたテーブルに通され注文したおかめ蕎麦を待ってると、隣はカップルでおそらく40過ぎの人たちで、二人ともなんとなく意識高い系。男性が落ち着いたトーンで、立て板に水のように、よどみなく話して、女性がときどき賢そうな相づちや質問を入れる。さすが、こういう人たちは高級蕎麦なんだなあ、って感心して聞いてた。

で、注文の品がやって来た。ふたりとも同じ天ざるだった。

オレのおかめも来てたんで食べてたら、その隣の席から蕎麦をすする音がするのだが、これがまたとてつもなく大きな音で、オレが卓にいたらVU計振り切りの+4dBでフェーダー落としてたとこだわ。

店内に響き渡る蕎麦をすする音。

それにしても、日本人であれば蕎麦はもちろんすするもので、ただ、どれぐらいの音量ですするかはなかなか個性が出るところだよね。かの意識高い彼は、きっと日本の伝統の技として蕎麦は最大音量ですするものだ、という一種の信念に基づいていたに違いない(と言いたくなるほど、ホント、音がでかかったの)

で、露骨に見るのも何なんでおかめ食いながら、チラ見して耳を澄ましてたら、おかしい。相方の女性はぜんぜん音を立ててない。明らかに-22dB以下である。これもよくあるよね。まるでスパゲッティを食べるときのように細心の注意で無音で蕎麦を食べる女性。

なるほどなー、って聞いてたら、食事が半分過ぎたころに、女性の方が蕎麦をすする音をたてはじめた。とはいえ男性の方の大音量には遠く及ばず、申し訳なさそうに-12dBぐらいですすっている。ただ、これ、オレのすする音とほぼ同じ音量でふつうとも言う。

たぶんだけど、女性の方、男性のすする音のあまりの大音量にびっくりして、でも、相手の気を悪くさせないように、あるいは、自分が日本人のくせに音を立てないことを相手に見られて内心バカにされないように、という配慮からか、わざと音を立てたんだろうな、って想像した。たぶん、いい人だと思う。

とまあ、そういうわけで、高級蕎麦屋でも人間観察はおもしろい、という話でした。

立ち食いソバ屋のヘンな人

このまえ大井町の立ち食いソバ屋に入ったときのこと。そこは立ち食いと言っても座れる席があって、仕切り板でセパレートされてる。

まず、隣にあんちゃんが座った。そしたら彼、カバンから小さなスプレー缶とウェットティッシュを取り出して、テーブル、壁、仕切り板にスプレーしてティッシュできれいに拭き取る作業を始めた。それ見て、へえ、って思って、彼の番号が呼ばれて立ってトレイを受け取りに行くとき見たら、かなりオタク系のルックスで、でも、ジャケットもズボンも靴も新品っぽく、髪の毛もきれいに刈り込んで、えらく清潔で、やっぱり元々がキレイ好きなんだね。

そうこうしたら、別の背の高いオレと同じぐらいの歳のおっさんが入ってきて、カウンターで食券を渡すときに「ソバ大盛りのネギ抜き、汁抜きでお願いします」と言った。店の人「汁抜き、、、ですか?」と怪訝そうに聞き返すと、おっさん「はい、汁抜きでお願いします。大丈夫ですから」と言った。店の人、奥の調理に、汁抜きで、って言ったら、調理の人、汁抜き? みたいに怪訝。さらに周りの客も聞いてたので「汁抜きのソバっていったいどんなのだ?」みたいに話題にしてる。

で、汁抜きソバができて、トレイを受け取りに立ったおっさんに、店の人「大盛ソバ葱抜きで汁抜きです!」ってトレイを渡し、「おつゆ必要でしたらいつでも言ってくださいね、かけますから」と言った。おっさん「はい、大丈夫ですから」と言って、オレの前のちょっと離れたところに座った。

これはオレが予想した通りだったんだけど、おっさんカバンから小さな水筒を出して、蓋を開けると、黒い液体をソバにかけている。やはり汁持参であったか。

それにしても、そのへんの人々って、かばんの中に、スプレーやウェットティッシュやソバのかけ汁や、実に、いろんなものを忍ばせてるんだなあ。

やはり立ち食いソバ屋の人間観察って、おもしろいなあ、って思った。

管理されなかったころのこと

そういや去年、時効の話してて、そのうち書きますよ、って書いてないことがあった。

さっき、友人のHさんとしゃべってて、2000年あたりから日本の企業で急に管理が厳しくなり、ルーズなこと一切できなくなって、それで衰退していった、みたいな話してて、そういう締め付け管理衰退モードの中でも大企業で出世してゆくやつは、だいたい時流にうまく乗るだけであんまり感心するやつがいない。だいたいそういう輩って、イノベーションがどうのとかぬけぬけ言うけど、そういうのにロクな奴いない、みたいな話してた。

こうやって書いてるとなんかわりと負け犬感が漂ってて、でも、この日本では負け犬こそまともな人間なのだ、と言い張ることもできて、えーと、ま、それはどうでもいい。

という話をしてて、そっか、この話を書かないと、と思ったわけです。

とはいえ、やはりだいぶヤバい話なんで、とっくに時効とはいえ、いちおう伏せときましょう。しかし、おそらくだけど、みな、外に向けて言わないだけで多くの人が同じような経験をしてるんじゃないかと予想します。

なにかっていうと、過去の自分の会社での予算の使い方です。オレ、25年以上前、TVML (TV program Making Language)という発明をして一世を風靡したことがある。いまでいえばイノベーションそのものであった(でも、オレのその後のやり方悪く、花開きませんでした)

で、あれがなんで生まれたかって言うと、自分がいい加減な人間で、当時悪い事もしたからなんです。で、その話である。

というのは、そのTVMLを発明する前年まで僕はバーチャルスタジオという技術の研究開発をしていて、そこそこに成果が上がっていた。それで、毎年、あの手この手でアップデートして研究を続けていた。

技術っていうのは、一回それが回り始めると、それをあの手この手でいくらでも改良することが出来、かなりの年数持つものなのである。ということでオレも、毎年改良版を提案し、計画書を書き、予算をゲットしていた。

ところが、その25年前時点で、すでにバーチャルスタジオの研究開発を10年もやっていて、自分はもう完全に飽き飽きしていたのである。でも、自動的に改良を思い付くんで、惰性で続けてた。

で、25年前、その研究を止める最終年度、オレはまたまたありきたりな改良版を提案し、書類を書き、うん百万円ほどゲットした(もっとかも) 予算をゲットしたからには使わないといけない。ってことで、めんどくせーな、と思ったけどごく適当な仕様書を書いて、どこぞのソフト業者に発注した。でも、本人やる気なし。

