感性オーディオと工学の話

芸術科学会に感性オーディオ研究会というものがあり、僕の書いた文の中にも幾度か出てきた宮原誠先生がやっている。宮原先生と僕の仲は長く、僕はすでに十数年、宮原先生の仕事の広報的な部分を手伝ってきた。ここに、ここ最近の2年間に行った21回分の研究会の活動報告を載せておく。僕自身はこのうち2、3回に出席しただけで、大半は宮原先生の個人活動である。この報告書も、宮原先生から送られてきたワードの文をあえて整形もせず、そのまま羅列している。この長い報告をいちいち読む人はほとんどいないと思うが、ざっとスクロールするだけで、その雰囲気は感じ取れると思う。

http://niz237gt.sakura.ne.jp/hmlab/HP/kanseiaudio2013-2015.html

今回、改めてこの文書の集積を読んでみて、次から次へといろいろな考えが浮かんできて、妙なものだと思った。問題の所在ははっきりしているように思うものの、どうにも、その本質にフォーカスできない。一番簡単な方法は、世の中にいるハイエンドオーディオの食えない人々の趣味的な探求の一つに過ぎない、として放置、無視することだろうと思う。でも、自分にはそれをしてしまうには惜しい「何か」がここにはあると思う。逆にそれだからこそ、ここまで長年手伝ってきたわけだが。

少し前、「理科系のための哲学・芸術・美」という活動を長島知正先生とやっている、とアナウンスしたが、長島先生とお会いしたのは、元をたどれば宮原先生とのつながりである。感性工学の一連のコネクションだ。このだいぶ混乱しているように見える宮原先生の報告が、長島先生と僕がやっている「主題」と密接にかかわっていることは間違いない。そういう意味では類は友を呼ぶのだろうか。

僕の宮原誠評はいちおう昔から一貫していて「宮原誠は宮原オーディオという作品を製作する作家である」である。ご本人に何度も言っているが、もちろん先生は納得しない(時々は、そうかなあ、と言われることもあるが)。この報告書で執拗に展開されている事々が工学的用語で書かれているのを見ても分かる通り、先生にとってはこれは工学なのである。僕から見ると、その先生の「工学」(新・電気音響学という名前が付いている)が、現行の工学的方法論から見るとかなり雑に展開されているので、工学者に対してこういう論を展開するのは逆効果だ、と思っている。ただ、これについて僕の方で、先生の工学を現行工学に翻訳することはできない。恐らく、先生の数少ない弟子や理解者にもできないだろう。

さっき全体を読んでいたら、むしろ、その「工学的用語を使った現象の探求」そのものが、アート作品の一種にまで思えてきた。

たとえば、スピーカーボックスの稜線の急な部分で音の波面が乱れ、それが音の「凄み」を増す方向に作用する、と書いてある。したがって、ボックスの角を丸めてしまうと、音場は良くなるが、人をぞくっとさせる凄みは減ってしまう。この変化は劇的である。と書いてある。工学者の常識的感覚で反応すると「なにそれ。気のせいじゃない?」で終わる。実際に、スピーカーボックスに角を丸めるテープを貼って実験すると、7段階評価で+3の変化がある、と書いてある。「気のせいだろ」と反応したくなるところだ。あるいは、そう思って聞くからそういう結果なのであって、ブラインドでは違いは分かるわけないだろ、という反応もあるだろう。

しかし、とにかく、気のせいであろうと、プラシーボであろうと、何であろうと、+3も凄みが増したことをどう説明するか。これは「観察事実」だ。現行工学的に考えればこれには、数多くの要因が関わっていて、それらをきれいに切り分けることはとても困難で、そもそも工学的問題の線上に乗らない、と判断されるのが順当だと思う。先生が言うところの「波面の乱れ」は物理現象として確かに確認できるだろうが、同時に、被験者が角が鋭いのを視覚的に見て確認して「そのせいで」音に凄みが増したように感じるという心理効果も確認できる。

