アメリカでは彼の伝記はいくつか出ていて、歴史考証もいろいろやられているようである。ここでは、Wikipediaの英語ページの記述とCD「The Complete Recordings」のブックレットなどを参考にして、短い伝記をここに記しておく。

生まれと学生時代

ロバートは、1911年の5月8日に、ミシシッピのヘイズルハースト*1で生まれた。母親のジュリア・ドッズ*2は夫のチャールズ・ドッズ*3との間に10人の子供を作ったが、その最後のロバートだけは私生児だった。ドッズ一家はわりと裕福な生活をしていたが、夫のチャールズがトラブルで家を後にし、夫が不在の間にノア・ジョンソン*4という男の間にできたのがロバートだった。母親のジュリアはその2年後、赤ん坊のロバートを連れてヘイズルハーストを出て、結局、ロバートを、メンフィスに移り住んだ夫の元へ送り、自分は別の道を進んだ。夫はそのときはチャールズ・スペンサー*5と改名しており、ロバートの姓はスペンサーになった。

1919年ごろ、8歳のロバートは父親のもとから出され、再び母親と合流し、ミシシッピのロビンソンヴィル*6で、彼女の新しい夫のウィリー・”ダスティ”・ウィリス*7という男と暮らすようになる。ロバートは地元のインディアン・クリーク・スクール*8に通い、実の父親のジョンソンの姓を取って自らをロバート・ジョンソンと名乗っていたそうだが、学校の登録はロバート・スペンサーのままだった。ロバートはティーンエイジャーの期間は学校へ通っていた記録があり、のちの婚姻証明書へのロバートのサインからしても、当時としてはわりとよい教育を受けた青年だったことがうかがい知れる*9

当時の学友の言うことによると、ロバートはすでにそのころハーモニカを演奏することができ、じきに、ギターに興味を持つようになる。そのころ、ロビンソンヴィルにはデルタブルースのウィリー・ブラウン*10が住んでいて、かのチャーリー・パットン*11も定期的にやって来ては、ジュークジョイントで演奏していた。特に、ウィリー・ブラウンは若者のロバートにギターの手ほどきをしていたそうである。

学校を出てからロバートはスペンサーという姓を捨て、オフィシャルにもロバート・ジョンソンと名乗るようになった。

最初の結婚と妻の死

1929年の2月、ロバートが18歳のとき、彼はヴァージニア・トラヴィス*12という名の15歳の女性と結婚する。二人は、ロビンソンヴィルの北に当たる土地で、義理の姉の家に居候して暮らした。そこはわりと裕福な家だったようで、恵まれた新婚生活だったようだ。ロバートもちゃんと働いて家庭生活を送っていたそうである。

そうして、ヴァージニアは妊娠し、順調に行くかにみえた生活だったが、翌年、出産の際に母子ともに死亡。後に行われたインタビューで、ヴァージニアの親戚の一人は、この事件はロバートが背徳的なブルースのような音楽をやっていたことに対する神の罰である、とコメントしたそうである。また、当時、厄介になっていた家の家長は牧師で、みな敬虔なクリスチャンで、母子ともに死んでしまったこの事件を、そのように解釈し、ロバートを責めたようである。このできごとは、ロバートの心に深い傷を残したであろう。ロバートは妻が死んで家を後にするが、それ以来、まるで逆に神が与えたその罰に従うがごとく、定職に就かず、放浪をするブルースミュージシャンとして生きることになる。

ロビンソンヴィルの酒場

ちょうど、ロバートがロビンソンヴィルで学生をやってその後ヴァージニアと結婚したりしていたそのころ、サン・ハウス*13がロビンソンヴィルへ移り住んで来ており、すでにそこに住んでいたウィリー・ブラウンを相棒として、彼らは夜な夜な地元の酒場でブルースを演奏していた。ロバートは家を抜け出してはそういうところに出入りし、サンとウィリーの演奏を目を皿のようにして見つめていたそうだ。

