幽霊について

夏は幽霊、ってことで幽霊についてつらつらと。

実は、Facebookかどこかで幽霊についてコメントしたら、ある人から、林さんの言うことはなんとなく文学的でよくわかりません、林さんにとって幽霊って何ですか、と端的に聞かれたので、たしかに、と思ったのである。それ以来、ああ、幽霊について書いておこうかな、と思っていたのだけど、そのままになっていた。

自分は重い腰を上げてしか書かないので、今回もそうなんだけど、まあ、書いている。本当は自分はもの書きで生計を立てたいと思っているのだけど、これでは明らかに難しい。だから、きっと、いまだに文章で生活して行くことができていないんだろう。ま、それはいいとして。

Facebookにも書いたし、ことあるごとに言ってはいるんだけど、自分は幽霊は信じる側である。ただ、文学的に信じている傾向は確かにあって、「幽霊というのはこうこうこういうもので、その存在を信じています」と、端的な言い方で言えない感じがある。なので、自分は幽霊を信じますよ、と言って、人に、どういう風に? と聞かれてしまうと、どうしても話が長くなってしまう。なぜなら文学的に、なかば観念的に信じている傾向があるからだ。

そんなのは信じてる、っていえるのか? そんな回りくどい説明じゃなくて、そのものずばり、幽霊という「実体」をお前は信じているのか否か? と詰め寄られたときどう答えるか考えてみると、自分は、それでも、「信じている」と答えると思う。

ここで「実体」に関する、果てしない文学的、あるいは哲学的な考察に入っていってしまうのは話が違っちゃうし、止める。と、いうか大変すぎてできない。自分としては、だいたい2000年に入ってからだと思うのだけど、「実体」とか「事実」とかいうものが、見る見る間に解体されて行くように感じ始めるようになったことは確かで、これについては以前、このブログの「事実とは何だろう」にくどくど書いておいた。

実体や事実が解体されてしまえば、もう、幽霊を信じる信じないも、ない。現実そのものが幽霊みたいなもんだ。最近ときどき、2000年から10年以上経ったけど、このままどうなってしまうんだろう、と思う。もっとも、困ることはない、むしろ解体が本当に終わったらすっきりすると思う。

さて、幽霊の実体についてだけど、自分には、幽霊を「見た」という経験が皆無ではないけれど、とても少ない。人の形をした幽霊は見たことが無い。見たことがあるのは、今思い出せる限りでは2回で、いずれも「渦巻き」だった。幽霊とは呼べないかもしれない。

一つは、昔住んでいた家の近くにあったうらびれた神社で婆さんがお祈りしている光景に偶然遭遇し、そのとき周りの木々が婆さんを中心にざわざわと渦巻いて見えたこと。もう一つは、恐山の宿坊に泊まったとき、夜、独りで野外の風呂小屋に風呂に入りに行ったとき、脱衣場の天井の隅っこに渦巻きが見えたこと。この2回である。いずれも時間にして数秒の出来事で、いずれも気味が悪くなり、逃げ出した。

と、ここまで書いてなぜだか感じるのだけど、なんだか、自分は何度も幽霊を見ているような気がしてきた。どうしても思い出せないけれど、何度もどこかで見ていて、しかし、でも、自分が、それを、故意に覆い隠して、忘れているような気がしてきた。

何で、こんなことを思うんだろう。

やはり、それというのも、死んでしまった「なにか」が、今でも生きている、と感じることが多いせいかもしれない。

一番簡単に解決する考え方は、たぶん、現に今生きている人の中に死んだ人の思い出が残っているということ、そして、死んだ人の残したものが、現に今物理的に残っているということ。そういう、過ぎ去った過去の残存物が、現在生きている人をして、あるタイミングで、幽霊という心的実体としてその姿を現す、という考え方だろう。つまり、死んだ人は既に完全に「無」なのだけど、この世に残った残存物が、現在の人の心象風景に現れる、ということ。すなわち、幽霊は徹底的に現に生きている人の心が作り出した単なる心理現象である、という風に考えることが、一番、ありそうな、そして、一番科学的に感じられる解決なように思う。