いい加減な打ち合わせを一、二回して丸投げして、数カ月後に納品になったが、いい加減な検収をして業者の説明を聞き流し、ソフトを収めたDATテープを受け取った。で、なんと、オレ、そのソフトを開きもせず放置した。結局、そのテープはそのままゴミ箱へ行ったはずだ。カネをどぶに捨てるとはこのことだ。

じゃあ、その間、オレが何をしていたかと言うと、実験室にある最近買ったMacintosh IIsiにSculpt 3DというCGソフトを入れて、来る日も来る日もCGを作って遊んでいたのである。

まず、ソフトで楕円形の卵を作って、それに球を二つ付けて目にして、横に伸ばした赤い楕円でタラコみたいにしたのを2本で口にして、なんか顔になったんで、楕円のてっぺんの頂点をびよーんと伸ばして角にした。これがかの有名なボブである(笑

身体もぜんぶ楕円の延長で作って、さて、オレはそれをスクリーン上で歩かせることに夢中になる。しばらくしてサイン・コサインで歩いた。次はこいつをしゃべらせたいと思い、口に切れ目を入れて顎を作ってパクパクするようにした。

となりで研究してる言語処理グループが、たまたま購入したDecTalkという深緑色の箱が英語をしゃべる、ってんで、そのグループのキムさんっていうヤツにDecTalk貸して、って言って借りた。キムさんはキムさんでぜんぜん働く気の無いいい加減なヤツで、DecTalkを予算で買ったものの使わずに放置されていたのである(キムさんとオレは今も親友。やつその後Samsungで出世)

そのDecTalkに英語しゃべらせて、その音声信号でリップシンクするように苦心してソフトを組んで、果たして、ボブが口パクして英語をしゃべって、歩けるようになった。当時、オレ、Cheech & ChongとBeavis & Butt-Headが大好きだったんで、ボブに

Let’s go break something. That would be cool.

とか歩きながらしゃべらせて遊んでた。そうこうしているうちに台本駆動を思い付き、それがTVMLになったのである。

ちょっと思い出話が長くなったが(爺なもんで、すいません)、このTVMLは25年前なので極めて斬新で、驚きを持って受け入れられたが、これができたのも、オレが超不真面目で、バーチャルスタジオの研究がイヤでたまらず、最後の1年間、うん百万円を完全にどぶに捨てて遊んでいても、それでも研究所が、僕のような不良を野放しにしたことで生まれたのである。

みなさまのお金をこのように無駄にしたのは、たしかにオレが悪い。でも、そのおかげで一つのまた別の新しいものが生まれたのも事実なのである。

もし、オレがクソ真面目なエンジニアで、費用対効果に常に気を付けながら、金を使って開発した以上はきちんとこれを成果として残さねばならないし、次年度へ続け、中長期計画に沿って展開せねばならない、などと考えて仕事をする輩だったら、あのTVMLは絶対に生まれなかった。

要は、20世紀の終わりごろは、まだルーズな時代で、研究者の管理はきわめて不徹底だった。したがって予算も研究者本人の裁量にほとんど任されており、外部チェックは入らなかった。オレのような不真面目なやつが、不真面目なことをしても闇から闇へである。

もちろんコンプライアンス的にそれはNGである。しかし、そのルーズさ、ゆるさ、金銭の裁量の一元化によって、たくさんのダイナミズムが生まれ、それが日本の本当の意味でのイノベーションを引っ張っていた、という側面は確実にあると思う。その遺物が、日本人のノーベル賞の多さに現れているのである。

今後、そういうことは無くなるんじゃないか、と危機的に語られるのをここそこで目にするが、オレも自分の経験に照らし合わせて、その通りだめになると思っている。

しかし、日本組織は、おそらくもう元に戻ることは不可能だと思う。イノベーションっていう単語だけ発するやつらが出世してエラくなって、それで終わると思う。

なので、日本はいったん完全に終わるか、あるいは、また完全に別な道を「個人のレベル」で模索するんですね。日本の大衆は、まだ個人のわがままを許すからね。

ブルースバンドのボーカルの昔話

Ain’t Nobody’s Businessの歌を練習してて思い出した。

オレがまだ20代後半のころ、JRBというブルースバンドをやってた。昔の日本ブルースバンドの典型で、かなり真面目に次々とブルースをカバーしてた。しかしなぜだか、そのバンド、しょっちゅうボーカリストだけが替わってた印象。いま思うと、やっぱりブルースとなると、歌がいちばんのネックなんだろうね。

あるときそこに、Kさんというボーカリストが入ってきた。最初はみな絶賛だった。ドスの利いた、ぶっきらぼうな歌い方するけどクールで、僕も気に入ってた。

それで当時のバンドはだいぶ真面目で、練習のあと、ライブのあとは、必ずきちんと反省会をやってた。昨今のオヤジバンドのように、打ち上げの飲酒だけが楽しみでバンドやってるのとえらい違いで、向上心そのものである。

で、とあるライブが終わって反省会になり、あれこれ問題点を指摘し合ったのだけど、そこで、ピアノのOさんがいかにも言いにくそうに、でも思い切って切り出したのが、ボーカルの英語の発音の問題だった。「やっぱり英語の歌をやる限りは避けて通れないし、きちんとした方がいいと思う」みたいに話し始めた。

若いオレ(オレ、最年少)、それを聞いてて、さすがに、えー、よくこの話題切り出すなあ、勇気あるなあ、と思って黙ってた。Oさん続けて、ライブの後半にやったAin’t Nobody’s Businessを例に出して、後半でLord, lord, lordってやるところあるでしょ、お友だちのイギリス人が来てたんだけど、彼がその部分で何を言ってるか分からなかった、って言ってたのよ、と言った。

そこはこのスローな曲を倍テンポにしてスウィングして盛り上げるところで、ボーカルは、たぶん、Lordy, lordy, lordyってシャウトしていて、日本語だとローディ、ローディ、ローディって連呼する。

しかしそのイギリス人も人が悪いと思うな。日本語で発音するローディはLordyじゃないけど、別にそれほど問題のある個所じゃない。まー、やつらにはLじゃなくてRに聞こえて、Rollyみたいだったんだろうけど、別にあそこでRollyって言ってもいいじゃん、って思うんだけど、まー、性格の悪い外人だったのかも(クソ 笑)

とまあ、そう、Oさんが言ったら、Kさん怒って「そいつイギリス人だろ? アメリカの黒人の発音の何が分かる!」とか言ったけど、それ、やはり負け惜しみだよね。Oさん、だから、この件、言いたくなかったのよ、と言ったものの、もう遅い。なんかさあ、当時の日本の英語の発音の問題は根が深くて、英語コンプレックスと対になってることが多く、大変だったよねえ。