サン・ハウスによれば、そういう酒場はだいぶ荒っぽく、喧嘩は日常茶飯事ですぐにピストルを抜いていたそうで、ロバートの家のものは子供をそういうところに出入りさせたくなかったはずで、彼はいつもこっそりやってきた、と言っている。サンとウィリーは彼を「リトル・ロバート」と呼んでいた。当時から、ハーモニカを吹かせればまあまあだったが、ギターはダメだったそうで、一度、店で弾かせてやったら、そのあまりの下手さに、客から、その小僧を止めさせろ、とクレームが来たそうだ。

ヴァージニアとの結婚生活でロバートはこの、酒場でのブルース三昧から一時離れたようであった。しかし、たったの一年でヴァージニアは死に、ロバートはロビンソンヴィルからも離れ、サンとウィリーはリトル・ロバートがふらりといなくなった、と知った。

ロバートの失踪

時は1930年、ロバートは家を出て、生まれ故郷のヘイズルハーストへ向かった。どうやら彼は、実の父親のノア・ジョンソンを捜しにでかけたようだが、実際には見つけられなかったようだ。

しかし、この土地の周辺でロバートは、アイク・ジマーマン*14という年長のギタリストと知り合うことになる。ジマーマンは録音を残しておらずまったく無名だが、かなりの腕前であったことが界隈で知られていた。ロバートはジマーマンに師事し、彼は妻子の住む家にロバートを招き、およそ半年近くの間、ロバートにブルースを教えた。

彼らはときおり、ギターを持って深夜に墓場へ出かけて練習をしたそうで、朝まで帰ってこなかったこともあったそうだ。墓場は静かで集中できるのは当然としても、わざわざ墓場を練習場所に選ぶところにも、超自然的な呪術的な意味があったと思われる。我々の現代と違い、当時は、そういう呪術はれっきとした「事実」であった。

ジマーマンのギターテクニックがどのようなものであったか、知るよしもないが、この1年近くの期間で、ロバートがギターのテクニック、そしてブルースの表現力を、ともに最高レベルで身に付けたのは確かだろう。

ロバートの帰還: サン・ハウスの証言

ロバートはある日ふらりとロビンソンヴィルへ戻ってきた。そのとき、サン・ハウスとウィリー・ブラウンは、そこから少し東へ行ったバンクス*15という町の酒場にいた。そこに、ロバートが現れるのである。以下に、サン・ハウスの証言をそのままあげる。

「ロバートはロビンソンヴィルを出て、アーカンソーかどっかへ行って、それで、ギターと一緒に帰って来たんだが、その前には、やつはよく親の目を盗んで家を出て、俺とウィリーが土曜の夜のダンスシーンで演奏しているところに来たもんさ。でも、親たちはロバートをそんなところへ行かせたくなかったんだよ、だって、そういうところで男たちはだいぶ荒っぽいことをするからね。一晩中、喧嘩と喧騒さ。親御さんたちはただそんなところにロバートをうろつかせたくなかったんだな。でも、ロバートは親たちが寝静まったころを見計らってキッチンの窓から抜け出して俺たちのところへ来てたんだよ。
で、やつはアーカンソーあたりで演奏を習ったんだろうよ。でも、もちろん、俺もウィリーもそんなことは知りはしない。俺たちはそのとき、ミシシッピーのバンクスってとこの店で演奏してたんだが、そこに、ヤツが人混みをかき分けて入ってきたんだよ、ギターを背中にしょってな。俺がウィリーに
「ビル、店に入ってきたあいつ見たか」
と言うと、ウィリーが言った
「あれ、リトル・ロバートじゃねえか」
俺たちは彼をリトル・ロバートって呼んでたんだよ
「さて、今夜もあのギターで客をいらつかせるってことか」
彼がこっちへ来たんで、俺は言った
「坊や、そのギターで何をするっていうんだ」
ロバートは言ったよ
「ちょっとだけやらせてもらえませんか、見せたいんで」
俺はウィリーにウインクをして言った
「ほら、こっちへ来て俺の椅子に座れよ、見せてみな」
で、あの小僧っ子がギターを弾いて見せたら、俺たちは目を見張って唖然だ
「ホントかよ・・」
ってね。そのときロバートが演奏したのが、あのテラプレーン・ブルース、そう、あれだったよ」

