日本美術史(彫刻)

時代 作品と解説 テクニカルノート 作品データ

縄文時代
( ~ 前3世紀)

 

火焔型土器

 言わずと知れた縄文土器だが、このすさまじい派手さ加減はその後の日本美術を見ていってもなかなか類型が見つからない。野蛮で原始的とも言うが、素晴らしい造形感覚ともいえる。
 縄文時代は数千年と長く、この火焔土器も、おびただしい「変な」形の土器や、宇宙人のような形をした未開の野蛮な偶像のような形態の中のひとつである。島国として孤立して発展している期間が長いせいで逆に奇抜な造形が次々と生まれたようにも思う。
 これら装飾過剰な土器は、祭祀に使ったという説が有力らしいが、自分にはそうとも思えない。あまりにグロテスクな形なので、呪術かなにかと関連付けないと、現代人としては不安になるのだろうが、どうにもそんな気がしない。この土器であっても煮炊きをした跡があるらしい。そういう人たちだった、と想像しておいた方がいいと思う。

 

 縄文時代は新石器時代に続く時代で、土器が現われてから始まり、その晩期に至るまで数千年の長さにわたる。はじまりは、底が丸かったり尖っていたりして、土に突き刺した形で回りに火を起こして使ったものらしい。その後、平底になって自立するようになり、さらに胴体部分の装飾に加えて縁の部分にさまざまな装飾を施すものが現われてくる。この火焔型土器はその中期に当たる。
 縄文の名前の由来は、縄を粘土の表面に転がして縄目の幾何学模様をつける方法が使われたことによるが、縄文時代をとおして、縄目によるものは一部にすぎず、あの手この手で思いつく限りさまざまな幾何学的に装飾がほどこされていて、そのバリエーションは素晴らしく飽きさせない。縄文土器は日本全国にひろく分布しているが、特に東日本や東北地方などで特徴的なものが出土することも多い。この火焔型土器も新潟の長岡市のものである。
 また、土器に加えて、中期ぐらいから現われるさまざまな個性的な形をした土偶も有名である。

深鉢 火焔型土器

出土地:馬高遺跡
所在地:長岡市関原町
時期:縄文時代中期
高さ:33cm
所蔵:長岡市立科学博物館

弥生時代
(前3世紀
~ 後3世紀)

弥生土器

 さっきまでの縄文の派手さは何だったのか、と拍子抜けするほど平凡な形状の土器になっている。長きにわたった縄文時代は、どうやら日本の土着の民族が発展させたもののようで、この弥生時代に、大陸から人が渡ってきて、その彼らの影響により、このようなすっきりした形状の土器が作られるようになったそうだ。
 この弥生時代から日本の洗練された美意識が始まると言われることもあるが、むしろこれは、装飾本能よりも機能優先と言った方がよさそうで、すなわち、いわゆる機能美であろう。この曲線が、本当に洗練された日本の美と呼べるようになるのは、美に関する文化がずっと進んだ後だと思う。

 弥生時代は、稲作農耕が定着して村を作って定住がはじまったときであった。さらに大陸から金属器が入り、それとともに土器をはじめ道具類もその影響を受け、ずっと機能的になって行った。過度に装飾的だった縄文土器は、より機能的な煮炊き貯蔵の道具としての土器の形態に説得され、入れ替わって行ったのだろう。弥生土器は、形状は機能重視でシンプルになり、模様や装飾も簡単なものになっている。
 弥生時代の金属器としては、青銅で作られた銅鐸が有名である。要は鐘であり、小さなものから大きなものまでたくさん作られた。そのほか、青銅の剣や鉾といった武器も多い。

壺形土器

出土地:広島県草戸千軒町遺跡
時期:弥生時代前期
胴径24cm、器高27cm 所蔵:広島県立歴史博物館

古墳時代
(3世紀 ~ 537)

