ある成功した人に会ったときの話

5年ほど前、僕が前の会社でリストラにあい、職探しをしつつ、わりと弱っていたころのこと。その前の会社で自分が作ったモノをいろいろと売り込み、さらに世の中でなんとかして存続させようとあくせくしていた時だ。さいわい、単なる一技術としては上出来なほどたくさんの人が興味を持ってくれていた。その中には実際にそれを使いたい、と引いてくれる会社や人もあった。
 
当時の自分はなんとまだウブであったので、そういう引きの言葉をわりと真正面から受け取り、その気になったりしていたころだ。もっとも、さすがに実際に職を失って困ったりしていると、だんだんと自分も疑い深くなり、というか、世間的にまっとうになり、他人が自分に示す、あるいは自分の技術に示す興味につき、その大半が単にその他人の、自分のあずかり知らない、個人的な事情やその他の状況によるものに過ぎない、ということが分かり始めていたころでもあった。
 
ま、というわけで、まあ、いろんな人と次々と会っていたものだ。逆に自分がまだウブだったせいで、手あたりしだいに他人と会っていた、ともいえる。もしそのとき自分にもう少し世の中を見る目があったら、あんなに非効率な行動はしなかったと思う。そういや思い出したが、無職になって僕は個人名刺を作ったが、肩書が5つぐらいついていた。博士をはじめ、客員なんとか、なんとか研究員、そのほかもろもろ。5つもあったのは、非効率に行動していた結果でもあった。
 
ちなみに、誰か他人に会って名刺を渡して、そこに肩書が5つも付いていると、大半の場合、相手に対して逆効果になる、ということもその頃の僕は分かっていなかった。こんなにたくさん頑張ってるから私は価値のある人間ですよ、というアピールなわけだが、他人はそういう人を見ると普通は引くものだ。そんなものを相手に見せるより、相手にお世辞をたくさん言っていい気持ちにさせた方が恐らく十倍以上効き目がある。大量のアクティビティで人を圧倒するというのは失敗の元だ。ということも、その頃は分かっていなかった。日本だから? いや、違う、これは外国でもそうだと思う。
 
そんなアンバランスな自分には、それ相応なのか、けっこう変な人も引っかかるようで、かなりの変わり者とも会ったのである。その中の一人を思い出したのだ。
 
その人は、コンピュータとインターネットを利用した新しい学習塾の形態を考え出し、世に先だってそれを始め、そして成功した人だった。既に巨万の富を築いていたようで、全国にフランチャイズ校が多数あり、東京の本社でその人はたしか、社長、あるいは会長をしていたはず。重要な経営ミーティングに出てトップダウンな指示を出す以外はほとんど経営は他役員に任せ、自身はそれとはまったく違ういろんなビジネスに進出し、世界をまたにかけてあっちこっち飛び回っているそうだった。
 
先方が僕の技術に興味を持ち、まずは一度お会いしましょう、ということになった。自分は六本木ヒルズレジデンスに部屋を持って、そこを個人用のオフィスにも使っているのだけど、そのレジデンスエリアにあるレストランで昼食でもどうですか、とのこと。
 
ヒルズのレジデンスエリアへ入るのなど初めてだった。マンション下の公園の指定場所で待っていると、いつも上機嫌のその人が現れ、一緒に、やけに高級感漂うレストランに入り、仕事の話などをした。食事と話が終わり、その人が、ちょっと自分の部屋に寄って行きませんか、と言う。食事のとき、オーディオの話も出て、その人は個人で高級オーディオの海外販売なども手掛けているので、それらもお見せできますよ、と言うのだ。
 
レストランを出て、何重にもセキュリティのかかったビルディングへ入って、エレベータで十階だかに上がり、その人の部屋へ入った。
 
部屋には所狭しといろんなものが置いてあった。置いてあるものはなにもかも高級品で、さすが大金持ちの趣味は違うものだ、と自分には物珍しかったが、本当になんというか、そういう金持ち特有の、地に足のついていない、常にフローティングして世の中を自在に横滑りしているような感じが、とてもよく感じられた。ちなみに自分はこの人だけでなく、そういうタイプの人を何人か知っていたので、それらに共通の感じ、ともいえるものだ。
 
何百万円もする超高級オーディオで音楽をかけ、何十万円もするソファに腰をかけて、しばらく話をした。話は、これまたそういう人によくある、自分の成功の自慢話が主で、自分がいかなる方法で成功したか、について語っていた。もう少し正確にいうと、「方法」というよりは、いかなる「精神」で成功したかという話である。
 
