→ Maps of Meaning日本語訳へ 序章:地獄への降下

→ トロント大での講義ビデオの日本語訳:「ヨナと鯨の物語と文化の堕落について」

このトロント大学の先生を知ったのは、まったくの偶然からだった。昨年、北欧の冬に一人で暮らしていたとき、なぜだか、ナチスをはじめとして二十世紀にあった戦争がらみの悲惨の数々についてYouTubeをあさって見ていたことがあった。自分は毛沢東については知っていたのだが、スターリンやポル・ポト、そしてアフリカでの悲惨な内戦などの実態はそれほど知らず、ドキュメンタリーなどを次々と見ていた。

そんな時、以上と同じキーワードに乗ってきたのがこのJordan Peterson先生のYouTubeビデオだった。トロント大学の心理学の教授である。大学での講義を定点カメラでえんえん映したビデオがたくさん上がっていた。自分の英語は外国で自分の専門の仕事ができるていどで、心理学の講義をそのまま英語で理解するのは難しいのだが、英語の勉強も兼ねて見はじめた。 見てみると、これが、本当におもしろいのである。この先生は、ニーチェとドストエフスキー、そしてユングから多大な影響を受けた人で、そこが自分と完全にかぶっているので、そのせいもあり、話がすんなりと頭に入って来たのだと思う。畳みかけるようにひたすらしゃべりまくる人だけど、とっても聞きやすい話し方をする人だ。

ニーチェとドストエフスキーが19世紀に予言した、神なき後のニヒリズムの世界が、そのまま具現化したのが、20世紀のスターリンやポル・ポトなどの共産主義理論を掲げて起こった悲惨な虐殺劇である、というくだりがあって、それが実にすんなりと納得できたのである。全体主義に陥った大衆の恐ろしさは、先生の講義を聞く前にあさったドキュメンタリーでさんざん見ており、その数、実に、数百万人に及ぶ虐殺の歴史が、いったいどういう理由で起こりえたのか、ということをPeterson先生はみごとに分析していると思った。そして、彼は、それをニーチェとドストエフスキーが恐ろしい正確さで予言している、としたのである。

ここを入口にして、Peterson先生のYouTubeをわりと見まくった。心理学、哲学、脳生理学、比較神話学の知見を縦横に使って展開して行く様は素晴らしい。哲学的な部分で言うと、Peterson先生のいう「Belief systemが世界を作り出している」というくだりに完全に共感する。この世界はObject(物体)でできているのではなく、かといって観念論の幻でもなく、人のBelief(信)が造り出しているのである、ということである。このあたりは、僕の大好きなベルグソンや、ひいては小林秀雄と十分に通じている。

ちなみに、Belief systemと英語を使うのは、どうにも日本語の語感で合うものが無いからである。心理学用語として訳せば「信念システム」になるが、信念と言うと日本語では、「個人の持つ確固とした意志」みたいなニュアンスが入ってしまい、うまくない。ここのBeliefは、もっと一般的な意味での「当たり前のごとく信じていること」という感じなのである。

そして、神話や伝承の中に、そのBelief の枠組みを求めているところは、直接にはユングから来ているけど、Peterson先生の方がずっと分かりやすい。YouTube講義で僕が最初の方で聞いたのは、竜を退治する物語だった。人々が暮らす城壁の外の洞穴に竜がいて黄金の球を守っており、ある英雄が城壁を出て危険を冒し、竜を退治し、黄金を持ち帰る、という筋書きで、このモチーフこそが、西洋のBeliefシステムの基本モチーフになっている、というのである。安全圏から出て、危険を冒し、戦って、自らの領域を広げて行く、という運動こそが健全な人間の在り方であるというのだ。

逆に、この自らの領域を、たとえば、かつて、共産主義理論というイデオロギーの城壁で囲ってしまい、未知の外界をシャットアウトし、外界へ出るのを止めたときに、二十世紀の大量虐殺の悲劇は起こった、というのである。これは、自分にはちょっと目の覚めるような考え方だった。

ともかく、そんな風にして共感することがとても多く、ファンになった。自分にしては、いま生きて活動している人に魅せられるのは極めて珍しい(僕が思想的に好きな人はみな死んだ人ばかり)。短期間でずいぶんいろいろ調べて、しばらくはちょっと夢中になり、Facebookとかでもいろいろ紹介したりした。Jordan Petersonという名は、北米ではかなり有名のようで、YouTubeのみならず、テレビやネットの討論、インタビュー、コメンタリーなどなどでだいぶ出まくっていて、どうやら、かなり短期間で有名になったらしい。

そして、このPeterson先生は、日本ではまったくと言っていいほど知られていないことも分かった。今の日本には、民族対立を煽った右傾化や、原発事故をはじめとする隠蔽体質、グローバル化を口で言いながら決して変わろうとしない閉鎖的な社会システム、といったさまざまな問題があるけれど、これらは、ちょうど、日本的イデオロギーによる城壁を思わせるものがあり、日本的な全体主義が見えているようにも感じられる。そんな日本にとっても、きっとこの先生の論は大切な方向性だろうと、自分は直観する。こういう正統派の西洋的ダイナミズムは、正直、日本に直接応用するのは無理があるけれど、きちんと理解しておいた方がいいと思うのだ。

そんなことから、Peterson先生を日本に紹介しようと思い、先生の主著のMaps of Meaningを日本語訳して公開しようかと思い付き、翻訳を始めた。この本はPDF版が先生のブログから無料でダウンロードできる(装丁本は有料)のである。15ページほどの長い序章を、知り合いのプロの翻訳者にも手伝ってもらって日本語訳した。翻訳文のリンクをこのページの冒頭に載せておいた、まずはこれからスタートしようと思う。

ただ、Maps of Meaningは文章がけっこう難しい。Peterson先生自身も、この本には必要なことはすべて書いたが理解は難しいと思う、と言っている。大学の講義では、この本の内容を15回の講義で説明していて、それはYouTubeにすべて上がっている。自分が、先生の思想の入り口として見たのもその一つだったのだ。というわけで、Maps of Meaningの翻訳は一応続けてはいるが、次は、YouTubeの面白そうな講義ビデオに日本語字幕を付けるようなこともやってみようと思う。たぶん、そちらの方がずっと分かりやすく、親しみやすいと思う。あと、事後ではあるが、Peterson先生その人に、パーミッションを取るべく連絡をしなければいけない。超多忙な先生なので返事が来るとはあまり思えないけれど。

いずれにせよ、この紹介が日本でJordan Peterson先生が知られる何かのきっかけになれば幸いである。