共時性と因果律

ここしばらく、ハイエンドオーディオの教祖のような先生とメール上で議論している。その先生は宮原誠北陸先端大名誉教授。実は僕は宮原先生の裏方の手伝いをずっとしてきたのだが、最近になって先生のやっていることに納得がいかなくなり、議論を仕掛けたのである。もっと正直に言うと、納得できなくなったというより、ハイエンドオーディオという自分のネイチャーと反する仕事に関わっていることが、だんだん嫌になってきたのである。

先生の説は、学会ではほとんど認められていない。ほぼ無視されている、と言っていい。若干の論文は通ってはいるが、大半の論文は出しても出してもリジェクトされる。先生もすでに70歳を過ぎ、高齢なのだが、少数の賛同者を集めていまだにアクティブに活動している。しかし、アカデミック関係の方はさっぱりで、先生の説を聞く者はほとんどおらず、したがって、その根本的な部分を徹底的に議論して明るみに出そうなどという人は皆無である。

そこで、この僕がいま、それをやっているのだ。いったいなぜ、先生の説は学会から無視されるのか。どこが学会の方向性と決定的にずれているのか。そして先生の説は果たして正しい方向を向いているのか、などなどということを、行ける所まで議論しようとしている。

さっき、もう関わるのが嫌になった、と書いたが、それは当の先生というより、「ハイエンドオーディオ」の方なのだ。このあたり、僕のどこに心理的な引っかかりがあって、こういう風に感じるかについては、また別途考えようと思う。そこには「なにか」がある。しかし、容易に取り出すことができず、今のところ放置されている。なので、この「ハイエンドオーディオが気に入らない」という話は、先生との議論には出て来ておらず、僕も触れていない。

僕がいま先生と議論している、その道筋は、僕自身の身を「学会側」に置いて、先生の説を真っ向から攻撃することである。

このブログの題に、共時性と因果律と書いたが、僕は、先生の仕事を「共時性」のたまものだ、と考えてきた。非常に率直かつ乱暴に言うと、僕は先生のハイエンドオーディオを「オカルト」と考えてきた。宮原誠はそのオカルトの「教祖」である。オカルトを扱う教祖のくせして、因果律を絶対視する「学会」という世界をいまだに重く見るなど馬鹿げたことだ。そもそもオカルトは科学にはなりえないのだ。それなのに、先生は自身のことを、純粋に、工学的かつ科学的だと称している。自身につき、なにも分かっていないではないか。

と、まあ、こういう風に思ったので、今度はこの僕が「因果律」を絶対視する人間に成り代わり、先生に思い知らせてやろうとしているわけだ。非常に生意気に聞こえると思うが、先生は工学者ではなくアーティストなんだ、ということを自覚してもらいたいということなのだ。先生はその最初は確かに工学者だったが、もう今ではアーティストの域に入り込んでしまい、もう戻る道は無いのだ、と分かって欲しいのだ。

それにしても、自分は共時性側の人間なので、かなり無理をしてこの役を演じており、途中でこれもまた嫌になるかもしれない。

とかとかいうことを、最近しているときに、4年ほど前に自分がブログに書いた共時性に関する文章を見つけ、なるほど、ここに素描されている共時性と因果律の関係が、ほぼ先生に対する自分の考えをきれいに表しているな、と感心したので、この新しい方のブログに転載しておくことにした。それでは、どうぞ。

(2010年 1月11日 Yahooブログより)

昨年末から3冊ほどユングに関する本を読んでいる。特段の理由はないのだけど、少し前に会社が移転し、そうしたら近くに図書館があったので、昼休みなどにふらっと出かけたりして、それで何とはなしに哲学・心理学コーナーへ寄ってみたらユングが目に付いて借りた、というだけである。しかし読んでみたらとても面白く、さらに共感できるところがとても多く、引き続き借りて読んでいる、というわけだ。

しかし、なんだかユングを読んでいるとうちの奥さんの評判が微妙によくない。彼女だって昔は読んだはずだけど、僕が、なんであまりいい顔をしないのか聞いてみると、今の心理学界ではユングはどうやら少数派で、下手をすると異端扱いされている、みたいなことを言う。それで、ネットであれこれ調べてみたら、たしかに、そんな感じのことがいろいろ見つかった。

僕は2冊目に借りた、彼独特の論である「共時性」についての本に決定的に共感し、とても面白く読んだ。

しかし、この当の共時性で当時ユングはずいぶんと評判を落としたらしい。共時性というのは、誰にでも経験がある、いわばありふれた現象を指して名付けたもので、それは、いわゆる「意味のある偶然の一致」のことである。たとえば、ある日の朝、いつもの電車に乗り遅れたせいで、たまたま車中である人に出会って、そのおかげで新しい仕事につながった、とかいうものである。たしかに、こんな話というのは、色々なところで頻繁に聞くような気がしないであろか。

ユングは、こういう、一般的にいわれるところの「因果律」とは無関係に起こる現象が人の運命を変えたり作って行ったりすることに着目し、それを「共時性」と名付けて心理学の研究対象にしようとしたのである。共時性は、その性質上、因果律で説明できない。まったく無関係な二つの因果(前の例なら、自分が電車に遅れた原因、と、出会ったその人がその電車に居合わせた原因)によって、ある時間に同時に生起した出来事(同じく前例では、車中の出会い)によって、生命の上に新しい「創造」が生まれる(前例では、新しい仕事が生まれた)、という、いわば「どこにでもあること」を科学の上に乗せて論じようとしたのである。