しかしOさんも勇気ある発言だよな。僕はちょうどそのころ大阪転勤になり、バンドを脱退したんだけど、その後の顛末を後日ドラムのMさんから聞いた。あの反省会以降、KさんがOさんをいじめはじめ、大変だったんだって。

で、ある日のライブの後、いじめがあまりに目に余るまでになって、口論になって、店出たときKさん酔っ払って喧嘩腰になり、Mさんに突っかかったらしい。ところが、Mさんは元ヤクザまがいの不良で喧嘩がものすごく強い。Kさんがかかって来たとき、即、躊躇なしに顔にアッパーカット食らわせて、Kさんひるんで、もう一回かかってたらむちゃくちゃに殴り倒してやろうと思ってたけど、Kさん、これはかなわないと観念したらしく、捨てゼリフ吐いて夜の街へ消えて行ったらしい。それ以来、Kさんの消息不明。

いやー、昔のブルースバンドは熱かったなあ。って話。

誤訳

ロバート・ジョンソンの和訳は僕も出しているんだけど、かつてロバートの日本版のCDが出たとき、そこに対訳が載っていて、そこに誤訳がいくつかあった。中でも痛恨の誤訳が、They’re Red Hotというホーカムソングの中で繰り返し出てくるセリフの

Hot tamales and they red hot yes, she got ‘em for sale
(ホットなタマーレ 真っ赤で辛い それが彼女の売りもので)

で、この「熱いタマーレ」を「熱いトマト」にしてしまった。しかし対訳した三井さんもロバートの英語を自分でヒアリングしたんだろうか、すごい苦労。それはともかく、その誤訳を取り上げて当時の評論家の日暮さんが、タマーレはメキシコの大衆食で、当時貧しい黒人社会ではこのタマーレがよく食されていたのは常識で、そんなことすら知らずに、こともあろうかそれをトマトとして対訳を発表してしまうなんてのいうのは大変恥ずかしいことだ、とかとか味噌糞に書いてた。

読んでて、そんなに味噌糞に言わなくていいのに、って思ったけど、あの頃の黒人音楽関係の人たちって、そういう人、多かった。ちょっとしたことで大論争になって罵り合い。

それで思い出したけど、だいぶ昔、Mixiのコミュニティで、僕より年上の北海道在住のプロのギタリストとネット上で知り合いになって、楽しく会話していたのだけど、僕があるとき、たしか、Me And Bobby McGeeの和訳をネットに上げたことがあった。そしたら、その中に誤訳があった。

ちょっとどの言葉か忘れたけれど、アメリカのスラングに近いイディオムを僕が知らなくて、直訳してしまったのである。これ、非ネイティブによくあるミスなのだけど、そのギタリストの人はアメリカで生活したことがある人で、その誤訳を指摘した後、あなたのようにアメリカ語を知らずに和訳するのは大変恥ずかしいことで、日本人というのはこれだからいつまでたっても文化の正しい理解ができないんです、みたいに言われた。

僕は、ふつうにご指摘ありがとうございます、と書いて誤訳部分を修正したけど、それ以来、その人と完全に疎遠になってしまった。

オレさあ、その人の「恥ずかしい」っていう気持ち、よく分かるんだよね。今の時代では、もうそういう感覚はかなり薄れてると思うけど、それってはっきりと言ってしまうと欧米コンプレックスの裏返しなんだよね。しかもそれってコンプレックスなので、その英語の誤訳を文字で見ると、紙の上にその本人の一番恥ずかしい劣等感が晒されているように感じるんだろうと思う。それで、怒って感情的に攻撃してしまうんじゃないかなと思う。いまどきは欧米コンプレックスもだいぶ無くなったけど、昔はひどかった。

とまあ、この「コンプレックス」もほぼ誤訳なんだが(笑) 英語のComplexは複合心理で、日本語のコンプレックスは劣等感の意味になっちゃって、おかしい。しかし今はでも、もう、日本語でもコンプレックスなんて、言わないかな?

能面

たいしたことじゃないけど妙だったんで書いておく。京都滞在の最終日、京都国立博物館へ行った。改修中だとかで、特別展のみしか見られず、まあその展示は良かったので、いいのだけど、他が見れず、実はがっかり。

展示は畠山記念館コレクションというもので、能面、茶器、絵、日常品その他、さまざまな日本の物が展示されていた。で、館内は暗く、人も少なく、みなマスクしてるし、静かで沈んだ感じだった。僕はそれまで飲み続けで疲れていたのもあって、特段の感慨もなく、何も考えず順路通り歩いて、展示品をぼんやり見ていただけだった。

そうしたら、三つの能面が並べて展示してあるところにきた。最初にあったのが、「翁」の面で、解説を読むと、この翁というのは能の演劇で特別の意味を持たせるというよりは、民族的に古くからある天下泰平を祈るシンボルで各地域での礼拝の対象であった、などと書いてある。

それを読んで、なるほどな、と思い、次の面を見ると、これは「小面」で、おなじみのあの若い女の顔である。

そしてそれと並んでいたのが、あやかしの面であった。これは「怪士」と書いて、戦いに負けた武将の怨霊である、とある。

なぜだか分からないのだけど、この小面(こおもて)と怪子(あやかし)が並んだのを見て、突然、気持ちが怪しくなり、そのまま号泣に近い状態になった。幸い、マスクしていて外から分からないし、人も少ないし、誰にも気づかれなかったけど、しばらく止まらず参った。

おそらくだけど、この怪子は俺だ、と感じたらしいけど、もちろん定かではない。

その展示では、それ以外に心が動くようなものはなく、ただ、たとえば琳派の絵に素晴らしいのがあったり、ふつうに感心して見ただけだ。会場を出て、係員の人に、改修中で展示はこれだけです、と言われ失望して、それで館を出て、三十三間堂があまりに真ん前にあったんで、入り、なんの感慨もなく出て、飯食って、京都駅から新幹線に乗って名古屋で降りた。

友人と会うためだったが、その夜一緒に飲んでいて、僕に付いている守護霊の話になった。それは、頭の禿げた老齢の武士で、きちんとした装束で無表情でいるそうなのだ。昔からそう言われていたので、その時は、まだ同じ霊がいるのを確認した形だった。

それで、さっきの能面のことを思い出し、なんでいきなりあのような堰を切ったような感情に襲われるのだろう、と考えると、それはなにかの過去の関係性が、霊界でつながっている、とするととても納得がゆく。