でも、本当に、そうか。

この考え方で説明できないのは、まったく関係の無い複数の人々が、同じ幽霊の実体を見ることがあるという現象だろう。もっとも、この場合は、ある物理現象が現実に発生した、として、それをめいめいが目撃し、そこに自分の心象を重ねてそれを幽霊と解釈しているのである、という説明の仕方になるだろうね。たとえば、墓場の人魂を何かの燃焼現象で説明するような、そんなやり方になる。ある人は、この炎を見て、自分の婆さんの幽霊と思うかもしれないし、ある日とは死んだ友人と思うかもしれないし、ある人は驚いて腰を抜かすかもしれない。

そんな風に考えて行くと、結局、幽霊の、いわゆる科学的な物理的な説明の仕方というものと、心理的な説明の仕方というものと、そのものずばり超常現象としての説明の仕方という複数の説明の仕方は、遠い将来のどこかで一致するのかもしれない、という風に考えることが、もっとも素直な流れのようにも思える。

たとえば、近代になってからの科学では、この世で起こる不可思議を許容することができるような理論がいくつも出てきた。不確定性原理と量子力学、不完全性定理、複雑系とカオスなどなどである。これらが意味するところのものがさらに解明されて行けば、いわゆる超常現象的なものも、科学が対象とする「現実」の枠組みの中で解明されるときが来るのではないか。そして、そのときには、物理科学と精神科学は一致し、大団円を迎えるのではないか、という予想である。

自分はもともとは理科系で、大学以降に、文学そして哲学に興味を持ち、ときに耽溺し、今に至るので、上述の大団円を一番信じてもよさそうな人間なのだけど、実は、こういう風景をあまり信じる気になれない。要は、そういう結末がイヤなのである。

なぜイヤだと思うか、というと、これはほぼくだらない理由だ。つまり、幽霊の居場所がなくなっちゃいそうで、つまらないのである。

もっとも、その大団円が来たとしても、生命や、精神や、運命の、不可思議がなくなるわけでは毛頭なく、単に、物理現象と心霊現象の原因に関する不毛な戦いに決着がつくだけであろうから、別にかまわないはずだ。だから、結局、イヤだという感想も、たいした意味はなく、さっき下らない理由と書いたのである。

それにしても、こうやってあれこれ書いていると、やはり何となく哲学系に走ったりする。もう少し本題に戻そうか。

いま思い出したが、この幽霊話のそもそものきっかけは、幽霊を信じるか信じないかの調査をしたら、半数以上の日本人が幽霊を信じる、という結果が出たというニュースだった。これを見て、ああ、順当な結果だろうな、と思った。僕の周りの友人などを思っても、まあ、半分以上の人が、幽霊は信じる、って答えているように思うからだ。

いわゆる超常現象については、そもそも科学を持ってしても、それが錯誤か否か決定できないのだから、幽霊は結局分からないものに終始する。それならば、否定しちゃうんじゃなくて、一種の人生の楽しみや刺激の一種として幽霊は信じますよ、という態度でいた方がいい、ということもずいぶんあるだろう。僕がさっき、物理と精神の科学の大団円を望んでない、と言ったのも、結局はそんな理由である。

幽霊を信じていた方が、人生が楽しく、さらに豊かにもなるとしたら、信じた方が得だろう、と、こうなるわけだ。

それにしても幽霊もなめられたもんだ。ホントはすごく怖いのが幽霊なはずなのにね(笑

実は、自分は、たいそうな怖がりで、以前、映画の「リング」を見たときも、およそ一ヶ月は怖くて電気を消して寝られなかった。だから、幽霊は信じますよ、とかあっさり答えてはいるものの、本当に幽霊が出てきたら怖くて参ってしまうに違いない。

未完

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。