埴輪

 埴輪は非常によく知られた古典的な日本の形態だが、これは明らかに弥生土器の形状からそのまま発展してできたものに見える。実際、弥生土器が飾り台になり、それに目と口を開けて人型像にして埴輪像が生まれたものらしい。
 かつて自分は、この埴輪像を、世界でもこれほど幼稚な白痴的な造形は珍しいのではないか、と考えていた。古墳時代はこの後、朝鮮から本格的に仏教が入るとともに仏教美術が正式伝来し、一気に朝鮮一色に染まってしまう。
 そんな激動を予感するように、当時の日本は大人になるのを拒否するがごとく稚拙な造形をもってして、日本の胎内へ逃げ込んだのではなかったのか。古墳の盛り土は妊婦の腹の形をしているではないか。そして地上では、豪族たちが血で血を洗う権力闘争に明け暮れていた。

 時代は古墳時代に移り、農耕で定住する傾向が進めば、地域には力が集中した首長が表れる。その首長の権力を表したものの一つが古墳であり、大小のおびただしい数の古墳が作られた。埴輪はその古墳の丘に並べられ、埋められたものであった。
 埴輪がいかにして生まれたかは諸説あって、いまだに決め手はない。ただ、弥生土器は、ほぼそのままの形態で、祭祀や儀式のときの物を載せるために使ったと思われる円柱型の器台に発展するが、それに目と口の穴を開け鼻を取り付ければ人物型の埴輪の形になる。
 埴輪には、家や甲冑、楯などの器物、あるいは、人間や馬、猪などの動物、そして、単なる円筒型のもの、といった種類がある。いずれにせよ、儀式、葬式、祭祀などに使われたものと言われている。

埴輪 踊る人々

出土:埼玉県熊谷市野原字宮脇野原古墳
時期:6世紀
復原高64cm, 57cm
所蔵:東京国立博物館

飛鳥時代
(538 ~ 644)

法隆寺の釈迦三尊像

 一体、前時代の埴輪の造形から、どこをどうすればこれほど劇的に異なる造形が表れるか、と思うわけだが、当然ながらこれは朝鮮、そして中国から伝来したのだ。
 しかし、これは、ああそうか、で済まされる問題ではないと思う。というか、当時の日本人は、一体このすさまじい落差にどうやって耐えたのだろうか、と思う。もちろんその激動を目の当たりにした人はまだごく一部だったろうが、先端にいた人の衝撃はいかほどのものだったか。
 それにしてもこの像は素晴らしい。伝来の技術を習得した日本人の仏師が作ったものだが、出色の出来だ。左右の菩薩の顔は中国伝来のままのようだが、中央の釈迦は早くも日本的な面影がにじみ出ている。体と手のコンポジションも見事で傷一つない完璧さだ。台座の衣は左右対称で形式化されているが、この模様の美しさは形式化されているが故の奔放な絵柄ですばらしい。
 この仏師の技術力の高さ、そしてセンスの高さはたいしたものだ。吸収し、自分のものにする速さが半端ではない。

 

 当時の彫刻の主流を形作っていたのが鞍作止利の流派であったが、この釈迦三尊像は、当の止利の作である。像の後背に印字された文に、明確にそのように書かれている。ちなみに止利は元は中国から帰化した祖父の孫とされている。
 原型は中国の北魏のものだが、全体の印象としては中国の類似の像と雰囲気が異なっている。この期の造形は、中国の石仏の手法から発展した形になっており、石仏は一種のレリーフであり背面がないため、主に正面から見られることを第一に考えて作られている。いきおい、像も、奥行きが薄く、横から見たときの形への配慮があまりない。
 顔の表情は、杏仁型と言われる銀杏の形をした眼と、アルカイックスマイルと呼ばれる口の両端を持ち上げた微笑をたたえていることが特徴である。これらは中国の石仏、そしてギリシャの初期の彫刻にも表れている形態である。
 製法は、蝋型鋳造である。土の塊の上に蝋を盛り、細かい形を作り、その上にさらに土をかけて、まるごと焼く。そうすると蝋は溶けて流れ出て空洞ができるので、そこに銅を流し込んで固め、土を取り去って作られている。