若い女、堕ちた武将、老武士、それから太平の象徴の翁、といったいくつかのキャラクタが、どうやらどこかで何かを演じているらしく、そのあの世で演じられているドラマが、現世界に「僕」という人間を投影して、それで動かしているらしい。

遠い過去になにかがあったらしいが、それがなにかは分からない。以上、まったくのたわごとなのはわかっているけれど、そうとしか思えないことが起こるのだから仕方ない。

プロのコピーライター

オレね、今また、自分の発案のサービスをやろうとしてて、それにサービス名を付けようとしてるの。で、今回は、オレはネーミングの決定には一切かかわらないことに決めてるの。

オレ、一回、これについて大きな失敗をしてるんだよね。もう時効に近いんで言っちゃうけど、かつてプロのコピーライターに頼んで、サービス名を作ってもらったことがあって、彼が5つぐらいの案を持ってきたのね。で、彼、これは自信作ですよ、って言って、ハイ!って見せたのが

「打っテレ」

だったの(ダメですよ、これ使っちゃ 笑)オレ、そのときの責任者で、決定はオレに一任されており、それで、これを却下しちゃったの。あまりに日テレみたいなのと、あまりにおふざけなのと、あまりにただのダジャレに見えたせいなの。で、結局、オレが選んだのは

「Zibang」

だった。これは、おそらくコピーライターの彼も、まあ、予備ていどに入れといた名前だったと思うんだけど、それを選んでそれに決めちゃったの。

それで、その後サービスをローンチして、で、まあ、1年弱ぐらいで頓挫したわけだが、もちろんその名前のせいでダメだったとは思わないけど、いま現在の大人になった自分(笑)から見ると、打っテレってネーミングは最高だった。心底、打っテレにするべきであった。

それ以来、プロのコピーライターというのは、やはり、すごい、って思うようになった。まったくのところもったいないことをした。オレの転職後1年半での頓挫人生には、これに類する後悔が山ほどある。

で、だいぶ賢くは、なった。なので、今回は、オレは絶対にネーミングに関わらないって決めたの。

何もしていないとき

だいぶ前から、僕らって何もしないとき何してるんだろう、って思ってた。何もしないってのは意識が飛んでるときのこと。
 
うちから学校まで自転車で10分弱なんだけど、かなり長い坂を下りて行く。車もほとんど通らず快適なのだけど、坂を下っている5分間のうち、意識があるのって合計1分ぐらいな気がする。何回か意識的に、自分がどれぐらい意識的か意識してみたことがあるんだけど(言ってること訳わからんな 笑)、やっぱりせいぜい2分ぐらいだった。あとの時間は、何にも見てない。いや、眼には見えているけど何にも処理されてない。
 
もっとも脳科学的に言えば、その何もしてないときには、なんか脳が外界や内界の状況につき自動思考をしてる、ってことになるんだろう。でも、そうだとしても、自分にとって「なにかの変化」が起きない限り、視覚は戻って来ない。
 
なにかの変化というのは、坂下りなら、もうすぐ路地がある、とか車の音が後ろから聞こえたとか、そういう変化である。これらの変化が無いときは、自分には何にも起こっておらず、眼が開いているだけの状態になっている。
 
やっぱり、それは見てない、ということじゃないだろうか。
 
一度、自転車で坂降りてるとき、無意識状態をなるべく保って降りようと試みたけど、すぐ怖くなって、つまり「怖くなる」という変化が心に浮かんで、そのせいですぐに意識が働いて、眼が見えるようになってしまう。
 
でも、もし、これが自転車じゃなくて、坂道に沿ったモノレールの上に乗ってるなら、自分の中に、怖くなる、っていう変化が起こらないから、そのまま無意識で支障ないし、現に、多くの人は電車で居眠りしてる。
 
大森荘蔵が言ってたけど、私たちは、盲目の人は真っ暗な暗闇を生きていると想像しがちだが、それは間違いで、彼らは私たちが前を向いているとき後ろが見えないのと同じ意味で見えないのである、とのこと、なるほど、と思ったが、その坂を下る5分間のうち、3分間は、オレは盲目の人とまったく同じ状況になっているはずだ。
 
そんなことを考えて、こうやって部屋でぼんやりしてると、自分ってのはホントに細切れで生きてて、大半の時間は無意識で何にもしてない。
 
ところで、コロナのせいでずっと引き籠り。

エラい人

日本の政治家が異常なほど偉い、という話をしてたんだけど、これはホントのこと。僕がむかしNHKの研究所にいたとき、たまに政治家の先生が来ることがあったのだけど、はたで見ていて、完全に異様なほどの接待をしていた。その上下の距離たるや、果てしない。完全に将軍様で、そういう意味で、北朝鮮の将軍様の振舞いとなんら変わらない扱いだった。

もう20年ほど前のことだけれど、それを見てて、自分は、ああ、これは日本の政治家は一回やったら止められないだろうなあ、って思った。
 
で、自分のことだが、自分はこれまで、 人材的に偉い方向へ取り立てられることがあまりなかった人間だった。そういう器ではないというのもあるけれど、自らも「偉い身分」を避けて通ってきた、という面があった。しかし、過去に一度だけ、そういう機会があった。
 
それは、もう、先の政治家に比べると鼻クソみたいなものだが、学会の論文委員会の委員長だった。僕よりちょっとだけ年上の先輩で、このまえ早くして死んでしまった人なんだけど、その人が委員長だったとき、自分の後釜として、林君ならできる、と推薦されたのである。
 
で、委員長になり、最初の数か月はどう振舞っていいか右往左往で冷や汗ものだったのだけど、半年ほど経つと慣れてきた。そうしたら、人の上、それも一番上に立つ、っていうのは、こんなにも気持ちの良いものなのか、というのが実感できた。
 
委員会はたかだか20人ていどで、その委員の下にさらに下々のものが大勢いる、という構成だったけれど、その委員会で、一番いい席に座って、それで自分が、何かについて、極めていい加減なことを言っても、並み居る人々が、それを尊重して、斟酌して、忖度までしてくれる。こんな快感はそうそうあるもんじゃない、と、冗談抜きで思った。
 
覚えているが、いい加減な見解なのよ、僕の言ってることって。思い付きだったり、単に口からついて出てきたことだったり、誤魔化しだったり、自分は、自分が言ったことの底の浅さをまあまあ自覚している。それなのに、そのたわごとひとつで、みなが動いてくれるわけ。良きに計らってくれる、というか。
 
この経験はたった一年の任期で終わったけれど(二年だったかな?)自分的にはそれなりに貴重な体験だった。先も言ったように、日本で「偉い人」になるというのがどれほど、ほとんど麻薬なみに気持ちのいいものか、というのが分かったから。
 