ブルースマン誕生

このサン・ハウスの証言の出来事があったのが1932年前後と言われている。初婚の妻ヴァージニア・トラヴィスの死、実の父親のノア・ジョンソン探しの旅、そこで知り合ったギタリストのジマーマンへの師事、そして再びロビンソンヴィルへ帰った時には、目を見張るようなテクニックを身に付けたブルースマンが誕生していたのである。

ロバートはある日、ギターを持ってクロスロードへ出向き、そこで悪魔と会い、魂を売り渡すのと引き換えに、恐るべきテクニックを手に入れた、という「クロスロード伝説」が今も伝わるのは、この卓越したブルースマン「ロバート・ジョンソン」の、ドラマチックな誕生ゆえであろう。

このクロスロード伝説は、もとは、サン・ハウスがそのインタビューの中で、ロバートは悪魔に魂を売ったに違いない、と発言したところから広がっていったそうだが、たしかに、ロバートのブルースにはそういう不気味な響きがあるものもあり、それも伝説が広まるのを手伝っているだろう。いずれにせよ、これ以降、多くの人々が多くの場所でロバートを目撃し、その腕前をたたえるようになる。

2度目の結婚と、放浪のブルースマン

ロバートは1931年の5月に、カレッタ・クラフト*16という女性と2度目の結婚をしている。カレッタはだいぶ年上の30歳で、3人の子持ちで、家を持っており、ロバートにぞっこんで、彼のあらゆる生活の面倒を見て、しかも彼を自由にさせたそうである。案の定、ロバートは、同時期にヴァージー・スミス*17という女性と通じていて私生児を作っている。つまり二股をかけていたわけであり、この結婚は、一度目のヴァージニアとの結婚と様相がまったく違っている。カレッタとは1932年にクラークスデイルへ移ったが、ほどなくしてカレッタが病死。その後、ロバートは定住することなく、死ぬまで放浪のブルースマンとして生きた。

この1932年から彼が死ぬ1938年までの間、ロバートは多くの街を転々と渡り歩いている。メンフィスとヘレナの間を頻繁に行き来し、ときどき、ミシシッピーデルタの小さな街や、アーカンソー、あるいはもっと遠くへと、足を延ばした。ブルースマンのジョニー・シャインズ*18とは、かなり長い間一緒に演奏の旅に出ていて、シカゴ、テキサス、ニューヨーク、カナダ、ケンタッキーなどへと出向いている。

ロバートは、その土地へ行くとまず女性を惹きつけて、その女性の家に泊まって活動するということを繰り返していて、よく訪れる町にはなじみの女性がいて、そこを足場にしていた。長い間に、土地土地に一種の家族の延長のような関係ができあがっていたそうである。ただ、誰も彼の本当の私生活を知らなかったようで、彼自身もときどき名を使い分けていたらしい。

ジョニー・シャインズを筆頭としてロバートに関する多くの証言が残っているが、なかでも特に関係の深い人々もいる。ロバート・ジュニア・ロックウッド*19は、母親がロバートの愛人で、ロバートからことのほか大切にしてもらった経験を持つ。ロックウッドは、ロバートに直接ギターを教えてもらっており、そういう意味でもロックウッドの演奏はロバート直系とも言える。あるいはデヴィッド・ハニーボーイ・エドワーズ*20も親戚がロバートと関係があることから、ロバートと近しかった。