 

釈迦三尊像

止利仏師
623年
銅造、鍍金
像高:88cm
法隆寺・奈良

広隆寺の弥勒菩薩像

 このポーズもまたきわめて有名な日本の形といえそうだ。もちろん、このポーズとてインドそして中国、朝鮮から伝わったものである。この広隆寺の像も朝鮮からそのまま伝来したものらしい。しかし、オリジナルがどちらであれ、この全体に漂う繊細さはやはり日本的なものの表れと言っていいと思う。
 半跏思惟像は、釈迦が静かに考えているところを模したものと言われているようだ。この時代には、この半跏思惟像がことのほか流行ったらしく、たくさん作られている。
 どうやら日本ではこの像は、かの聖徳太子の像とされたこともあったらしい。日本で、本格的に仏教を持ち込んだのが聖徳太子なら、それも一理ある。それにしても聖徳太子が生きた時代は、一体どれほど野蛮な世の中だったろう。天才的な知性の持ち主の彼は、仏教に基づく道徳をこの国に持ち込んだのだが、当時、そんなもの大半の人間が聞く耳を持たないことなど分かり切ったことだったろう。
 そういう抜きん出た人間の苦悩と、その人間を敬う周りの人々の畏敬の念も、今とはだいぶ違ったものだったろう。この静かで優しい弥勒菩薩像が、そんな事情を伝えているような気もする。

 この半跏思惟と呼ばれるリラックスしたポーズは釈迦の瞑想の姿とされているが、日本では釈迦の像という記録はなく、弥勒菩薩の像として信仰の対象になったらしい。弥勒菩薩は釈迦の亡きあと遠い未来にこの世を救うと信じられた如来である。
 像は木彫で、造形は立体的で、側面から見てもどの方向から見ても美しく見える姿勢で作られている点が、これより前のたとえば釈迦三尊像の正面性から技術的に発展したところであろう。姿勢そのものも、顔に当てた左手の方に体全体をわずかに左に傾け、自然と前傾姿勢になっているところなども、形式的な姿勢から一歩進んで、より実在的な姿勢になっているところが注目される。
 この広隆寺の像は、当時の日本の木造に多く使われたクスノキではなく、朝鮮で使われるアカマツが使われていること、また、前述のように造形がより洗練されていることと、衣の襞もこれまでの左右対称の形式性から一歩抜き出ていることなどから、日本で作られたものではなく、朝鮮から伝来したものという説が今では有力だそうである。木造の半跏思惟像の弥勒菩薩としては、この他に、中宮寺(奈良)のものが有名である。

弥勒菩薩 半跏像

7世紀
木彫(アカマツ材)
像高:123cm
広隆寺・京都

奈良時代
(645 ~ 793)

阿修羅像

 非常に有名な像であるが、有名なだけある。この像はそれまでの日本の仏像の一つの頂点であろう。
 像の「顔」というのは日本においてはかなりウェイトの高いポイントになる。その点、この阿修羅像の若者らしい顔つきは、それまでの仏像彫刻のもとになった、朝鮮、中国そしてインドのどこにもない完全に独自のものだと思う。
 この表情はよく「憂いに満ちた」と形容されるが、なにか具体的なものに悲しんでいるわけではないことは、像と相対してみるとすぐに分かる。眉を寄せた憂いの表情と、しっかりと閉じられた口元の気高い感じが絶妙に同居して、まるで、時代の中の恐ろしい量の煩悩を、そのありのままの形で熟知し、ただ見つめているような印象を受ける。細い筒の形の六本の腕には筋肉がまったくなく、なにかを腕づくで解決できる神ではないこともはっきりしている。