僕はそれ以来、そういう立場についたことが無い。というか、ひととき、実はあったのだけど、その権利をまったく行使しなかった。そのせいで失敗したんだけどね、見事に。
 
結局、オレは政治家的なふるまいにはまったく向かなかった、というのが結論なのだけど、いまの日本の政治家がなぜ、あのように傲慢に振舞い、そして権力にすがり付くか、それは、そういう意味では理解できるんだ。
 
一種の麻薬だよ。というかある種の人性にとっては麻薬以上。

宇宙とロマンチシズム

この前、イケダ君が僕のこの覚書集を思い出させてくれて、100個作ってすべてに解題を付ける、という構想だったので、ヒマなときに続けようと思う。
 
http://hayashimasaki.net/oboe/index.html
 
で、この中の第30段に「太陽系に大巨人が現れて月をスコンとたたき出したら日食の予言は外れる」っていうのがあって、これには思い出がある。
 
むかしまだ若いころ、研究所にいたとき、そこで、週二回の夜、社食で酒が呑めるっていう企画をやってた。そこでオレも仕事後、よくビール飲んでた。あるとき、その中の先輩と宇宙の話になった。で、その先輩が
 
「この広大な宇宙の、果ての果てに星があって星雲があって、そういうものを今この地上にいる僕らがそれを知っているというのはすごいことだな」
 
みたいに言うので、当時はまだ若く、食えなかったオレは、いきなり
 
「それは、宇宙の単なる一つの見方に過ぎず、ただのロマンチシズムです」
 
と発言し、その先輩、怒ってえらく熱くなって、なにい? 林、お前そう思ってるのか、なんて奴だ、云々となって、しばらく論争になった。
 
で、その食堂呑みに、別の先輩(その先輩より先輩)がいて、その人はパワハラで有名な食えない人だったのだが(まだパワハラという言葉が無い頃だけど)、その人に、口論してる先輩が
 
「Xさん! 聞いてくださいよ。こいつ、科学が明らかにしたこの宇宙に広がる物質の世界をつかまえて、ロマンチシズムだ、って言うんですよ」
 
と言った。そしたら、その先輩の先輩が、予想に反して、うーん、としばらく考えたのち
 
「それは、林君の言う通りかもなあ」
 
と言ったのである。その先輩の先輩は、論理的に説明することに超うるさく、それがゆえに部下にパワハラしていたわけで、部下が論理的に正しく説明するまでは一切許さない人だったので、ガチガチの理屈屋だったと言っていい。
 
なんとその人が、物質科学は一種のロマンチシズムだ、というオレの暴論に賛成してしまったのである。
 
それを聞いた、当の先輩は、一瞬で閉口して、二の句が継げなくなってしまい、なんかぶつぶつと文句を言ったあと、黙ってしまった。
 
こんなことがあった若いころだけれど、その後、自分は、冒頭であげた覚書のように、宇宙のことが科学で分かるようになった、って言ったって、もし、たとえば突然、太陽系に大巨人が現れて月をスコンとたたき出せば日食予想などあっさり外れるじゃないか、と考えるようになった。

もし、あのときその先輩にそんなこと言ったら、お前オレをバカにしてんのかって余計怒っただろうな。でも、大巨人なんていうから荒唐無稽扱いされるけど、人類が核弾頭を月に打ち込んで軌道を変えれば、やっぱり日食予想は外れる。その月へ飛んで行く核爆弾を大巨人、と名付けても何の問題もなく思える。
 
そして、さらに年月が経って、最近では、物質科学信奉者を捕まえて、あなたのそれは宗教の一種で、あなたは科学教の信者だ。自分が信者だと気づいていないところが、よけいに科学教の信者だということを証明している、などと、だいぶ過激なことを言ったりする。

でも、考えてみると、自分の若いころの初心に戻って、あなたのそれは一種のロマンチシズムですね? と言った方が良さそうだね。そしたら、その人はロマンチスト、ということになり、なんか、いいじゃん。僕はロマンチストは大好き。

コンテンツやアートとアカデミア

ここしばらく科学者が科学を批判、あるいは告発することが、けっこう目に付くようになった。その真偽はめいめいが決めればいいことだけど、ここでちょっと害のあまりないことをひとつ。
 
僕の研究分野は、コンテンツ制作技術なのだけど、この分野はアカデミックな論文を通すのが難しい。たとえば、CGを使ってどんな魅力的な映像(コンテンツ)を作るか、ということをやっているわけだけど、その結果をそのまま論文に書いて投稿してもまず、リジェクト(返戻)される。というのは、コンテンツ制作は実は「アート」の一分野なのだが、ところが、その結果を「コンピュータ・サイエンス」など理科系の学会に投稿するからである。工学技術者の多くはふつうアート作品を評価できない。
 
ところが論文が通らないと研究者のステータスが上がらず、昇進できないし、それよりなにより今では多くを占める期限付き研究者にとっては死活問題で、論文が通らないと職を失って路頭に迷う。なので、まずは論文は通らないと困る。
 
で、どうするかというと、工学技術者でも評価できるようなおぜん立てを論文の中に入れて投稿する。それは何かというと、主観評価実験である。主観評価実験っていうのは、無作為に被験者を20人以上集めて、その人たちにコンテンツを見せて、たとえば5段階で評価してもらい、過去のコンテンツと比較して、自分のコンテンツの方がいい、ってやるわけだ。
 
20人の人間の感覚はまちまちだけれど、20人ぐらい集めればそこそこに平均化して、主観に基づく判断も「客観的な評価」とみなすことができる、という統計手法を使うわけだ。
 
まあ、これ以上はえらく専門的になるので説明しないけど、こと「コンテンツ」すなわち「アート」に対する評価としてこれほどいい加減なものはない。アートを知っている良識ある人ならば、いかにこれがいい加減なものか知っているはずだ。でも、アートの評価ができない人々に納得してもらうには、この方法しかないので、仕方なしにやるわけだ。
 
実はこれ以外にも結果のコンテンツを評価する方法はある。たとえば、結果に対してcritical thinking(批判的考察)を加えるという方法もある(アート業界ではこれはreflectionと呼ばれたりする) しかし、工学者はアートの素養そのものが欠けている場合が大半なので、彼らはその批判文を見てもただの「屁理屈」とみなして、却下する。で、客観的な理由を示せ、と迫って来る。で、しかたなしに評価実験をやってグラフを描いて、数値を見せるわけだ。
 
