侘び寂び

自分には侘び寂びの心はわかると思う。自慢じゃないが、というかこんなの何の自慢にもならないが、侘び寂びほど分かりやすい感覚もない。日本人なら誰でもわかるとは決して言わない。というか、昭和から平成になって侘び寂びは表面上はあまり取り沙汰されなくなった覚えがあるので、おそらく若年層はそんなもの学校で出てきたかな、ていどで、その心が分かる若者がそう多いとは思えない。

あと、はっきりしているのが、昭和であろうが平成であろうが、まあ、恐らくそれ以前もそうであろうが、侘び寂びの心は日本にある感覚のほんの一部に過ぎないし、そんなに大それた大きいものであったことは無いように思う。

だいたいが、侘び寂びなんていう言葉自体が、大それたものになることを自ら拒否しているようなもんだ。たとえば、グローバルな侘び寂びとか、地球規模の侘び寂びとか、侘び寂び帝国とか、口に出してみればただのギャグにしかならず、まったくの形容矛盾になるのは見ての通りだ。

というわけで、侘び寂びというのは、ホントにつつましやかなものだ。

たしかに、自分には侘び寂びの心は分かるし、感じるし、なにがありがたいかも分かるし、およそ何でも分かってしまう。しかし、これは個人的にだが、自分は侘び寂びを積極的に賛美したことはないし、正直に言うとあまり好きじゃない。

僕が尊敬し憧れる日本人に兼好法師がおり、彼の徒然草は僕の最大の愛読書である。その彼が、徒然草の中で、この侘び寂びの実例をいくつか引いて賛美しているのを知っているが、兼好のそういう文はあまり好きじゃない。僕が兼好で好きなのは、猫まただ!って腰抜かしたり、しろうるりだったり、芋頭だったり、鬼が出たって右往左往したり、そういう文である。どうも、あの侘び寂びのくだりはインテリ臭くて、すかしてて、洒落者を気取ってて、鼻につく。

というわけで、侘び寂びは分かるけれど、好きじゃない、と。

いや、ちょっと待てよ。じゃあ芭蕉はどうだろうね。

自分は、奥の細道はずいぶんと好きで、古文がたいして分からないくせに、わりと何度も目を通している。特にそこに載る数々の芭蕉の句は、それほど古文の形式に拘ったものは多くなく、現代から見ても平易なので分かりやすく、そんなこともあり、ほとんど、及び難いとまで感じる好きな句がいくつもある。しかし僕には、それらに、侘び寂びの感覚はぜんぜん感じられない。乱暴に一言でいうと、芭蕉のそれらの句は、強さと、大きさ、を現していて、侘び寂びの感覚と逆を向いているように感じる。

まあ、結局、やっぱり、侘び寂びは好きじゃないわけだ。その感覚が分かるだけに、好きじゃない。侘び寂びを有難がってる現代日本人がいると、心の中で、フン! と言ってしまう。かといって、嫌悪したり、馬鹿にしたり、というのは全然違う。第一が、そんなに大それたものか、と言いたくなるのと、あとは、そんなのは心の中にしまっておいてくれよ、という感じかもしれない。

そうか、なんらかの羞恥を伴う感じがあるのかもしれない、いま気付いたが。

しかし、なんの羞恥だろう。侘び寂びは意外とエロチシズムと関係しているかもしれない。あまり深入りする気はないが、そんな気もしてきた。

ところで今日初めてWikipediaで侘び寂びの意味を調べた。で、改めて調べると、侘びは粗末で簡素な様子を、寂びは古びて寂しい様子を表すそうだ。それ以外にごちゃごちゃといろんな人や例を引きながらあれこれ説明しているが、ほぼすべて予想通りのことが書いてある。自分が侘び寂びが分かる、というのは、その心が分かるということなので、そのコアとなる概念を会得していれば、それについての説明は全部自分の予想したものになるのは当然のことだ。つまり、これは特段にタイソウなことではなく、たとえば、誰だって「悲しい」って何? 「嬉しい」って何? と聞かれればその心が分かっているので、特段の説明を要しないし、辞書を調べても、ああ分かり切ったことばかり書いてあるな、と反応するわけで、それと同じようなもんだ。

そういう当たり前な心が形成されるためには、それらの言葉で表されるところのものを、繰り返し感じる環境が必要だが、きっと僕の若い頃に自分の周りにそれがあったんだろう。死んだ親父あたりがオレに侘び寂びを仕込んだのかもしれない。喜怒哀楽と共に。

冒頭に書いたように侘び寂びの心は昭和ぐらいで終わっていて、すでにそれはもう日本人の共通の感覚ではなくなったように思える。それどころか、2015年になって、思い返すとどうだろう。この侘び寂びという、およそ、強さや大きさと正反対を向く感覚から遠く離れて、逆の方向へ向かおうとする光景の方が目に付くようになった。

こうして見ると、やはり自分が思っていたように、侘び寂びには「力」がなかったのだな、と妙に納得する。しかし、その順当な成り行きは、まさに侘び寂びの正当な運命を現しているわけで、実は、その侘び寂びの衰退こそが、その心が本物であったということを示しているともいえる。いくら僕が侘び寂びは気に入らない、と言っても、やはりそれはホンモノだったのだろうね。勇ましいくて騒々しい言動ばかりでいい気になっている昨今の日本人は、少しはそれを思い出した方がいいんじゃないかね。

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