さっき成功した大金持ちを何人か知っていた、と言ったが、そういうタイプの人たちにはある共通した「ノリ」があり、彼らが決して何らかの方法論で成功したのではなく、そのノリ、もうちょっと高級に言えば「精神」で成功した、というのが分かるのだ。そういう意味で、世の啓発書に成功者がたくさん色々なことを書きつけているが、そこに記載されている方法を真似してもダメで、精神の方を真似しないといけない。しかし精神はふつう真似は出来ないもので、そのせいで啓発書が何百万冊売れてもそれを買った何百万人が成功をするなどということが起こらない、というわけだ。
 
その人がその豪華な六本木ヒルズレジデンスで僕に語った精神も、そういうものであった。それを聞きながら、自分には、はっきりと、この精神は自分には真似できない、と感じたものだ。
 
その中で、こんなやり取りがあった。
 
「それで、いまはどうしてるんですか? 林さんぐらいの才能があれば、行く先はたくさんあるでしょう」
「いや、なかなか難しいです。それに、いまとぜんぜん違う業種に行くのも辛いですし」
「なぜですか? そういうのがあればそれでもいいじゃないですか」
「いや、やはりある程度堅実に長続きするところでないと職につくのはどうにも・・」
「そんなことを言っていたら先に進めないでしょう」
「でも自分には家庭もあるし、そんなその場限りであちこちふらふらするわけにいかないし」
「失礼ですがご家庭は奥様とお子さんもいらっしゃるんですか」
「いえ、子供はいません。奥さんだけです」
「それならば、それほど気にすることもないじゃないですか。家のローンが残っているとか?」
「いや、借金はゼロなんですよ。それだけは助かってます」
「そうですか、それならば、もっと自由にご自分の才能を発揮できる場へ進んで行くべきと思いますよ」
「でも、今の境遇になる前からうちの奥さんとはさんざん喧嘩もしてますしね。奥さんがそんな軽率なことは許してくれないですよ」
「奥さんのせいですか」
「うーん、せいと言うのもなんですが、やっぱり、勝手なことはできないですね。今までも、いまの無職の待遇になった経緯でさんざん言われてますからね・・」
「そんなのは放っておけばいいじゃないですか」
「そうは行きませんよ」
「つまらないですね。林さんのやろうとしていることを邪魔するのでしょう?」
「邪魔というわけじゃないですが、彼女に無断に事を進めるのは無理ですよ」
「そうですか、僕だったらそんな奥さんとは別れてしまいますね」
「そうですか」
「ええ、自分は自分のやりたいこと、今まさに行こうとしていること、それを邪魔するような人と一緒にはいませんね」
「なるほど」
「なんであっても自分の自由が一番です、その自由を妨げるものを自分は許せませんね」
「なるほど、言われていることは分かります」
「私なんかは、いまのカミさんとは別れてこそいませんけどね、彼女は彼女で自宅に住んで、そこで自由にやってますよ。まあ、自分はほとんど帰らずに駆け回ってますけどね」
「僕もそんな風に自由にできればいいんですけどね」
「奥様と別れられないのは分かりますが、自分にはそれは考えられませんね。すべては自身の自由ですよ。それが一番、大切じゃないですか」
 
と、まあ、こういった調子だった。
 
で、さっき思い出したこと、というのは、「自身の自由の邪魔をするものは許さない」というその人の言葉だったのである。その人は、およそ「制約」というのは外すべきもので、それに躊躇をするのは馬鹿げている、と考えるのである。一方、自分は、実は、「制約」こそが自分の人生を形造っている、と考えているのである。すなわち全く逆方向を向いている。そして、少なくともその人とのことについては、先方は大金持ちの成功者、自分は無職の敗残者、という結果になっていたので、彼の「精神」の方が正しいのではないか、と考える方が自然であろうか。少なくとも、啓発書的にはその通りであろう。
 
でも、これは、異なる二つの精神がある、ということで、それらは交換できないのだ、というのが正しいのであろう。僕には彼の精神が真似できないのは自明だが、彼も僕の精神を真似できないのである。自分は成功していて、相手は失敗している、ならば、その失敗している人の精神を真似するなど馬鹿げている、というのが彼にとっての真似をしない直接の理由であろうが、しかしそういう意味ではなくとも、彼にしたって僕の精神の真似は不可能だ、ということだ。
 
