理念と魅了

また最近、Jordan Petersonの日本語訳とかやったりしているので、彼のことを考えるのと、あと、彼の周りで起こっている騒動を英語のソースで眺めてみたりすることがいくらかあるのだけど、いろいろ思うことがあるな。断っておくけど、僕はなぜだか数年前から、Petersonから距離を置いている。

世界は問題で、はち切れんばかりになっているけれど、平均した人々の生活は改善され続けている。何年か前から、これは日本でも起こったことだけれど、一般の人々が「現実問題にきちんとアクセスしろ」そして「現実の問題を解決しろ」そして「夢物語は止めろ」と言い始め、それがまたたく間に数が増え、日本では、理想を語る、ということが、夢ばかり見ているお花畑、と揶揄されるようになった。

そうなると、学校や大学の教育も「現実的」な方向に舵が切られるようになり、社会人になってすぐに役に立つことを教えろ、ということになり、とにかく理想なんかどうでもいいから、現実問題に対処する具体的能力を養え、ということになる。

実際、その「能力」を一番高度に身に付けているのは政治家という職業人で、その能力は「教え」によっては得られず、数多い実践を積むことと、あとはその人間の持つ適性(遺伝)によるものだと思う。後者はどうしようもないので、前者を教育の場に持ち込んで、いわゆる「アクティブ・ラーニング」(ワークショップを通して学生自らに気付かせる)という方法論がおおいに流行った。

Peterson先生の大学の講義をYouTubeで見ると分かるけど、彼はおおぜいの学生に向かって、とにかく一方的にしゃべりまくっている。質疑はゼロじゃないけどほとんどない。というか、あまりにしゃべりまくりなのでアクティブな学生もさすがに割り込めないみたいだ。そういう意味で、ここ最近推奨されているアクティブ・ラーニングの真逆に見える。

Petersonには信者がたくさんいる。若者が多いはずだ。彼は、要は、説教師なのだ。フォロワーは信者のノリで彼についてくる。

若者たちは、問題解決能力の取得をなかば強制され、それを得た者はそれにより自分に自信を持ち、立派な能力を身に付けた人間として、巣立って行く。というのが大人が描いたストーリーなのだが、そうじゃない若者がまた、大量にいる、ということだ。つくづく、人間というのは弱い生き物だなと思うのだが、彼らは「理論」に飢えている。「理想」に飢えている。「大義名分」に飢えている。

問題解決はできるようになったが、そもそも、その問題をどのような根本的な理由によって自分は解決しようとしているのか、ということがいつの間にか見えなくなってしまった、という風景に見えることが多々ある。

そんなところにPetersonが颯爽と現れたわけだ。彼の理論が正しいか、正しくないか、それは僕も知らない。ただ、彼には根本的な理論の極めてはっきりした「提示」がある。それに狂喜して飛びつく若者が大量に現れても、驚くにはあたらない。

僕の考えでは、大人は、やはり理論や理想を教えるべきだと思うけどね。そういう意味でPetersonに賛成する。多くの大人たちは、口を極めて彼を攻撃するが、若者たちを魅了する、というのはやはり大切だと思うよ。それら大人は、そういう安易な熱狂の虜になる若者に、常に警戒するように言い、自分の力でいいか悪いか判断しなさい、そういう能力こそ養いなさい、とか無責任に若者に忠告するが、それはねえ、ちょっと難しくて言い表しにくいけど「そういう独立心のある人間がいちばん偉いんです」という価値観の表明だよ(たぶん、これは一種のキリスト教のプロテスタント的な価値観だと思う) で、若者たちがもし、それで混乱するのなら、その価値観は、十分な説得力を持たなかったということだよ。

21世紀になって、物事は、理念と理念の戦いの場になったのだと、つくづく思う。前世紀の20世紀には、それらの理念が、大きな世界的な現象を引き起こすことが何度も起こり、それで世界は激動したのだけど(共産主義と資本主義の対立とかとか)、個人個人を動かすには足りなかった。それが21世紀では、個人レベルで起こるようになった。

誰がいちばん強い理念を持っているかによって、世界がリアルタイムで具体的に変わる、そういう世の中になったんだよ。僕には、これがものすごい「相変化」に見えるけれど、一方で、本当に大変な世の中になった、とも見える。引退して、山水の世界へでも、隠居したくなるはずだ(笑)

それはともかく、自分の考えでは、そういう理念の世界になると、大切なのは、どのように理念を構築するか、ということと、いかにしてその理念を世の中に現出させるか、の二つになる。それらが何に相当するかというと、前者が哲学、後者が芸術である。さいきん自分は、20世紀は科学と政治の時代、21世紀は哲学と芸術の時代、とときどき言っているのだけど、その理由は以上のようなものだ。

ただ、はっきり断っておかないといけないが、以上は、欧米のメインストリームのモノの考え方における筋道を示したもので、東洋、そして日本は異なる。欧米が世界の道筋を圧倒的な力で作ってしまったので、それに乗っている限り、彼らの土壌で勝負しないといけない。そのためには哲学と芸術が必須だ、と言っているのだ。

では、東洋、そして日本の独自の道というのは、あるのか。僕はあると思っているが、まだあまりはっきりしない。しかし、現在の中国の急速かつ極度の発展が、その一つの方法論を決定的に示したことは間違いない。そして、日本も、中国のように意識的にではないが、その独特の文化によって世界に、ある一つの道を示したことも間違いない。欧米のメインストリームにどうしても乗ることのできない大量の若者たち、しかも欧米の若者たちですら、日本の漫画アニメゲームが救済している風景は、見ていて不思議に思うほど世界に浸透している。

あまりに単純化しすぎているかもしれないが、そういうわけで、政府が、クールジャパンという、まったくCoolじゃない政策を推進しているのは、外してはいない。ただ、日本の筆頭商品の「コンテンツ」が、欧米価値に呪縛されて身動きできない日本政府の、正確なアンチテーゼから生まれていることは、理解するべきだと思う。では国はその貴重な商品をどう育成すればいいだろうか。それについては、また別途、書くかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。