ある種のアメリカ人エリート

アメリカ系のある種のエリートは、アクティブさ、バイタリティ、スピード、どれもちょっと日本人と次元が違う高さを感じることが多い。日本人は、結局は、その本性がなんだかずっと静かで、静的な感じ。なんだかんだで俳句と浮世絵的感性で勝負、ってことになってしまうのかな。少し前の文で、常に動いていないと落ち着かない現代人は、少しは「動かないこと」を見直したらどうか、と書いたが、それと同時に思ったことは、でもそれじゃ現代国際社会を生き抜けないだろうな、ということだった。「動き」が基本な社会は、やっぱりアメリカ系から来てるのかな。癪だけど、今のところこのグローバルスタンダードは止められない感じ。それにしても、日本。さいきん聞いた子供の運動会の話で、学校が近隣の騒音苦情をそのまま受けて、音楽なし、徒競走のピストルなし、なんていう運動会をやっているそうだ、なんてことを聞いた。そんな小学校で育った子供が、将来アメリカ人に勝てる気がしない。まあ、あんまり関係ないんだが、ときどき、グローバルスタンダードに西行さんと写楽さんで対抗だなんて戦闘機に竹やりに近いのかな、などと思ったりする。やはり、グローバルスタンダードに真っ向対決するよりは、当のグローバルスタンダード自体の方をなんらか変質させる道を日本人は開くようにする気持ちでいた方が、いいような気がする。

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