ここで後者について切り分けるために「ブラインドテスト」を要求するのが一般的だ。ブラインドテストで違いに有意差が出た場合と、出なかった場合でその後の展開は変わるだろう。出た場合に、一番最初にやらないといけないのは物理的条件を綿密に整えることだろう。スピーカーやリスナーの位置や部屋の形状が与える影響の特定が必要だ。次は、それがどんな要因で出たのか、それを追及するフェーズになる。「波面の乱れ」という物理現象はその一つだが、それだけではないだろう。それぐらいの微小変化が人間に検知されるということになると、角を丸めるテープがボックスの振動に及ぼす変化などいくつか物理要因が考えられるはずだ。

一方、ブラインドテストで差が出なかった場合はどうか。その時点で、スピーカーの角の話は「プラシーボ」として却下だろうか。波面の乱れは人間には検知できないほど微量である、で終わりだろうか。科学的態度に照らせば、いちおう、そういうことになるだろう。次に追及すべきは、スピーカーの角の形状についての視覚的、現象的な知識が、音の感じ方にどのような変化を及ぼすかという心理学的な探求になるだろう。

この成り行きは、一見、順当に見える。しかし、ブラインドテストで、その現象が物理現象なのか心理現象なのかを切り分ければ、探求の方向はきれいに分岐し、見通しが良くなる、というのは本当に正しい態度なのか。ここでその態度を是というか否というかが、分かれ目なのかもしれない。それで、僕の態度は「否」なのである。まあ、それだからこそ、宮原先生の延々と続く探求をいぶかしく見ながらも、去らずに付き合っているのだ。

なぜ「否」なのか、と言うと、そこで問題を、物理(波面の乱れ)か心理(プラシーボ)かという相反する二方向に分離させてしまうところに、現行の工学や科学的態度の限界を見るからだ。前者が「物質」、後者が「精神」に相当すると思うが、そもそもそうした二元論で当の問題(スピーカーの角で凄みのある音が出る)を処理できる、という考え方そのものに問題があるのではないか、と感じるからだ。この二元論は、「物理現象があって」それが人間という生身の物質に作用し、知覚と認識の処理を通して「認知される」という構図に沿っている。

「角を鋭くしたら凄みが増した」という現象は、ブラインドテストの場では無い条件で起こるものだ(被験者はみなテープを目で見て、宮原先生の言葉を聞いて知っている状況)。一方、ブラインドテストで確認できる現象はブラインドテストという条件で起こる現象を確認しているに過ぎない。ブラインドテストで、いったいわれわれは何を知りたいのだろう。その現象を「説明する」なんらかの「原因・理由」が知りたいのだろう。では、なぜ、原因・理由が知りたいのだろう。一つは「解明したい」という知的欲求だろう。しかし、その知的欲求そのものとて「理由・原因が解明されれば、それを今度は別のケースに利用して、われわれの生活に役立てることができる」という功利的な理由から来るのではないだろうか。つまり、そこで得られた原因・理由は、スピーカーボックスだけでなく「スピーカーボックス以外のもの」に応用できる道が開ける。スピーカーボックスの角での一つの発見を元にして、十の、百の、応用事例を増やすことができる可能性が開けることである(たとえば波面の乱れが音の凄みを増すのなら、巧妙に波面の乱れを与えた電気音信号を作り出し普通スピーカーでも凄みを出せる電気装置が作れるかもしれない)

工学というのが、主に物理現象の自然科学的な探求をベースに行われる、というのは、物理現象というものに正確な再現性が見られる、という観察に基づいている。すなわち、物理的な要因を特定できれば、それは物理的に整えた条件下で正確に再現し、それは、測定という行為で万人に確認される、と同時に、宇宙の果てまで行っても再現する、と仮定して構わないということである。この科学的な再現性と斉一性は、数限りない物理的な測定の結果によりその妥当性が増して行き、現代という時代でその妥当性はほぼ完成の域に達している。もちろん、科学で解明できない物理現象は今でも数限りなく存在するが、再現性と斉一性はその前提であり、その前提が崩れる事象は無いとされており、そう認定して不都合なこともほとんど無いことをわれわれは経験で補強し続けている。

