西行

春になる桜がえだは何となく花なけれどもむつましきかな

ある朝、ぼんやりして手にとった文庫本をたまたま開いたらこの言葉がでてきた。そう、これは、西行の句である。いまから八百年以上も前、当時の大変な社会に生きる苦労を思うと、こんな句が読める人はさぞかし心がきれいだったのだろうと思う。

心がきれいか・・・ 年月が経つと、汚いものは風化してしまって、きれいな心しか残らないのかもな。西行だって歩いて息をしていたときは、別にそうそうきれいばかりじゃなかったはずだよな。と、いうか、西行の場合、なんだか、ひたむきな苦労、とでも呼べそうなものを感じるのだけど。

ある人があくせくと生活して、苦労して、それで死んで、それで思い出になって、それで年月が経って、余計な雑音が風化して消えて、さて、それで最後の最後に残ったその人の魂が、その人の評価を決めるのかな。もっとも、これじゃ、ちょっと、考え方が年寄りくさいか。

ところで、西行の句には、先に言ったひたむきな苦労みたいなものについての苦しみを歌ったように感じるものがいくつもある。先日、図書館でたまたま借りた本の筆者によれば、西行は若くして出家する前、心を寄せていた高嶺の花の女がいて、出家の理由のひとつはその女に対するかなわぬ愛であり、彼は、出家してから死ぬまでの長い間、その女への慕情を常に心に抱きながら句を詠んだ、と書いてあった。

そう思うと、彼の句に現れている、先に言ったひたむきな苦労、という感触もすっかりとうなずけるものになる。

でも、どうなのだろう。たとえ、それで解釈が可能になったところで、結局は「なるほどね」、で終わってしまうかもしれない。少なくとも自分は、そうだ。女への生涯変わらぬ一途な慕情というものを持つことができた西行という人間と、さらにそれを元に句を詠んだその芸術家としての資質、といったものの方が、その解釈よりもずっと重要で、そちらの方は性質上、解釈のしようがない。

西行という人間がいて、詠んだ句があれば、それで以上だ。そしてその人間と作品の二つと、今の自分が相対している、ということだけが重要に思えるし、それで十分だ。そう考えちゃうと、いわゆる客観批評は用がないということになる。

ということで、批評というものも、その批評をする人間込みで、価値の高い低いが決まることになる。そうなると西行と批評家は同じ地点に立つことになる。それで、冒頭にあげた句を読む心と同じ心を持って西行を語る、ということが仕事になる。

ということは、結局一番大切なのは思考能力ではなく、想像力だ、ということになる。

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