テクノロジーピープルとアートの素養

「それにしてもテクノロジーピープルはいい加減きちんとアートの古典を勉強するべきだと思うよ、マジで」

なんていうきいた風な口をきいてツイートしたんだけど、あまりにあいまいで、あと、このツイートの後

「これからのテクノロジーにはアートの素養が必要だとかクソ真面目な意味というよりは、テクノロジーピープルと称される人々はアートを学んで自衛しないとますます食いものにされるだけだよ、というぐらいの意味。」

などと補足したが、これじゃ余計にわけが分からないので、ちょっとここで補足しておこうか。

実は、この手の警句じみたあんまり意味の取れない文句は、書いている自分もあんまりはっきりした意味なしに書いているのである。というか、なんとなく思いつきのカンで書いているのであり、この文句につき、自分にはっきりと主張できる意見というものがあった上で書いてるのではないのである。

ただ、いずれ自身のカンから出た言葉なので、カンが間違っていなければ、あとから自分の言葉を補足したり、解説したりはできるはずで、もしそれが出来なかったとしたら、単に口から出まかせを言うやつということになってしまうわけだ。もっとも、それもいいのかもしれない。ひょっとすると世の中のかなりの「目立つ人間」は、そういう一種無責任なノリで発言をしているかもしれない。いや、たぶん、そうだろう。しかし、それはまた別の問題だ。

ただ、この言葉、知り合いの若い子が少し反応してくれたんで、やっぱりいわゆる「解題」を書いておこうかな、と思ったのである。

ただ、本音を言うと、書きにくい。自分は仕事がらテクノロジーピープルの一員なのであり、僕のいわゆる仕事仲間もテクノロジーピープルが多いわけなのである。その人たちは自分の知り合いなので、なんだか、この「少しはアートの勉強しろや」ってのが、その人の中の誰かを指して言っているように思われかねないからである。でも、そんなことを言っていたら、なんにも言えなくなるし、面白くもないので、この個人ブログにでも書くか、ってところである。むろん、誰それを名指しで批判したりしているつもりもなければ、悪意もまるで無いのだ、と前置きしておこう。この先、読むんだったら他人事だと思って読んでほしい。あるいはもし思い当たるふしがあるのなら僕のような年配からよくある苦言かなんかだと思ってもらってもいい。

実は、なんで冒頭で紹介したツイートみたいなことを言いたくなったかというと、先日、学会から放送のインタラクティブコンテンツについて書いてくれと頼まれて原稿を書いたのだが、その最後の方に、こんなようなことを書いたのである。

「テクノロジーがアートで終わってしまってもいいじゃないか。それにしても、これからのテクノロジーはますますアートの素養が必要になって来るだろう。ただ、そのテクノロジーアートが本当に開花するのは、テクノロジーピープルがアートの素養を身に付けたあかつきの、そのまた後になるだろう」

これを書いたとき、僕の頭の中に、かのスティーブ・ジョブズがあったのは確かだ。彼はテクノロジーピープルではなく、基本、クリエイターでありアーティスト系の人間だろう。その彼が、テクノロジーの最先端を率いて自身のアート的理想を注ぎ込んで、かの世界の賞賛の的になった発明を生み出したわけだ。僕は、ジョブズのファンではない。むしろ、テクノロジーピープルの一員として、ジョブズみたいな傍若無人な人間と働くのは、はっきり言ってごめんだ。

まず、一つ言えるのが、ジョブズが自身のアート的理想をきっちり具現化できるところまでテクノロジーが進歩した、そんな現代の世の中になったということだ。すでに現代ではテクノロジーとアートは切り離すことのできない代物になっている。そんなときに、テクノロジーピープルが昔のまんまのナイーブな「技術者」に終始していた場合、単にわけも分からずクリエイターたちに利用され、それで終わっちゃうだろう、と思うわけだ。