 八部衆とは古代インドの邪神が釈迦の教えによって改心し守護神になったものを言う。阿修羅は元々は闘争の神だが、この阿修羅像は、その当の闘争からもっとも遠い形態に作られている。
 脱活乾漆像である。中国から伝来した技術だが、この製法で作られた像は中国には残っておらず、日本のこの奈良時代に残っているのみで貴重なものだそうだ。「脱活」は中が空洞という意味である。製法は以下のとおり。まず土で大まかな形を作り、これに漆に浸した布を何重にも巻き付け乾かし、土を取り去り、その空洞に木枠を入れる。そして、これに、木の粉を混ぜた漆を使って細部を作り込み、乾燥させたのちに彩色する。大量の漆が必要だが、当時より漆は貴金属なみに高価なものだったようで、たいへんな費用がかかったそうである。
 八部衆は、幸福寺西金堂に置かれた群像の一部で、それらは遣唐使によりもたらされた中国・唐から伝来した知識によるもので、唐様式に対応するものである。この像は、この阿修羅像以外のものもきわめて素晴らしく、いずれも独創的である。

阿修羅像

八部衆像の内
734年
脱活乾漆造・彩色
像高:153cm
興福寺・奈良

月光菩薩立像

 奈良時代は異形の仏像にすぐれたものが多いが、このような菩薩像や釈迦の像にも独自の感覚が定着する時期でもある。
 ここでも表情に注目したいが、少し幅広の、おだやかで、親しみやすい表現ながらも、やはり、きりっとして、厳しく、神々しいものがあって、それらわりと相反しそうな表現を絶妙に同居させており、まことにすばらしい。体の線もその顔の表情ときれいにバランスを取っていて、ふくよかで、信頼感に満ちている。
 それから、肩の丸み、衣服の襞、頭髪の襞のすべてに現れる「曲線」の美しさは、完全無欠な調和を醸し出していて、驚く。日本の曲線美はここで完成されているとみてもいいと思う。

 日光菩薩像と対になって東大寺の法華堂に収められている像だが、その名前はのちの俗名らしく、実際には梵天(日光)と帝釈天(月光)の像と言われている。さらに、東大寺戒壇院にある四天王像と作風が似ていることなどから、この梵天、帝釈天の2体と四天王の4体が、かつては一組で同じところにあったのではないか、と言われている。
 製法は塑像で、乾漆像とともに奈良時代に多く使われた技術である。いわゆる粘土を主材料とし、これにさまざまなものを混ぜ込んだ土で作られており、焼かれてはおらずそのまま乾燥させて像となっている。仕上げには雲母を混ぜた土を使い、湿気を入りにくくする。最後に彩色し金箔などを貼る。重くてもろい土の像の製作は技術的にも難しく、この時期以外ではあまり使われていない。
 この月光菩薩の、現在の肌の白っぽいざらざらした感じは、彩色が落ちて雲母入りの土が露出しているためである。本来は、赤、青、緑、紫などの色を並べ金を貼った派手な色に塗られていたらしい。

月光菩薩立像

8世紀
塑像・彩色
像高:207cm
東大寺・奈良

平安時代
(794 ~ 1184)

梵天座像

 この像は、密教を学んで帰った空海に任された東寺に置かれた多数の像の中の一つ。それまでの仏像には見られなかった官能性ともいわれる特徴を持った像の一つである。
 たしかにふくよかな、まるで女性のような体つきの異形の梵天像が台座に乗り、それを支える鵞鳥が首を突き立てているさまは男性器の勃起を思わせるようでもあり、きわめて意味深な性的なものが感じられる。全体の雰囲気は中国と朝鮮を飛び越えてインドに直接戻った感じで、むしろインドにある奔放な官能の肯定をそのまま伝えているようにも見える。
 この時代は空海をはじめとする密教が伝えられ広まった時期であった。同時に密教がもちこんだ美術が定着する時期でもある。密教の教えは、「生」の積極的な肯定を含んでいて、奈良時代の像の印象とずいぶん変わっている。