そういった人々の証言を総合して現れるロバートの人となりだが、その姿は「痩せてすらっとして、中背で、小ぎれいで洒落もの、片方の目が悪かった」*21というもので、人間については「マナーがよく、ソフトに話し、でも同時に、何を考えているか分からないところもあった」というものだった。町に現れて演奏を始めると、彼は周りの人間たちとすぐにうまい関係を作ることができる社交的な人間だったようだ。しかし、その彼もプライベートでは、自身の過去については一切語らず、わが道を行く男だった。また、女好き、酒好き、そして放浪癖があった、というところは皆の一致した見解である。

彼は、ストリートで流したり、床屋やレストランの店の前で演奏したり、ジュークジョイントで演奏したりして金を稼ぐのだが、当時の音楽仲間の言うことによれば、彼は公共の聴衆の前では、彼がその後レコーディングしたような暗くて複雑なブルースはあまりやらず、当時の流行歌やスタンダードをよく演奏したそうだ。ロバートはラジオから流れている音楽を一回聞いただけで、そのまま演奏する才能があったという証言があり(ただ、それが本当かどうかは、分からない)、聴衆のリクエストに応えてさまざまな曲を演奏するのは何の苦も無くできた。

いずれにせよ、この放浪のミュージシャンの生活の間に、ロバートはその界隈ではかなり名の知れたミュージシャンになっており、訪れるその土地土地にかなりのファンを作っていた。

レコーディング

1936年、ロバートはレコードを吹き込もうと思い立ち、ミシシッピーのジャクソンで音楽店を営むH.C.スピア*22を訪ねる。スピアは、当時、非公式ではあるが、タレントのスカウトをやっていたのである。オークションでロバートに可能性を見出した彼は、別のタレントスカウトのアーニー・オートル*23に連絡を取り、レコーディングが決定され、プロデューサのドン・ロー*24により、テキサスのサン・アントニオ*25でのレコーディングが実現する。

1936年の11月23日に、サン・アントニオのガンター・ホテルの414号室を臨時のレコーディングスタジオにセッティングし、ロバートはそこで3日間に渡って、合計16曲を吹き込んだ*26。このとき録音したテラプレーン・ブルースが最初のSPレコード*27として発売され、これは5000枚売れ、ちょっとしたヒットになった。これによりロバートの名声はさらに上がり、いつも行き来しているローカルな地域だけでなく、より広い範囲でプロフェッショナルなミュージシャンとして認知されるようになる。

翌年の1937年に、ロバートはテキサスのダラス*28へ向かい、同じくドン・ローのプロデュースによりレコーディングを行った。ワーナー・ブラザーズのビルの一角の仮設スタジオで、彼は13曲を吹き込み*29、これで彼の全レコーディング曲は29曲となるが、これで最後の録音となる。以上29曲から、ロバートの生前に11枚のSPレコード(つまり22曲)がヴォカリオンからリリースされている。初リリースのテラプレーン・ブルースより売れた盤は無く、ロバートは翌年、レコーディングに呼ばれることは無かった。

ロバートは、1938年8月16日、ミシシッピーのグリーンウッド*30の近くで、27歳で死んだ。死亡証明書は残っているが、死亡状況の欄には「No Doctor」と一言書かれているだけで、死因は不明である。ロバートの死については、複数の証言が残っていて*31、どれが本当か、今となっては分からないが、ここでは、もっとも一般的に言われているいきさつを書いておく。

1938年の8月の夏、ロバートはヘレナを出て、ロビンソンヴィルを経由して、グリーンウッドの郊外のスリー・フォークスというところに滞在した。そこで彼はローカルのジュークジョイントで演奏したのだが、その時、そこの女性と親しい関係になった。しかし、その女性はジュークジョイントの店主の妻であった。

土曜の夜の演奏が始まったが*32、相変わらずロバートはその女性の気を引く真似を止めない。ロバートが、その女性が店主のものだと、知らなかったのか、気にも留めなかったのかは分からない。嫉妬にかられた店主は、ウィスキーボトルに毒薬のストリキニーネを入れ、ロバートの元へ運ばせた。ロバートはそれを飲み、しばらくして演奏を続けられなくなり、苦しみ始め、結局、小屋まで人に運ばれる。それから3日間、ロバートはひどく苦しみ、状態はさらに悪化し、ついに16日の火曜日に息を引き取る。