特に心配になるのが、堅物の技術屋ならまだいいんだが、自分がテクノロジーを提供してアートの理想の実現に一体となって参入している、という一種のロマンチシズムを持っている人だ。ジョブズが分かりやすいので、まだジョブズを引き合いに出すが、ジョブズの抱くクリエイター的理想の実現にテクノロジーを提供して全力を尽くし、偉大なアーティストを信奉して貢献する、という光景はうるわしくはあるのだが、もし、そのテクノロジー人間が当のアート自体をはっきり認識し理解しておらず、単にアートという言葉の響きにロマンを感じる程度の場合、なんだか見ていて気持ちがよくない。

これは自分の憶測だけど、そういうアートに対するロマンを抱いたエンジニアって、けっこう存在しているんじゃないかと思っている。それで、そういう人が情熱的で、いい人で、素朴だったりすると、ますます救えない感を自分は抱いてしまう。

だって、アートって、エゴなんだぜ。実はアートって恐ろしいもので、通常、有害なものなんだぜ。

この基本をテクノロジーピープルが理解していない場合、いいようにアーティストのエゴの犠牲になる図式が見えてやりきれなくなる。まあ、本人、それでいいのだろうし、他人の俺が介入する余地はないだろうし、理想に向かって身を粉にして働いているのだから、本人幸せだし、達成感もすばらしいだろうし、文句は無いはずなのだけど、エンジニアのひとりとして自分が見ると、どうにも嫌な光景に映ることがある。

アートを高尚だと思い込むのも、ナイーブなエンジニアの悪い癖で、高尚なものに奉じているのだから、それで幸せなんだか、あるいは、その高尚さで貧弱な自我を隠して見えないようにしたいんだか知らないが、心理学的に問題を感じることもある。

ということで、エンジニアにはぜひ、アートの古典を勉強して、エゴなアーティストにタダでいいように使われないようになって欲しい、と思うのである。あるいは、別に使役されていてもいいが、自分が本当には一体何に、どのような経緯で、使われているか、自身で正確に把握して、仕事してほしいのである。それならいい。生きるためだもの。

さて、僕のツイートで言うところの「アートの古典」の「古典」という言葉についてだが、古典といっても、ルネサンスからレンブラント、バッハからモーツァルトとかの古いことを言っているわけじゃなくて、近代以降のことである。絵画だったら印象派以降、特に、フォーヴィズム、表現主義、ダダ、キュビズム、シュールレアリスム、ポップアート、などなどのモダンアートが出たところから後である。歴史で言えば近代史ということになると思う。ただ、その、伝統に基づくアカデミズムに反逆するモダンアートというものが、どんな背景で生まれたかについて正確に理解するにはルネサンス、あるいはもっと前からひも解く必要があるわけだが、そんなことしてたら美学生みたいになっちゃうわけで、そこまではやることはないと思う。

僕の頭の中にあるのは、やはり、昨今のテクノロジーアートなのである。このテクノロジーアートは、昨今、なんだかホントに食えない代物になりつつあるような気がする。アートっていうのは、単に新しいことやればいいわけじゃなく、単に面白いことやればいいわけじゃなく、単にテクノロジーをアートっぽく移し替えればいいわけじゃなく、それだけではダメなんだが、実際に氾濫するテクノロジーアートの大半は、それである。

そりゃあ、数うちゃ当たるわけで、中にはいいものもあるし、そういう混沌とした世界から次世代の新しさ、というものが生まれる、と言ったっていいけれど、僕はあまり賛成しない。ただ、むやみに楽しいからってテクノロジーをいじって珍奇なものを大量生産している光景は、見ているとげんなりする。特にテクノロジーの一般人たちに、少しの新規アイデアさえあれば作品まで持って行ける環境とスキルがかなり簡単に付与されているせいで、この光景は拡大している。