 平安時代の仏像は木彫が主流になり、奈良時代にさかんに作られた塑像や乾漆像はあまり作られないようになる。理由はいくつかあるようだが、一つは、塑像は乾かす時間が長く作るのに時間がかかり、乾漆も同じくで、しかも材料の漆が高価であった、というのがある。木彫であれば、日本には木材はふんだんにあるし、短い時間でたくさん作れる。同時に、中国から木彫の影響も受け、そのようになったようである。
 この像は、空海が京都の東寺の講堂に設置した仏像群の中の一体で、密教の重要な教えである曼荼羅を彫刻によって立体的に表したものと言われている。中央に五仏、その左右に五菩薩と五大明王、両はじに梵天と帝釈天、そして四隅に四天王を並べたてた壮観なものである。当時からそのままの形で残っている像はすべてではないが、この梵天像は、正面顔以外の顔などいくらか後代で補われたものがあるが全体にほぼ当時のもののようで、独特の造形である。これら木彫はもとは金箔を使い彩色されたものだったようである。

梵天座像

839年
木造乾漆併用・彩色
像高:100cm
東寺・京都

定朝の阿弥陀如来像

 平安時代の後半は、それまでの時代の外来の影響が政治的理由で一時停止した事情もあり、そもそもの日本人的な感覚をだいじにし、それを少しずつ熟成して行った時期とも言われている。
 平安の世は仏教的には末世の世でもあり、貴族たちも来世に望みをつないで、雅であってもはかない世を生きていた時代でもある。そんな中で作られた仏像たちはおのずと、柔らかく、優しく、温和で、優雅な、そんな性質を身に付けていったときでもあった。
 この像は当時の天才的彫刻師であった定朝の作である。非常にきれいにバランスの取れた体とふくよかで優しい顔は、現代から見ると個性があまりなく、むしろ俗っぽく見えてしまうほどだが、実はゆえなきことではない。定朝の仏像は大流行し、他の彫刻師はまず定朝の仏像を測ってから作ったほどだったそうだ。つまり同じような仏像がたくさん作られ実際に形式化されていったのである。

 平等院の鳳凰堂の中心に置かれている如来像である。この空間にはこの如来像を中心にしてさまざまな格好をした装飾の菩薩像や、透かし彫り、壁画に取り囲まれていて、貴族たちが願った極楽浄土の世界が作られている。すべてが非常に優雅で、華やかで、そして柔和である。
 作者の定朝は多くの彫刻を残したことが記録に残っているものの、本人作として現在確認されているものはこの如来像一体のみである。木彫だが、前の時代のように一本の木から彫られたものではなく寄木造りと呼ばれる手法で作られ、各部の部品を別々に作ってから組み立てて作られている。この寄木造りを開発し定着させたのが定朝と言われている。これにより、工房での同時作業が可能になり、しかも一本の木から彫り出す大きさを持った木材を探す必要もなくなる。こうして、仏像の、一種の大量製作が可能な体制ができあがった。

阿弥陀如来坐像

定朝
1053年
木造・漆箔
像高:279cm
平等院・京都

鎌倉時代
(1185 ~ 1391)

金剛力士像

 奈良の東大寺に行けば今でも、雨ざらしの巨大な南大門の両脇に、この阿形と吽形の8メートルはある巨大な仁王像が外気にさらされて立っている。
 平安の像とうって変わって筋肉隆々で動きだしそうな躍動感が前面に出ている。鎌倉時代は武士の時。現世的なものを重んじた時代の心が生んだ様式と言えるとは思うものの、鎌倉期の彫刻は、かの有名な運慶という一人の天才彫刻家の力によるところが大きいらしい。運慶の一族、そしてその弟子たちは一大彫刻師集団を生み出し、彼らにより多くの傑作が作られている。
 さまざまな形態に掘られた彫刻群を眺めると、これまでの仏像の限られた主題の狭さに比べて、より自由な主題の広がりが見える。表現も多彩で、形式的な感じがあまり見えず、斬新だったり、バリエーションに富んだものが多い印象である。
 このころにおそらく「芸術表現」としての彫刻がはっきり確立したのだろうと思う。逆に、鎌倉時代より前の仏像に現れていた強い宗教感覚や、濃厚な一種の普遍的情緒のようなものはだいぶ薄くなり、それよりも、地上的な、すっきりとクリアな、自由な空気のようなものを感じる。