そして、彼が「林さんのように自分はしませんね」という理由が、「自由」だったり、「金」だったり「成功」だったり「地位」だったり、その他いろいろあるだろうが、逆にこの僕が彼に「自分はあなたのようにはできませんね」という時(こっちはずいぶんネガティブな響きになってしまうが)、やはり、それら自由や富や名声とは異なる、しかし自身が人生をかけて守るべき「なにか」があるべきはずのものだろう。
 
いったい、その「なにか」は何なのだろうか。はっきり名指すことはできないけれど、それが自分のかけがえのない「精神」であることは、間違いなさそうだ。

ある成功した人に会ったときの話」への4件のフィードバック

  1. 林正樹

    bellissimaさん

    僕の「お世辞が効く」という言葉は、単に事実を述べただけで(事実とは何か、というややこしい話は置いておいて)、お世辞を肯定的にも否定的にも捉えていないつもりなのですが、いかがでしょう。ドストエフスキーも同じだと思います。

    ただ、もちろんそのコンテキストというもはあって、僕の場合(というか僕の文の場合)、職を失って職探しをしており、とにかく色んな人に会って職探しにつながるチャンスを求めていた、という状況があります。そんな中で社会のいろんな層のいろんな人に会って職を何か紹介してくれないか、と活動しているとき、そんな状況では「お世話は非常によく効く」ということが、いろんな社会経験で分かった、ということです。

    「よく効く」という意味は、世辞を言って相手をおだてた方が自分の力になってくれる人の数が確実に増える、ということです。なので、これは統計的事実みたいなもんです。個別の「僕」とか「ドストエフスキー」とか「bellissimaさん」とかが世辞でどう反応するか、という話ではなく。

    で、この場合の「職」ですが、これまた情けないほど、とにかく働き口です。何のためかと言うと、生活するためです、で、端的に言うと「金」です。それで、金というのも、実際抽象的なもので、結局は統計的なものなんですよね。手元に1万円しかない人と、手元に1億円ある人がいたとき、楽しく暮らしていると感じる人が、100人中何人いるか、と統計とると、まあ、たぶん、過半数を超えて1億円になるでしょう(統計取ったことないんで知りませんが 笑)、という話です。

    以上のごとく、「世辞が効く」と、僕やドストエフスキーが言うのは、自身にとっては肯定的でも否定的でもなく、世間の統計的事実として考えれば肯定的な命題になります、ということです。言ってみれば、それだけのこと。世辞の価値については全然論じてないです。

    あと、「これは私の趣旨を勘違いされてます」のくだりは、失礼しました。心外だと言われるだろうな、と思ってました。僕の言葉は、主に僕の知り合いたちの言葉を総合して書いたもので、bellissimaさんがそう思っているだろうな、と考えて書いたものではありません。

    ただ、bellissimaさんと僕の知り合いで共通している言葉は「本人が言うほどその人は自由じゃない」、です。

  2. bellissima

    先日ショーペンハウアーの書物を読んでいる際、公衆の場ではありましたが、私は吹き出しそうになりました。「さてこういった種々の財宝のうちで最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗らかさである」。あの厭世の大家が!優れた人物なら人間嫌いにならざるを得ないと公言している張本人が! けれども考えてみるにつけ、大哲学者や文豪らも自ら矛盾するような言論や行動をしてきたわけです。ショーペンハウアーのこの一文も、彼ならではの一流のニヒリズムかもしれません。林先生おっしゃる通りドストエフスキーも罪と罰の中でお世辞は良く効くという言葉を述べてます。ただ徹頭徹尾彼がそう信じていたかは疑わしいです。まだ凡人の私のお世辞嫌いの方が筋を通している気がします。と同時にドストエフスキーや林先生が自らの経験の中で世辞を肯定的に捉えていることは否定しません。自分は自分の人生しか生きていない訳ですから。

    >「自由を手にする代償が必ずあるはずだ、この人で言えば、恐らく家庭とか愛情とか言うものについて非常に乏しいとげとげしい生活を送っているはずで、幸福な安定というものを手放して生きているだろう」というわけですが、確かにそれはその通りです。でも、なんで皆そう言いたくなるんでしょう?