とある古株の先生が、いつだったか、NHKで、ダビンチの最後の晩餐をフォトショップでレタッチして、元の画像を復元した、というのをやっているのを見て、それこそ頭から湯気を出して怒っていたことがある。芸術に対する冒涜だ、というのである。ここでは、当の行為が冒涜か否かはそれほど大事じゃなくて、問題は、「冒涜だと怒る人間の感覚」の方であり、「フォトショップレタッチでダビンチの真相を再現したいと思う人間の感覚」の方なのだ。すなわち、その人の日常感覚が、アートにかかわる行為を見たとき、それに対して「心理的に、無意識的にどう反応するか」ということである。

すなわち、ダビンチの作品を巡って「行動する人たち」の感覚の問題なのだ。僕は、ここで、即座に反射的に、冒涜だ、と怒る感覚を大切にしたいのである。本当に冒涜かどうかは後で考えればいい。そういう心が、大切だというのだ。

それにしても、別に何をレタッチしても構わないが、ただもう無邪気に、ダビンチという古典の大芸術家の真相に近づくために、フォトショップというテクノロジーを使って、それを解明したい、という、その「無邪気さ」は、本当に救えない印象を与える。無邪気なのだ。素朴なのだ。善意なのだ。何にしても、「いい人」がそういうことをするのが一番救えない感じを持つ。悪いやつは何をしてもいいが、いい人がただもう無邪気に下らないことをする、というのは何という害悪だろう。

たとえば、そういう善意の人たちって、モナリザにヒゲのいたずら書きをしたマルセル・デュシャンとか、ちゃんと知っていて、それでその行為をちゃんと理解しているだろうか。アンディ・ウォーホルがキャンベルのスープ缶のシルクスクリーンを刷ってアートだと言って量産したときの、そこに群がった人々の喧騒とウォーホルの孤独をちゃんと感じ取っているだろうか。そんなはずはないと思う。

テクノロジーピープルって、ピープル呼ばわりしたのは、一般人のことを言っているからだ。エンジニアの中にも抜群のセンスの持ち主は一定数必ずいる。そういう飛び抜けたエンジニアは、アートの古典は理解しているし、仮になんにも勉強したことがなく、古典など知りもしなくとも、そういうことはカンで理解しているものなのだ。だから、そういう少数の優秀者は放っておけばいいのである。問題は一般人の方だ。さっき、そういうエンジニアピープルがアーティストにいいように使われるのが忍びないと言ったけど、今度は、そのエンジニア自身がアーティストになりテクノロジーアートを作り出している場合は、忍びない、だけじゃ済まなくなる。

もうこれ以上は言わないが、頼むから、そういう人々に、モダンアートの歴史を勉強して欲しい。そして、そのモダンアートの作品の意味を理解できるようになって欲しい。今の現代の僕らが、無邪気にテクノロジーでめちゃくちゃなものを作って遊んでいられるのも、過去のモダンアートの黎明期に、多くの才気あふれる芸術家たちが、伝統を受け継ぎながら、それと戦い、そして苦々しくも厳しい実践を経て、それで勝ち取った歴史があるがゆえだ、ということを認識してほしい。彼らの多大な知的努力の上に、これらのほほんとしたテクノロジーアートが許されているのだということを知ってほしい。そして、無邪気な僕らのアートとて、そういう過去の芸術家たちの筋金入りの理性と理論が、今でもその裏を支えているのだ、ということを認識してほしい。

以上が、自分がテクノロジーの人たちもモダンアートを勉強した方がいい、という言葉のだいたいの意味なんだが、まあ、ここまで書いてみると、もうどうでもいいかもしれない。こんなに一生懸命に言ったところで何が始まるわけでもない。というか、古い世代の人間の言うことであり、俺も若い世代に説教をする年頃になったか、というだけかもしれない。自分は説教は得意じゃないし、好きじゃない。ただただ、見ていていらつくことがあるので、その意趣返しに書いているだけだ。

僕の仕事は、実は、まさにテクノロジーアートなのだけど、自分は、正統派として、現代の趨勢の否定と、伝統からの脱出、をかかげて仕事するよ。それをテクノロジー界で自らがきちんと示すことが大切だ。愚痴を言っている場合じゃないし、啓蒙はがらじゃない。このへんにしておこう。

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