善悪の枠組み

オレの元同級生の友人にこれまでさんざんBlogtwitterをすすめたが、ヤツいっこうにやる気配なし。あいつは「走り」、つまりマラソンが趣味なヤツで、 まあ、彼の立場から見てみれば、このオレにジョギングやれって言っても一向にやる気配なし、と同じようなものか。

「おまえもtwitterぐらいやれよ」「おまえがジョギングしないのと同じさ、イヤだね」という会話は、ディベート術的に言うとtwitterからジョギングへの論点の不当なすり替え、ってことなのだが、それは「論点」が「twitterの効能」にあるからで、相手にしてみれば、その勝手な論点の設定が不当ということになる。ここで「やるとよいことは知っているけど、やりたくないからやらない」ということを論点にすると、twitterすることとジョギングすることは同じ土俵に乗る。

twitterをやると、何がいいの? 小さな発散? ライフログが残せて後で楽しい? 他人の生態が感じられる? 世界が広がる? ゆるい情報交換で仕事に役立つ? などなど。

ジョギングやると、何がいいの? 運動不足解消? 目標の達成感? 外界の空気を吸ってリフレッシュ? 同じジョギングの仲間作り? などなど。

こうやって2つの事柄の「よいこと」を列挙すると、だいたい対応するものが見つかるわけだ。きっとこれは「悪いこと」でやっても同じことになるだろう。それじゃあ、結局、「twitter」と「ジョギング」って「内容」が入れ替わっているだけで、それを容れる「枠」は同じってことじゃないか。ま、こういうのを、構造主義っていうんだよな。「枠」すなわち「構造」がものごとを作り出している、という考え方だ。

ところで、構造主義のレヴィ・ストロースが、当時論戦常勝の実存主義のサルトルに勝った、っていうことになってるらしいのだが、でも、なんだか、これを聞いたときは痛快だった。オレは世代的に実存主義の空気で育ったはずなのだけど。

しかしさいきんはね、善悪っていうのが、かなりのレベルでなんだか分からなくなってきたよ。オレたちは、原理的に善悪の枠組みを変えることができる、つまり、オレたちは善悪の基準を作ることができる、ということが実感できるようになってきた。ということは、オレたち自体は善悪を超えたポジショニングができる、ということも薄々わかってきた、というか。

それにしても、オレたち庶民のように、移り気で、見識があやふやで、いい加減で不徹底で、他人の意見に影響されやすい、そういう人間たちのかたまりが善悪の基準を作れるようになってしまう、というのははなはだしく危険なことなんじゃないか、とも思えてくる。さらに恐ろしいことに、我々めいめいが善悪を超えたところにいる、いわゆる善悪の彼岸にいる、と感じはじめたときだ。なぜなら、その論理的帰結として「われわれは何をしても許される」ということになってしまうからだ。

さて、まさにこういう風に感じ始めたときこそ、古典の空気が必要なときだ。なぜなら、古典として名が残っている思想家たちは、みなめいめいの時代の中で自分は善悪の彼岸にいると強烈に自覚した人間たちだったからだ。もちろん当時はなかば密かに、であるが。

ということで結局、このように庶民が善悪を作る時代になったとき、めいめいがしなくてはいけないことは、過去に戻って偉人たちの吐いたよい言葉の空気を吸うことなのだと思う。

でも、まあ、善悪の話なんていうのはタイソウな話なんで、あんまり人前ではしない方がいいかもな。

しかし、やっぱり、今日電車に乗ってて漠然と思ったんだけど、かつて実存主義的だった自分のものの考え方も、時代が進むと共に構造主義的に変って行った。それは確かだ。とはいえ、それでも変らない自分の心ってのがあって、これは一貫しているように思えるが、はて、どんな心だろうね?

心、心、と。 これは一種の矜持のようなものかもしれないな。

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