エントロピー増大の法則など

Cinderというアート科学系のプログラム環境で少し遊んでいる。

そこで練習用にここにつけたムービーをプログラムしてみた。別にむずかしいことはぜんぜんなくて、粒を100個真ん中に集めて、その次に、それぞれの粒にランダムな速度と方向を与えてから、せーの、でリリースするってだけである。

当然、100個の粒はブワーンと爆発して飛び散り、壁で反射してすべてバラバラになる。しばらく見ていても単に100個の粒がでたらめに空間を飛んでいるだけだ。考えてみるとこういう結果になるのは目に見えていて、当たり前すぎる。

それで、こんなことをして遊んでいるときにふと思ったことがあり、その話。

エントロピー増大の法則という有名な物理法則がある。この法則は決して破られない鉄壁の法則といわれたりしているらしく、非常に確かなものだそうだ。で、どういうことかというと、整然と並んでいるものも時間が経つとバラバラになる、という法則だ。

もっともこんなバカっぽい定義なわけはなく、元々は熱力学第二法則というもので、熱は熱いものから冷たいほうに移動し時間が経てば温度は均一になる、というものから来ていて、法則を表す難しげな数式もある。

エントロピー増大則は、見ようによっては、その内容がとっても悲観的に感じられるので、これまでいろいろ拡大解釈されてきたそうだ。なにせ、何にもしないと全ては結局はバラバラになり無意味な乱雑さの中に埋没してしまうのだ、そしてそれは避けることはできないのだ、と、法則が言っているのだから。

そんなこともあり、よくエントロピー増大則について言われるのが、人が行う「創造的行為」や、生命の「進化」はエントロピーの法則に反している、という物言いである。ただ、これらは当の法則の適用範囲を間違えているだけで、不当な批判だ、とするのが順当な科学的態度のようである。

まあ、それはいいんだけど、この自分の作ったプログラムなんだが、これって見た目はまさにエントロピー増大の光景なのである。

真ん中に固まった100個の粒がしばらくすると乱雑な運動になってしまう。しかもしばらく見ていると分かるけど、この四角のウィンドウの中のどのエリアを取っても他のエリアと差別化できない。ほとんど同じような乱雑な光景になっている。いつまで見ていても決してこの100個の粒は最初のように真ん中に一つにかたまりはしない。あるいはそこまで行かなくても、一箇所だけ真っ暗なエリアができるとか、そんなこともない。

試しに一晩、動かしっぱなしにしてみたが、朝起きても乱雑のままだった。俺が寝ている間にかたまりに戻ってまたバラけただろうか。しかしそんなことはありそうもない。

なんでだろう?

しかしだ、これについては「なんで?」と問うまでもなく、思い切り「自明」なことじゃないだろうか。だって、複数の粒がランダムな速度と方向を持っていれば、それらが空間を広がって行くのは、どう考えても当たり前のことじゃないだろうか。不思議でもなんでもない、自明なことだ。同じ長さの直線がぴったり重なるのと同じぐらい自明なことじゃないか?

たとえば、100個じゃなくて2個だとしよう。空間に点が2個並んでいて、この二つの「速度」と「方向」のどちらか、あるいは両方がほんの少しでも違っていれば、こいつらは最初は同じような方向に動いていることもあるだろうが、時間が経てばどんどん離れて行き、しまいにははるか遠くに離れ離れになってしまう。これは当たり前のことだ。

ところで「エントロピー増大の法則」というのは、自分は基本は物理法則だと思っていた。なので、この法則は物質の観察によって得られたものということになる。というわけだから、なんだか知らないけど「宇宙の宿命」みたいなものがどこかにあって、そいつのせいでエントロピーはどうしたって増大する方向に行くのだ、それが「定め」なのだ、と、実は自分はこれまでそんな風に思っていた。

でもこのたかだか100行ぐらいの小さなプログラムでやってみて、初めて気が付いたのだけど、もしこれがエントロピーの増大を表しているなら、これは宿命でもなんでもない、ただの自明なことだったんだ。

ただし、同じ長さの直線がぴったり重なるのを見て「なんたる逃れられぬ宿命か」、などと感じる人はこの限りではない。いや、たしかにこれだって宿命だ。でもこの宿命は、「人間というものに生まれたとは何たる逃られぬ宿命だ」と言うのと同じなので、そういう意味ではエントロピー増大が自明なことだとしても、たしかにこれだって宿命だ。

