電子工作

いま、真空管オーディオアンプの初心者向けの本を書いているのだけど、初心者を想定して書くと自分が初心者だったころを思い出すわけで、そういえばそうだったなあ、とか小学生だったころをいろいろ思い出した。
 
電子工作を始めたのは小学5年ぐらいのころだったと思う。たぶん、たまたま本屋かなんかで見つけた電子工作雑誌を買って、それで夢中になったのだろう。当時は、教えてくれる人もいなかったので、それら雑誌を文字通りボロボロになるまで何度も何度も見て、それで、ときどき小遣いが溜まると部品を買いに行って、それで作っていた。
 
当時は大田区に住んでいたのだが、大森駅と蒲田駅の真ん中あたりの普通の住宅街のところにある踏切を渡ったすぐ右手に小さな電気屋があり、そこで部品を買っていた。なんと、その当時は、いまでは秋葉原の限られたところにしかない、趣味の電子工作向きの小物の電子部品を一通りそろえた店がそんなところにもあったのだ。
 
残念ながら電気屋の名前は忘れたけど、物静かでなんとなくあごがそっくり返った感じの四十ぐらいのおじさんがやっていた記憶がある。たぶん、何度も何度も通った小学生の自分を覚えていただろう。
 
最初に作ったのはご多分に漏れずゲルマニウムラジオだったが、まあ、これが、何度作っても一向に鳴らないのである。いろんな雑誌に、いろんなゲルマニウムラジオ製作記事が載っていたので、次々と試してみるのだけど、クリスタルイアホンを耳に入れても、時々、ガリガリ、とか小さくいうだけで、まるでラジオが聞こえない。
 
今思えば、一番の理由はゲルマニウムラジオの感度が悪すぎ、きちんとアンテナがつながれていないせいと、それに加えて配線ミス、そしてハンダ付け不良が重なって、なにをやっても鳴らなかったのは明らかなのだけど、そのころはそういう風に論理的には考えられず、鳴らないのを、ほぼ単純に「部品」のせいにしていた。
 
製作記事には、たとえばバーアンテナ(黒いフェライト棒に細い線をたくさん巻き付けた電子部品)はこれこれという型番のものを使います、と書いてあるけど、ローカルな電気屋には、まず同じものは、無いのである。そこで、おじさんが、これでも同じですよと出してくれるバーアンテナを買って、家に帰って作ってみると、うんともすんともいわない。あ、やっぱり、このバーアンテナがダメだったんだ、と思うわけである。
 
そのうち、自分のラジオが鳴らないのはあのローカル電気屋のせいだ、とまではっきり考えなくとも、何となく、そんな風に思うようになって行った覚えがある。そうこうしているうちに、秋葉原まで遠征することを覚え、めでたく雑誌記事に指定されているのと同じモノが手に入ったときなど、宝物のようにして持ち帰った覚えがある。
 
でも、結局、それで作っても鳴らなかったりするわけで、そういうことを何度も繰り返しながら、だんだん真相に気付いて行った、というのが、自分の電子工作修行だった。
 
ロジカルに考えれば、作ったラジオが鳴らない原因は、配線ミスかハンダ不良か電波不足のこの三つしか、まず、ありえないのである。すなわち、これは全部、自分のせいなのである(電波不足は自分のせいじゃないけど、アンテナ立てない自分のせい)。でも、小学生の自分は、まず最初に自分が原因だと疑うことはしないもので、何かしら外界にあるもののせいでうまく行かない、と考えるわけだ。子供の論理というのは、そういうものだよね。
 
しかし、そういう状態だと、逆に、自分を取り巻いているものが、めくるめくワンダーランドに感じられるのである。自分の周りを大量の「分からないもの」が取り巻いていて、自分はそれを次から次へと渡り歩いて何かをしようとするのだけど、どうしてもうまく行かず、結局はその分からない外界が、なにか自分の知らない不思議と秘密に満ち満ちた世界に感じられるというわけだ。

秋葉原から京浜東北線(国鉄の、ね 笑)に乗って、型番通りのバーアンテナを袋から何度も出して、そのちっぽけな部品を、痺れるような快感をもって見ていた子供の自分を、遠い思い出の反映ではあっても、今でもかなりはっきり思い出せる。
 
大人になって、何かがうまく行かない時、その原因の大半は自分にある、ということが分かってしまうと、そういうことは起こりにくくなる。仮に、原因が自分じゃないということが分かったときでも、大人の場合、その外の原因に対してはっきり対決するか無視するか、ということになってしまい、やはりそこに不思議は現れない。
 
大人はかくのごとく、大変に退屈な種族なので、仕方なしに人工的な不思議を作り出してそれで一時的に遊戯して、当面の満足を得て、また元の現実に戻る、ということを繰り返して生きていたりする。
 
それにしても、子供というのは、まったくのところ「分からないもの」に常に囲まれて生きているわけだけど、そういうものが心に及ぼす快感というのは果てしないような気がするな。大人になっても、そういう「分からないもの」を自分の周りにしっかり配置できる人は、おそらく少ない。たぶん、この事情は、いろんな解釈の仕方があるんで、一概にどうの、と言えないが、僕個人の感覚で言うと、こういう「法外な大人」の代表は、まず、カフカ、ということになりそうだ。
 
それにしても、ああいう子供時代の快感は忘れないようにしたいもんだ。最後にはそこへ戻って行くような気もするし。

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