先に書いた理由で、論文は通さないと意味がないので、この実験をくっつけるのだが、僕はここで白状するが、いままで実験計画がかなりいい加減なことを分かっていて、それを論文に書いて出したことが何度もある。詳細はここでは言わないが、やった本人(僕)は何がいい加減かちゃんとわかっている(このいい加減は雑という意味ではなく、きちんと実験しているが、実験の目的が、アート的良心のためでなく、論文を通すためになっている、という意味である)
 
もちろん、査読する工学者もきちんとした人たちなので、その「いい加減さ」は突いてくる。でも、しょせん工学者がアートの本質に達することは、まず、滅多に無く、底が浅いので、僕の方はその予測できる反証が起こらないように、実験を塩梅するわけだ。
 
ただし、さすがにデータの捏造はしなかった。データを捏造すると、これはもう犯罪行為とみなされるのは、小保方さん騒動で周知のことになった。ところが、実験そのものをコントロールしたり、条件をコントロールすることで、望みの結果が出やすいように誘導することは、それほど難しいことではなく、これは悪い事でもない。
 
詳細に見て行けば、いったいこの実験をやった人がどこを誤魔化したかは、本当は判明するのだが、ことアートの件になると、査読する方にそのカンが働かないので、追及されずに済むようにコントロールできる。
 
と同時に、これを追求し過ぎると、逆に査読している人のアートの素養の無さが暴かれることになるので、ふつうはそんな馬脚を現して恥をかきそうなことはやらず、論文執筆者と査読者の間の阿吽の呼吸で、追及はあまり深入りしないていどで止めるのが普通だ。じゃあ、結局、どこで採録か返戻か決めるかっていうと、論文全体の総合的な信頼性を持って決めたりする。
 
ただ、偏屈な工学者ってのは、けっこうな数いるもので、ひたすら返戻を出しまくる困った人も一定数いる。僕がかつて論文委員長だったときも、「困った査読者ですねえ」とか言って、適度にその人へ論文査読が回るのを避けるようにしていたものだが、それもあまりやり過ぎると社会的信用を失う恐れがある。かくのごとく社会の趨勢に乗りながら、かつ、自身の良心と折り合いをつける、という非常に厄介な綱渡りをするはめになったりもする。
 
さてさて、いったいこれで何が言いたいかというと、まあ、それほどひどい批判や非難をする気は無いのだが、テクノロジー系コンテンツやアートについて、世に出ているアカデミックな内容やそれをベースにした定説などは、話半分にそこそこに受け取ればいいもので、そんなに正しいものは無いと思っていい。コンテンツとかアートとか、そもそも平和なもので、人も死なないし、世の中への影響も大してない分野なので、そのていどのいい加減さでもいいんじゃないか、と思う。
 
ところが、これがコンテンツやアートだから呑気にいい加減なことを言っているが、今回の伝染病のように、感染症だ、医学だ、環境問題だ、ってことになると事は深刻である。
 
しかし、かろうじてアカデミアの内情をいくらか知っている僕が思うに、本当のことを言うと、それらシリアスな分野においても、先に紹介したコンテンツやアートのときと事情は似通っていたりする。そんな状態なので、言いたいことは、「みなさん、世の中には、正しいか間違っているか、良いか悪いか、という明快な区別判断は無いんです。科学で証明されれば正しいと感じてしまう人はぜひ思い直してもらって、科学を過度に信頼しないように心がけてください」ぐらいですかね。

Dアップ

そういえば思い出したが、僕が初めて秘密組織というものを、実際に経験したのは、今からおよそ20年前にN研究所で働いてる時だった。僕は陰謀論者でも秘密主義でもなんでも無いのだけど、あの経験はなんか印象的だったので今も覚えている。

あ、期待しないで。つまらない話だから(笑

当時(いまでも?)N研究所では、管理職への昇進を、俗にDアップと呼んで異動時期に辞令が下りる仕組みになっていた。Dグレード以上は管理職なんで、Dアップって言うんだろう。あの頃の職員制度はシンプルで、管理職と一般職の二種類しかなく、ある年齢に達して、ある査定が下ると、一般職を管理職へと昇進させるってわけだ。

あるとき、異動時期に、僕がそのDアップになった。職場にいると、誰だかに呼ばれて、所長だかの部屋へ入って、そこで辞令を受け取るってわけだ。オレは当時、世俗にきわめて疎かったので、辞令受け取っても、へえー、管理職ねえ、って思っただけで、特段の感慨もなかった。

で、翌日(かな?)には、オレは管理職になったわけだが、別に仕事の様子が変わるわけでもなく、そのまま出勤してふつうに仕事してた。

そしたら、別の個室にいる部長と副部長の部屋へ行くように言われ、行ってみたら

「林くん、あのね、今日の夜、ちょっと会合があるんだけどね、それに出てくれる? 場所は成城学園のマ・メゾン、あそこね。予約してるから、来てね」

と言われた。僕もその時は、それ何かの宴会ですか? とかなんとか聞いたけど、来れば分かるよ、としか教えてくれない。

で、夜になってその成城のフレンチレストランへ行ったら、大きめの個室が予約されていて、そこに通された。で、その部屋に入ったら、なんと、僕の部の管理職の全員がすでに大テーブルに座っているではないか。

オレが入って来るのを見て

「林くん、おめでとう、今日から君もわれわれの仲間だね!」

とか言うのである。で、聞いたら、管理職会という会があって、これは一般職にはその存在を知らされておらず、定期的に会合を開いては、管理職だけで、仕事に関する密会をしてる、ってのが分かった。

まー、政治家で言うところの料亭の会合みたいなもんだ。

新米管理職のオレは

「へええ! こんなことやってたんですか!」

とか反応したが、まあ、十人弱はいたと思うんだけど、みな、笑顔でオレの肩叩いたりして、やけにフレンドリーなの。そのときの特権的感覚の快感、っていうか、そういうのを何となく覚えていて、その秘密な感じがとっても印象的だった。

もっとも、世間知らずの自分は、管理職の仲間入りをしても、特段に嬉しくもないし、責任感を感じてなんか自覚するわけでもなかった。あの特権的秘密団体への、なんというか帰属意識みたいなものをオレがあのとき持てたら、ずいぶん変わってただろうな。

ところがオレは、そのまま管理職業務をテキトウにこなしながら、自分勝手にやりたい放題やって、あげくの果てに、上が止めるのもあっさり無視して、辞表出してN研究所を辞めちゃうんだが、オレも、もうちょっと世俗が分かるのが早ければ、今ごろもっと楽に生きてたのになあ、とは思う。