彼の母と義弟が葬儀に参列し、彼の遺体は木の棺桶に入れられ、ミシシッピーのモーガン・シティー近くの古いザイオン協会の小さな墓地に埋葬された*33



注釈

*1) Hazlehurst, Mississippi
*2) Julia Major Dodds (1874年10月生)
*3) Charles Dodds(1865年2月生)
*4) Noah Johnson (1884年12月生)
*5) Charles Spencer
*6) Robinsonville, Mississippi
*7) Willie "Dusty" Willis
*8) Tunica's Indian Creek School
*9) ロバートは 1924年と1927年(13歳と16歳のとき)に学校に在籍していた記録があり、学友の証言によれば長い期間学校に来なかったこともあり、一説ではその間、メンフィスに住み勉強していたといわれが、定かではない。
*10) Willie Brown デルタブルースマンの一人。当時ウィリーは20代後半で、チャーリー・パットンやサン・ハウスの相棒としても活躍していた。ロバートの有名なCross Road Bluesの最後のバースで「Tell my friend boy, Willie Brown」と歌っているその人である。
*11) Charlie Patton デルタブルースマンでは最も影響力のあった大御所。当時30代後半。
*12) Virginia Travis
*13) Son House デルタブルースマンの一人。ウィリー・ブラウンとチャーリー・パットンの相棒としても活躍。ウィリーと同年代。
*14) Isaiah "Ike" Zimmerman
*15) Banks, Mississippi
*16) Caletta Craft
*17) Vergie Mae Smith
*18) Johnny Shines ブルースマン。ロバートに大きな影響を受けた。その後、シカゴブルースシーンで活躍。
*19) Robert Jr. Lockwood ブルースマン。その後のミュージシャンとしてのキャリアはかなり長い。
*20) David "Honeyboy" Edwards デルタブルースマン。その後のキャリアは長い。
*21) 左目が悪く、白内障だったともいわれ、いい方の目から外を覗くように見たそうだ。ロバートの写真でも左目が少しおかしいのが分かる。
*22) H. C. Speir
*23) Ernie Oertle
*24) Don Law
*25) San Antonio, Texas
*26) Gunter Hotel 録音は1936年11発23日(月)に8曲、11月26日(木)に1曲、11月27日(金)に7曲、すべて2テイクずつ吹き込んでいる。ホテルの部屋の壁を向いて歌ったことは有名で、音響効果を狙ったものとする見方が今では有力である。
*27) 日本ではSPレコードというが、英語では78rpm recordが一般的。78回転の両面のシングルレコードで片面におよそ3分間録音できた。
*28) Dallas, Texas
*29) 録音は1937年6月19日(土)に3曲、6月20日(日)に10曲、すべて2テイクずつ吹き込んでいる。
*30) Greenwood, Mississippi
*31) 酒の飲み過ぎで救急車で死んだ、肺炎で死んだ、梅毒で死んだ等々いろいろ。
*32) その日の夜はハーモニカプレイヤーのソニー・ボーイ・ウィリアムソン(Sonny Boy Williamson II)と一緒のステージだったらしく、ソニー・ボーイの証言が残っている。彼はロバートのウィスキーに毒が入れられたのを見ていて、最初のボトルを床へ払い落とし、封の開いたボトルを飲むな、とたしなめたそうだが、ロバートはそれを聞かず、運ばれた2本目を飲み、案の定毒にやられたそうである(ただし、この手の話が本当かどうかは分からない)。部屋に運び込まれたロバートは毒薬には耐えたが、最後は肺炎にかかって死んだ、とも言われる。
*33) Mount Zion Missionary Baptist Church, Morgan City, Mississippi