あまり話を大きくする前に、スピーカーの話に戻るが、問題を物理現象と心理現象に分けるようなことをせず、従来工学的な原因・理由の探求をせず、この「角を鋭くしたら凄みが増した」という現象を「そのまま受け取る」という方法もあるのではないだろうか。「知見の他への応用」などは当面考えないのある。「いや、そんなことは考えていない。単純にその原因が科学的に知りたいのだ」と言うかもしれない。しかし、ここでいったん立ち止まってよくよく考えてみよう。その知的欲求と称する一種の本能は、生活の功利性の追求の歴史的な刷り込みから来ていないかどうか? 科学文明の勝利の感覚から来ていないかどうか? なぜ、そんなどうでもいいことを考えてくれ、などと言っているかというと、そこに、科学文明が爛熟した現代のものの考え方や感じ方の「次」が隠れているように思うからだ。

このスピーカーの例でいえば、その現象を丸ごと受け入れて、たとえば、「角の鋭いスピーカーをうまいこと宣伝して凄みのある音楽を再現するオーディオとして皆に普及させて音の凄みというものを皆に味わってもらおう」という活動をする、という風に発展させたらどうだろう。ここで、波面の乱れとか、音信号の歪みとか、プラシーボによる心理的効果とか、ブラインドでテストしたときの結果とか、そういうものを科学的に整理して断罪したり、唯一絶対な原因・理由を探求したり、ということをしないのである。物理現象、心理現象も何もかも含めて、総花的に検討と追及を進める道というのもあるのではないか、ということである。この道は、正直、あまり科学的ではない。むしろ「こうしたら、こうなった」という現象についての知識の集積に終始するともいえる。それはちょうど、西洋的な科学的手法に対する、昔からの東洋的手法にも対応する。分かりやすい例で言えば、西洋医学的な手術や薬剤に対する、東洋医学的な気や漢方薬に対応する。

僕は、さっき、宮原先生のこの一連の工学的分析追及の言葉自体がアート作品の一種に見える、と書いたが、それは、このような東洋的方法論に似たものを想起させる何かが、先生の探求の中に見えるからである。西洋科学を学んだ東洋の本能を持つ精神、という構図がどうにも見えて来るような気がするのだ。もっとも、これは少し言い過ぎかもしれない。自分としては、そこに自分特有の性質を重ね合わせることが多いからかもしれないが、それは個人的な話だ。

僕の考えでは、現在、華々しい成功を収めているアメリカの、Google、Apple、Facebookなどが、実は以上に述べた問題に既に痛切に気付いていて、西洋のデカルトの思想から生まれた自然科学と、そこから生まれた現代の工学の限界を、東洋的方法論を取り入れることによって克服し、既に次の世代へと持っていってしまった、と見ている。この点、彼らの知的な勘は極めて鋭く、驚嘆する。僕が何度も出す例だが、情報社会のあり方を変えてしまったと賞賛されているスティーブ・ジョブズが禅を信奉し東洋に多大な興味を持っていた、というのは決して決して偶然ではない。

この件をきれいに分析して、示すのは並大抵ではできず、今のところ自分の手には余る。したがって、上述は僕自身の直観から言っているだけである。しかし、昨今、ここまで日本の家電メーカーが敗退続きで出口が見えず、国をあげてグローバル化やイノベーションを振興しているにも関わらず実績が出ないとなると、われわれも、もう一度、ここに述べたようなファンダメンタルな事々について、前提や起源に戻って考えてみるべきではないか、というのが最近の僕の考えである。

そもそもは宮原先生の感性オーディオについての話だったが、あの依然として混乱した宮原先生の報告書の堆積の中に、以上のような「大問題」が潜んでいるように、自分には見えるのである。

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