カセットプレイヤー

オーディオ談義。

オレのオーディオのメインギアは、自分で作った2A3シングルの真空管アンプと、フルレンジスピーカをインストールしたトールボックスで、大変良い音がする。

オレ、かつて、アパートで一人暮らしをしてたことがあって、もちろん、このギアを部屋にどかんとセットして、CDかけて、ええ音やなあ、と悦に入っていた。

ある日、友人が部屋に遊びに来た。もちろん、そのオーディオセットであれこれBGMして、酒飲んでた。そしたら、彼が部屋の隅っこにあるブツを指さして、それ、なに? という。ああ、それはオレがヒマつぶしに作ったカセットプレイヤー、って答えた。

そう。それは、適当な板の上に立体配線で作った真空管カセットプレイヤーだったのである。ウォークマンをスペーサで板に固定し、そのヘッドフォン出力を2球のモノラル真空管アンプで増幅し、それを、8cmぐらいのスピーカを100円ショップで買った木箱に入れたヤツで鳴らす、ってシロモノだった。

オレ、聞いてみる? って言って、部屋の隅のカセットテープ箱をがさごそして、大昔にダビングした、Muddy WatersのSale Onというラベルのついたテープを持ってきて、電源入れてセットして再生ボタンを押した。B面をかけたんだな、オレ。曲は、I Can’t Be Satisfiedだった。Muddyのエレキ弾き語り。

そしたら、それを聞いたその友人、即座に

林さん、こっちのほうがぜんぜんいいよ! あっちの化け物みたいなのより、ずっといいよ!

と言うのである。で、オレはというと、うーむ。たしかにこっちのほうがはるかに音がいい。不思議だなあ、って思ったけど、きっと1948年に録音したMuddyの音は、圧倒的にこの糞チープなカセットテーププレイヤーに軍配が上がるのだ、と思い知った

その後は、ずっとこの糞カセットプレイヤーでブルースを聞き、いい気分で酒を飲んだ。

オーディオってね、そういうもんだよ。

日本版シリコンバレー

日本版シリコンバレーを作るという政府の計画があるそうだ。これは別に初めてのことではなく、これまでも政府や産業界は、シリコンバレーだけでなく、日本版Googleを開発する、とか和製ジョブズを養成するとかいろいろやって来た。今回のは、その再燃のようなものだ。

それで、それを報道した記事に大量についているコメントのほとんどすべてが、どうせ失敗する、というネガティブ意見というのが、すごい。皆で失敗オーラを送り込んでる感じで、これはそのオーラのせいできっと本当に失敗するね。かくいうこの自分も失敗オーラ派かもしれない。やはり日本そのもののマインドセットの問題かな。

カタカナ英語を使っちゃったけど、マインドセットとは「これまでの経験や教育、先入観から作られる思考パターンや固定化された考え方」のこと。で、スピリチュアル的に言うと、このマインドセットが物事の方向や成否を決めている、ということになる。

アメリカのシリコンバレーは元を辿るとヒッピー文化あたりのスピリチュアル的思想に端を欲している。マインドセットさえ変えることに成功すれば、あとはプロセスが勝手に付いてくると思い込むことをスピリチュアルというのだが、そう簡単なことじゃない(啓発系ビデオではみな簡単簡単言ってるけど、大半の人は不可)

この日本版シリコンバレーの記事も、「政府がエコシステムの形成を目指すのは、日本が世界各国に追いつけなくなる、との危機感のため」と発言させるマインドセットが、すでにスピリチュアルと正反対を向いているので、この計画を実施するにせよ、その結果は別のものになるだろうね。

しかし、以上、自分も、一生懸命失敗オーラを避けて発言するのも大変だな。

自分は、スタートアップのようなことをやって2度失敗しているが、その経験から言うと、最低でも2度失敗しないと学習できなかった。僕の場合、3度目は諦めてアカデミアへ逃避した。というのもその時点ですでに53歳だったしね。これが20年若ければだいぶ違っていただろうと思う。

3度目の正直を、障壁なく保証するには、制度だけを変えてもだめで、人間のマインドセット自体を変える必要があると思うけどな。かといって失敗に烙印を押す日本人のマインドは、世の中を見ての通り、極めて根強いもので、変わりそうもない。そんな中でやってゆく方法の一つは、自らが変人になって世間の有言無言のバッシングの届かないところに身を置くことかな。日本世間は「おもしろそうな変人」には逆に極めて寛容なので、それを利用するといい。

記事の最後にあるように、さらにこれにかける全体金額が少なすぎなのも問題だね。100無駄して1成功、というやり方はカネのない日本には難しいのだろうね。日本の30倍以上の無駄を突っ込んでいる中国やアメリカと同じようになるはずがないのは、残念ながら見えている。となると戦略を変えないといけない。

スピリチュアルな人々でも集めてみる? 最近、日本でかなり増えてるみたいに見えるけど。ただこれまた多くはニセモノだろうから難しいところ。

結局は「自由」が与えられる場所にすることかな。ここでいう自由はLiberty(責任の伴う自由)ではなくFreedom(単なる物理的自由)の方。ヒッピー文化はFreedomの上にLove & Peaceを描いてやっていたんだしね。ただ、これも封建社会な日本にはほとんどそぐわず、絵柄が違い過ぎ。

かくいう自分は3度目の正直を実行中で、新しいWebサービスを始めた。バーチャルミュージアムのプロジェクトで、2020年の8月3日にオープンした。

https://hachikei.com/

やっぱりオレって、スピリチュアル的な意味でも、そういうことをやりたくてやりたくて仕方ない人間なんだな。今回も、こんな風になるなんて、あまり思っていなかったけど結局そうなった。

いずれにせよ、政府は政府、世間は世間で、マインドセットがスピリチュアルな人々は、それらを横目に可能な限り自由にやるといいよ。

ロックンロールバンド

急に思い出した昔ばなし
 
オレは高校生のころからギターを弾いて歌ってバンドをやっていたが、中学の3年のときに不良(当時はツッパリって言ってた。いまではヤンキーかな)にギターを教えてもらった、そのつながりで高校時代、多くの不良とつるんでバンド活動とかもしてた。
 
あるとき、その不良の一人に自分のバンドのギターをやってくれないか、って頼まれて、ツッパリバンドでリードギタリストになったことがある。練習は、そいつの古い家の屋根裏部屋。ドラムもアンプもあって、まあ、近隣はうるさかっただろうなあ。
 
で、そのバンドはロックンロールバンドで、当時なので、みんなリーゼントっていうの? 髪の毛にポマードつけてとさかみたいなの作って、いつも櫛持ってて梳き梳き(すきすき)して、革ジャンにスリムのジーンズに短靴な人たちで、アイドルはもちろんキャロル。なのに、そこに、ふつうの軟弱なカッコしたマッシュルーム頭のオレだけ完全に違和感。
 