というわけで、「速度や方向が違えば離れ離れになる」という自明なことが、「たくさんの粒」とか「最初にひとところに集められた粒」とかそういう条件を経て、回りまわって「秩序あるものは時間が経つとバラバラになる」という極めて心情的に運命的な命題として「人間の心に感じられる」ようになる、ということは、これは不思議なことではあるまいか。

いま遊んでいるこのcinderだけど、極めて単純な規則の繰り返しから、極めて複雑で変幻自在な世界を作り出すのに向いたプログラム環境だそうで、これをCreative codingと言うそうで、最終的にはアートを作り出すツールだそうだ。

科学側で言うと、この分野では、フラクタル、カオス、複雑系、というあたりが関係する。単純な一片の数式が扱いようによって永遠に手に負えない複雑さを表す、というものなのだけど、とても面白く、不思議で、これ自体は自明でもなんでもない。

例をあげよう。ほんの1行で書けるニュートンの万有引力の法則に従う3つの物体があったとき、これらが時間を経てどのような動きになるのか予測することは本質的に不可能だ、というのがある。これは三体問題と言われているけど、数学的に解けないのに加えて、3つの物体が最初にどこにどのように存在しているか、という、いわゆる初期値がほんの僅か狂うと、未来の違いはとんでもなく大きな違いになって発散してしまう、ということが、数学的に証明されているのである。

でも、実はこれも本当は自明なことなのかもしれない。僕らが感じる「単純」と「複雑」というものの由来そのものに問題がありそうだ。ただ、この二つを眺めて同じものと感覚的に納得するには、あまりに僕らの脳は知性的すぎる。

東洋ではよく、悟り、といって、瞑想によって真実を知るという方法が言われるけれど、そのときの「悟り」という方法が、この、生物や物体のまとった手に負えない複雑さを、見方をまったく変えることで、単純な悟りに還元するのかもしれない。

実はときどきそんなことをよく漠然と思ったりする。

ちなみに、この東洋の悟りだけど、こういうことを思うとき僕はいつも、かの「空海上人」の悟りを連想する。というのは、昔読んだ澁澤龍彦の高丘親王航海記の中に出てくるシーンを連想するからだ。ひょっとすると間違って覚えているかもしれないけど、こんな感じだった。

親王は飛行機のようなものに乗って果てしない砂漠の上を飛んでいる。砂漠の砂にはできそこないの怪物の屍のようなものが点々と埋まっているのだけど、その上を風を切って軽々と飛んでいる。そして最後に巨大な岩場のようなところに到着すると、親王はその岩の窪みに一人の隠者が瞑想にふけっているのを見る。近寄ってみると、それは空海であった。親王は跪き、お懐かしゅうございます、と言うと、無言の空海の目から涙が流れた。

というものだ。たぶん、上記、ぜったいどこかがおかしいと思う。涙を流すのは空海じゃなくて親王だったかもしれない。いま、その当の本を持っていないので確かめようがない。でも今となってはどっちでもいい。死んだ澁澤さんだって、あの世でどっちでもいいよ、って言うだろう。

とにかくこの、空海の目から涙が流れる、という光景が頭から離れず、常にこのイメージが頭の中にある。そして、これが悟りというものの自分にとっての象徴になってしまっているようだ。

ところでコンピュータプログラムは数学だ。それで、それに基づいて絵を描かせると、かなり簡単にフラクタルやカオスや複雑を作り出せる。「単純」から「複雑」へ。これはエントロピー増大の法則でいう、「秩序」から「無秩序」へ、という関係と平行しているように見える。それで、さっき言ったようにこれが自明なのだったら、このような関係はすべて自明なことなのかもしれない。

そして、その逆の道、つまり「複雑」から「単純」、「無秩序」から「秩序」という道は、なにもしなければ、無い。

でも、きっと人間の知性を注入することで、「無秩序」から「秩序」へ、そして「複雑」から「単純」へ至る道はあるのだろう。エントロピー増大則は閉じた系での法則で、何か別のものが流入した場合は法則と別の現象が起こりえるのだ。だから「知性」が流入することで、「複雑」から「単純」へ移行する、と考えてもいいような気がする。

でも、自分は複雑から単純へ移行させることにそれほどの情熱は持てない。言い換えれば「知性」にそれほど執着がない。むしろ、単純から複雑へ移行する道を自分も辿ってみたい。ベルグソン流に言えば、単純から複雑へ移行するオートマチックな動きは「本能」という。そっちの方がずっと魅力的に写る。

まあ、これらは空想の次元で、哲学にもなってしまい、収拾もつかないので止めておくが、いつかは解明されるだろうね。

などなどと考えながら、北欧の雪と寒さに閉ざされた中を過ごすのも、まあ、悪くない。

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