そして、ユングの試みの結果どうだったかというと、かんばしくなかったらしいのだ。まず、共時性の科学的分析はあまり大きく育って行かなかったようだ。たぶん、問題設定が科学的分析に向かなかったのだろう。加えて、常識がただの「偶然」として処理していることを、それとは違った角度から説明しようとするその態度はいきおい、「迷信的」「神秘的」に傾かざるを得ず、さらに悪いことに、ユングは共時性の題材として「易学」や「占星術」などを持ち出したものだから、結局、予想されるどおり「非科学的」のレッテルを貼られてしまったようなのだ。

現代の常識では、易学などは「統計手法」の応用として理解することで処理するのが一般的である。しかし、ユングはこの解釈法については真っ向から反対していて、まったく違った解釈と理解をしようと試みる。その言葉が、当の易学を専門としている人たちの神秘的言動に近くなるのは、むしろ当然のことなのだが、そういった言葉は、現代人が常識として寄って立つ科学の道と著しく反目してしまう。

さもありなんの成り行きである。ユングがこの共時性を言い出したのは後半生でのことで、彼自身、世間に発表するのをずいぶんためらっていたようだ。恐らく、世間の反応がくまなく予想できていたからだと思われる。しかし、彼はこの考え方が遠い未来に重要になるはずだ、と信じてあえて発表したようだ。ユングは、自分が生きている間にこの共時性の学問が花開くなどとは、まったく期待していなかったように見える。傍から見ると、途中で放り出してしまったようにも見える。

さて、自分は、というと共時性的出来事の神秘性については、ほぼ言葉どおりに信じている。

たとえば、卑近なところで言えば、ひところ流行った血液型占いというのがある。僕は決して血液型がどうのという言動はしなかったし、今でもしないが、実は、否定もしていない。ときどき血液型占いの無意味さを口を極めて攻撃している人がいたり、あるいは、あれはただの日本人の血液型と性格に関する統計を利用しただけだ、という人がいたり、あるいはあれは罪の無い遊びの一種で特段の意味はない、という人がいたり、いろいろである。しかし、ひそかに僕は、それらとは全然違う考え方をしていたのである。

なぜ、「密か」かというと、この辺、自分はずるいのだが、攻撃派とまったく違うことを考えていたからといって、血液型占いを信じて使っている人たちに自らがなるわけでもないし、攻撃派が目の前で攻撃しているのを見て擁護派に回るわけでもなく、黙って他人のふりをして静観しているだけで、実際、あまり潔い態度とは言いがたい。

ただ、僕には、攻撃している人たちの攻撃しているモノが、ことごとく例外なく的外れに感じるだけである。

その理由はユングその人の言っていることと同じで、どの攻撃も、すべて「因果律」を元になされているが、その攻撃対象は因果律とは根本的に違う次元にあるものだからである。攻撃している人たちは、結局、「因果律が設定できないことはバカげている」と言っているだけなのである。なんでバカげているかというと、因果律の発見とその適用こそが人に繰り返し利益を呼ぶ、と考えているからである。そして、因果律が発見できないと利益の保証がされず困ったことになると考えているからである。そして、これらは、みな、正しい。しかし、その論理の最終目的が「利益の保証の確保」にあることは間違いない。

人生において、保証された利益は重要だが、それとはまったくタイプの異なる利益も重要なのだ。その利益は保証されはしないが、人に生きられ、新たに作られる性質のもので、結局のところ「創造の喜び」に相当する。保証された創造、というのはあり得ないはずで、本当に生命的な創造というのは因果律からは出て来ない。

そして、この「創造」がなければ社会の進歩もなく、進歩がなければ最終的には保証された利益だって得られない、ということはほとんど常識に属する。したがって、因果律と同じかあるいはそれ以上に大事なものが現に「ある」わけだ。ただ、人は、これに共時性などという名前を付けて、こともあろうに易学を持ち出し、それを科学の一分野である心理学で扱うなどということは許さないのがふつうだ、というだけだ。

そうなると、たぶん、もっとも穏当で、常識的で、バランスのとれた、そしておそらく妥当でもある態度は、人生は「因果律」と「共時性」のハイブリッドで渡ってゆくもので、どちらも大切で、そして、そのバランスの取れた配分を会得することが重要である、という風に対処することであろう。

でもね、こんなところで自分はひねくれてもいて、上記のハイブリッド案は妥当と認めながら、自分自身によくよく訊ねてみると、こういう「いいとこ取り風」の、皮肉っぽく言えば「乙に澄ました綺麗ごと的」な考え方が、「嫌い」なのである。実は、この辺りに自分の無意識に頑固に居座る「なにか」を感じるのだけど、その正体はまだ、分からない。

長くなり過ぎたし、この辺で止めるけど、しかし、まあ、ここまで書いてしまうと、またうちの奥さんの評判、悪くなるだろうな~(笑)

共時性と因果律」への1件のフィードバック

  1. しぃたけ

    >>ただ、僕には、攻撃している人たちの攻撃しているモノが、ことごとく例外なく的外れに感じるだけである。

    血液型占いを信じる人が、もし統計的にミルグラム実験で多く電流を流すのであれば、どうでしょうか。この考えで行くと、
    >>その論理の最終目的が「利益の保証の確保」にあることは間違いない。
    ではなく、「公益、私益上の被害の低減」が念頭に、あるいは無意識上にあるのかもしれません。そもそも、血液型占いを信じる人が、信じなくなった所で利益をもたらしませんが、信じ続ける事で起こる損失は、想定が可能です。

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