名文

朝、なんとなく手に取った文庫は小林秀雄だった。詩人の中原中也の思い出を書いた文を読んだのだけど、やはり、見事な名文だ。こんな文章を書ける人は、もう、ほとんど出てこないのだろうな。文体というものの姿もインターネットの登場でずいぶん変わった。文体は今では万人が着ている服装のようなものになった。今では、人々は文体というものを、その文章を書く人の外見のように眺めていて、要するに、人がしゃべっているところをカメラの眼で見ていることに近い事情になっているように思う。書くことと話すこととの間にだんだん差がなくなって行く過程とも写る。人々の求めているものが変わったせいで世の中で流通する文体が変化するということと、人々の書く文体が変わったことで世の中の好悪が変化して行く、ということは同じことなので、日本語の文体の姿は、はっきり、変わったのだ。さて、それにしても、冒頭に書いた先の小林秀雄のエッセイなどを読むと、なんだか強烈なぐらいの味わいがあり、それゆえの安堵感、そして大げさに言うと人生の充実感のようなものを感じるのは、これは確かなことだ。それはひとえに、その文体に「深い」なにかが刻まれていることが伝わって来るからなのだが、今の時代、こういったものに接することは極端に減ったね。僕は、それは時代の流れであって仕方ない、とは言わない。やはり名文は名文であって、その文が名文か否かを判断できる人は育てないといけない。でも、今の人間にそれら名文を書けとは言わない。名文か否かが分かる感性を内に持ちながら、現代風の安い文体を書き飛ばす人がたくさん出て欲しい。と、言うか、自分はそういう文章書きを目指したい。

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