で、コンサートの当日になった。あれは大井町のシブヤ楽器(だっけ?)のホールだった。
 
オレは当時より偏屈で、そのころサンダルしか履かなかったのだが、それがまず仲間で問題になった。というのは、メンバーは全員コーディネートされた衣装で出ることになっていて、特に白いスニーカーは全員同じものを履く、って決まってたの。でも、オレは強行にスニーカーは絶対履かない、って拒否した。そしたら、僕を呼んだ彼が、まあ、いいじゃん、林はそれでいいよ、って言ってくれ、仲間たちはホント、しぶしぶ承知した。
 
ギターはテスコの糞ギターで、オレはコンサート前日に弦を張り替えたが、当時はギターも弦も品質が悪く、チューニングがボロボロ以下で、しかも、いちばん細い弦を張ったせいで、もう、ビヨーンビヨーン言っちゃって音楽にならない。
 
バンドのパフォーマンスは演出がきちっとされてて、手順が全部決まってて、踊りとかも全部きっちり練習して決まってた。やつら不良って、勉強はぜんぜんしないけど、そういうことは物凄く真面目にやるんだよね。
 
そのときの演出は、最初、演奏隊だけがスローブルースを演奏して、そこに、リーゼント、サングラス、革ジャン、ジーンズ、白いスニーカーのボーカル隊が駆け足で入って来て、いっせいにロックンロールに移行する、ってやつ。
 
で、ライブ始まって、オレがビヨーンビヨーンってスローブルース弾いてて、その時点で、我ながらもう糞演奏で、そこに、白スニーカーたちがカッコつけながら駆け足で入ってきた光景を今でも覚えてる。
 
で、そのロックロールの途中にギターソロがあるんだが、その時、オレだけにスポットが当たって、ボーカル隊の4人がオレの右に二人、左に二人来て、一人は立って、一人は膝まづいて、ソロの間じゅう両手で、ヒラヒラヒラヒラ、ってやるの。
 
これは超恥ずかしくて、その時は、オレ、なんでかわかんないけど、自分だけスニーカーじゃなくて、サンダルを履いてるのが特に恥ずかしかった。しかし、こんな演出、オレ、聞いてねーよー、ってマジで思い、下向いて弾いてた。
 
その後、コンサートが終わってたむろしてたとき、メンバーのやつらが、林のギターがビヨーンビヨーンいっちゃってうるさかったよな、みたいにオレにわざと聞こえるように文句言ってた。で、友人がそれをなだめてたの、覚えてる。
 
それで、あっさりクビになった。
 
オレの若い頃って、なーんにも考えてなかったから、感情のディテールが無くて、クビになっても、悪口言われても、陰口たたかれても、なんとも思わなかったんだよね。メンタル最強。
 
ああ、あのころの強メンタルのオレに戻りたい。

ブルジョア・ブルース

自分には人種差別感情がたぶんほとんど無いと思っているのだけど、なぜなのかはよく分からない。差別される側としては、大昔、ヨーロッパで英語がロクにしゃべれない東洋人としてバカにされた経験はあるが、悔しい思いはしたものの、差別されたという感覚は無かった。
 
差別をすることも、されることも、どちらもほとんど経験が無いので、結局、自分には人種差別についての感覚はほとんど持ち合わせが無い、ということになると思う。
 
そんな自分は黒人ブルースにハマった。知っての通り、ブルースはアメリカの黒人差別のただなかで生まれた音楽である。なぜ、それに、それほど惹かれたものか、これまたよく分からない。人種差別の感覚が無いのだから、それが直接の原因になったとは思えない。
 
ところで、このまえ、スウェーデンの僕の所属するバラライカ・オーケストラのコンサートで200人の前でブルースを歌って喝采されたのだが、そこで歌ったのはブルジョア・ブルースという歌で、これはアメリカの古い黒人シンガーのレッドベリーの歌だ。
 
この歌を選んだのは僕じゃない。オーケストラのリーダーのオーヴェさんがこの歌を持ってきて、僕に歌ってくれ、って頼んだのだ。
 
しかし、この曲の内容は、もろに黒人差別の経験を歌ったものなのである。レッドベリーがカミさんとワシントンDCへ行ったら、白人の皆に見下され、蔑まれ、こんなところは来るもんじゃない、こりゃブルジョアの街だ、最悪だ、みんなに知らせてやらなくちゃ、って歌っているのである。
 
この歌を、黄色人種のオレに歌わせるなんて、しかし、オーヴェさんも人が悪い(笑 
 
オーヴェさんは白人だが、彼は民族音楽のプロミュージシャンで、ジプシーミュージックみたいなのを演奏している。そういう意味では、日本人のオレがブルースを演奏するのに近いとも言える。たぶん、そんな類似があったんで、僕にこの曲を持ってきたのかな、とも思った。
 
しかしながら、このまえ、20人の白人のオーケストラをバックにして、ステージ中央にギターを抱えて座って、200人のほぼ全員白人の客の前で、大音量で
 
Hey! I tell all the colored folks!
Listen to me!
Don’t try to find your home in Washington DC
 
(おい! 有色人種のみんな! オレの言うことをよく聞け! 間違ってもワシントンDCを棲み処にするもんじゃねえぞ!)
 
って、シャウトして歌ってて、なんというか、内心、すごく微妙な気持ちになったよ。僕自身の中には、先に書いたように人種差別は最初から無いんだが、なんだか、黒人差別をプロテストする歌を、オレ、大勢の白人を前にアジテートしてるなあ、とか思って。
 
ご存じの通り、スウェーデンは人種差別を始め、あらゆる差別がもっとも少ない国の一つで、すでに、ここにいる白人のみなも、自分が「白人」だなどという意識はなく、単に「人」としか思っていないと思う。そもそも、僕が上に書いているように、スウェーデンの人々を「白人」呼ばわりすることは、おそらくここでは問題発言だろう。
 
そういうわけで、偏見がほとんど無いので、そもそも「白人の前で黄色人が黒人差別のプロテストソングを歌う」というシチュエーションの捻じれにはみな、不感症になっているはずで、なんだか変じゃないか、なんて感じる人はほとんど皆無だと思う。
 
実は、僕も、ほぼそうなのだが、ただ、ひとりのミュージシャンとして、このBourgeois Bluesをオレ、歌ってるとね、このスウェーデンのステージで起こっているような、きれいに整備され、守られた、人工的な理解の場が、なんだか夢のようにリアリティが失われて感じる瞬間が、あるんだ。不思議な感覚だよ。
 
というわけで、来週またBourgeois Bluesを歌う。あと、Kindhearted Woman BluesとKey To The Highwayも。オレの出番、楽しみだなあ。