    これは私の趣旨を勘違いされてます、いくら何でも金持ちを見て「かわいそうにねェ」とささやき合って溜飲を下げるような人間では流石にないです。自分のリミッターを外して前進すべきというその社長の言には同感します。ただ、自分の言葉ほどにその社長は自由なのか?奥様の制約から逃れて俺はこんなに自由だよとアピールするその心は何なのかと聞きたい。私から見たらその社長は大して自由じゃないです。資産に比例した享楽があるという程度です。
    ただひとつ言えることは、私よりも林先生の方が純粋な物事の捉え方をなさるという事です。私にはそれは失われています。

  3. 林正樹

    bellissimaさん

    コメントなどほぼゼロなブログにコメントありがとうございます(笑

    お世辞が効くのくだりですが、今でも、事実としてはその通りだと思っています。自分がお世辞で攻めてくる相手にどう対処するかはまた別の話ですが、世辞が効く、というのは、僕は大昔最初にドストエフスキーから聞いたのです。小説のどこかに書いているはずです(どこだか忘れましたが。。) 「古今東西どの層に対しても確実に効くのが世辞というものである」と断言していました。それを読んだ頃の僕は「お世辞」というもの自体がよく分かっておらず(非常に奥手な人間だったので)、ふーん、と読み飛ばしましたが、その後、これは思い知りましたね。あと「恨み、妬み」もです。これも思い知りました。世間というのは、そのようなものに満ち満ちていたんですね。それが、昔の自分には本当にまったく見えなかったんです。逆に僕の当時の強みは、そこにあったのも事実です。世間の一般的な人間と違う振る舞いをする人間、と周りからは認知され、許されてきました。それが、世辞、恨み、妬みが世間の大半のドライビングフォースになっているということに気づいてからは、けっこう人格が混乱したかもしれません。で、今に至る、です。

    ヒルズのその人とは、その後、一回ぐらいで疎遠になった覚えがあります。結局、「うちの会社に来てみませんか?」というオファーに近いものだったのですが、この社長のノリを見てなんだか会社の様子が想像され、危険そうに思ったので、僕の方が近付きませんでした。

    この社長の件ですが、僕の知人たちも、bellissimaさんの言われるのと同じように「自由を語るヒルズの主は全然自由じゃありませんね。富を築いたところでこれですから本人は虚しいんでしょう。」という風に言う人が多いです。これは僕には少なからず不思議です。「自由を手にする代償が必ずあるはずだ、この人で言えば、恐らく家庭とか愛情とか言うものについて非常に乏しいとげとげしい生活を送っているはずで、幸福な安定というものを手放して生きているだろう」というわけですが、確かにそれはその通りです。でも、なんで皆そう言いたくなるんでしょう?

    それは、この自由に生きる社長が、僕に「自分が真にやりたいと感じる、その意思をあなたは意図的に殺しているだろう? なぜそんなことをするんだ?」と言うことと、意味が正反対なだけで同じことですよね?

    僕は、この社長が虚しい、とはあんまり感じないんですよ。トルストイの言葉に「幸福は単調だが、不幸は人の数だけある」みたいなのがありますが、僕は僕でその不幸の方に思いをはせる傾向が強く、そのバラエティに驚嘆するんですね。でも、この社長のような人たちはみな同じような顔してるな、と感じるだけで、あまり魅力を感じないのです。そこだけが、僕のポイントなような気がします。

  4. bellissima

    >そんなものを相手に見せるより、相手にお世辞をたくさん言っていい気持ちにさせた方が恐らく十倍以上効き目がある

    上記の文を自身で読み返して今、林先生は、そうだその通りだそうに違いないとお思いでしょうか?
    私自身はお世辞を並べてくる人間に信頼を寄せることは出来ませんね。へつらいや自己卑下で相手に取り入ろうとしている段階でその人間は私と同じ土壌に立っていない。自分にとってはエリア外の人間だからせいぜいその世辞にそうですかと笑ってみせるくらいで、あとは没交渉です。

    とは言え私は女で女の世界はこのおもねりに満ちています。相手からのおもねりにこちらからも熨斗をつけておもねり返す、そうすることで女の友情とやらは保たれる節があり、私は友情は要らないと思っています。上げたり下げたり余計な手間の不要な相手とだけたまに交流できればいい。

    ところでヒルズレジデンスの主とは仕事上の関わりは結局、あったのでしょうか。想像するに無かったかあっても一回程度じゃないでしょうか。「林さんぐらいの才能があれば、行く先はたくさんあるでしょう」この時点で軟着陸を試みようとしてますものね。自由を語る彼、制約を思う林先生、一読したところで私にはほぼ同じ主張のように思えます。というのも自由にしても制約にしても合理性を求める手段/プロセスとしては異音同語であり、自由を求めれば自ずから制約がついてくる、逆もまた然りです。ただ立ち位置の違いが単語の違いとなってアウトプットされただけでは。

    兎にも角にも赤の他人の林先生を自宅に招いて自由を語るヒルズの主は全然自由じゃありませんね。富を築いたところでこれですから本人は虚しいんでしょう。お元気だといいですね。

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