絵画を見る眼

オスロの国立美術館へ行ったときのこと。建物の真ん中の大きめの広間に西洋古典絵画が三十点以上かかった質の高い部屋があり、グレコはあるわ、ベラスケスはあるわ、ルーベンスはあるわ、なかなかのコレクションで、一点一点なるほどと見て行った。
 
一通り見て、次の間へ行こうとしたら、奥さんが、ゴヤがあったね、というんで、え? ゴヤ、あったの? と言うと、絵を指さして、あそこにあるじゃん、って言うんで、引き返してキャプションを見てみたら、Francisco Goyaって書いてある。ちなみにゴヤは古典では、僕が一番に好きな画家である。
 
さっき全部見たので、もちろん、この肖像画も見ていたはずだ、でも、ぜんぜん気が付かなかった。ああ、よくある平凡な肖像だな、と思ったかして通り過ぎてしまったのだ。
 
で、ゴヤだと分かってからその同じ絵を見たら、これがまた、突然、平凡な肖像画が素晴らしい画布に見えてきた。小さ目の縦長の画布で、帽子を被った男の膝上の肖像。シャツの何とも言えない素晴らしい緑と、上着のこれまた何とも言えない赤黒い色が見事に調和して、白い絵の具でめったやたらに突っつくように乗せられたゴヤらしいハイライト、そして、普通より赤を多く乗せた、やはりゴヤらしい顔の表現などなど。まあ、何と、素晴らしいこと。しばらく見入った。
 
かくのごとく、人は、まず肩書でその姿を見るわけで、これで分かるように、ゴヤだと分かっただけで、絵は突然光り輝くのだ。
 
たぶん、これを読んだらきっと、林はゴッホで油絵に開眼して、西洋古典絵画については訳知りで目利きだ、みたいにさんざん自己宣伝しといて、結局、先入観抜きで絵を見る力なんかないじゃないか、とふつう、思うであろう。僕もそう思う(笑)
 
ただ、僕には、まったくのブラインドで初見で絵画の良し悪しを判断できる眼は無いかもしれないが、その絵画の「見方」が分かった途端に、その良さを十二分に見つけ出して、陶酔して、おまけに評論の一つも書ける能力なら持っているのも、確かだ。
 
この場合の「見方」とは、「ゴヤの作品なので、ゴヤらしい色やデッサンや表現に注目しなさいね」という指令が、Francisco Goyaと書かれたキャプションから僕に発せられているのである。そうすると僕の眼は、さっきまでの漠然としてオーガナイズされない眼から、突然、ゴヤにチューニングされた眼になって、その魅力を余すところなく感じ取ることが出来るようになる。
 
かくのごとく、視覚というのは、あらゆるものが関係して、その視覚経験の結果を形作るのであって、人によって見えているものが、まったく違う、というのは当然のことなのである。それは、単なる強度の違いではなく、質的に異なるのである。そして、それは、見る対象と視覚だけを取り出していくら科学的に詮索しても、それだけでは説明は出来ないのである。かといって、それに、脳と記憶を追加したところで、知れているのである。すべては一体になって進行しているのである。ベルグソン流に言うと、視覚というのは眼や脳にあるんじゃなくて、対象物の中にあり、生命は行動によって、それを顕在化させるのである。
 
と、まあ、そういうことなのだが、ゴヤの素晴らしい画布を見逃して帰って来なくてよかった。

(Facebookより)

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