 東大寺南大門の、向かって左に、ここにあげた阿形の口を開けた像が、右に吽形の口を閉じた像が立っている。この8メートルを超す巨大な仁王像は、運慶の指揮により、快慶と協力して、十数人の仏師がたったの二か月ちょっとで完成したそうである。
 前の平安時代の末期に、戦火によって東大寺、興福寺は焼けたのだが、鎌倉時代になりその復興工事が始まり大きな需要が生まれた。その時に活躍したのがこの慶派と呼ばれる運慶の一派だった。その上に、中国との交流も再び始まり、平安末期の藤原貴族が愛した日本的なみやびな内向的な感じは、外来の刺激もあり、より自由なエネルギーに一気に取って代わられたような風情がある。
 力強く動的で現世的な運慶の作風に対して、快慶はむしろ平安末期の定朝の優雅さを引き継ぎ、さらに奈良時代の古典仏像を研究し、独特な端正な仏像を生み出した。これは後々の仏師の手本になり、時代が変わっても快慶様式の仏像はずいぶんと作られたそうである。

金剛力士立像

阿形
運慶
1203年
木造・彩色
像高:836cm
東大寺南大門・奈良

無著像

 彫刻の写実性ここに極まれり、と言えるほど素晴らしい実在感を持つ像である。もはや彫刻ではこれ以上の写実はなかろうと思われるほど成熟している。この当時の絵画の写実性の薄さに比べると対照的だ。
 世の中では写実性というのがなんらか進歩のように捉えられることが多いが、そうは思わない。ただ、それは確実に技術の進歩を語っている。鎌倉時代は、特に眼の部分に水晶玉をはめた玉眼の技術が盛んに使われ、写実性はいやが応にも増すのである。
 それにしても、このまるで生きているような像の醸し出す気品は、この像の表現からくるのか、それとも、この像のモデルの僧の人間性からくるのか、容易に分からない。というか、むしろ、その二つは分かちがたく一体になっている、と見た方がいいかもしれない。現代風の「モデルを写す」という考え方からなるべく離れるように努力した方が、正しく心を捕まえられるような気がする。

 無著・世親菩薩像という対になった彫刻のうちの一つである。この二人は5世紀ごろ実際にインドで活躍した兄弟の僧侶なのであるが、この像の顔がインド人のそれでないことは明らかで、何かしらの日本人のモデルとなる人があったことは、間違いないように見える。しかし、この像は無著・世親という偉人の像として作られたわけなので、モデルがあったとしても、それについては一切分からない。
 木彫で彩色、そしてこのころから主流になる玉眼が使われている。玉眼は、水晶をレンズの形に磨いて裏から瞳を描き、これを木彫の裏側からはめ込んで固定したものである。いずれにせよ、運慶の表した彫刻の技術はここにして頂点に達している。さらに、この時代、この運慶の下に多くの慶派の仏師たちが名をあげ、みなが個性あふれる像を作っている。
 これまでの時代の仏像では、作者の姿は隠れてあまり見えなかったが、鎌倉時代になり、運慶、快慶、湛慶そのほか、一個の独立した芸術家としての作風がはっきりしはじめ、個が見えてくるところが面白い。

無著菩薩立像

運慶
1212年
木造・彩色・玉眼
像高:193cm
興福寺・奈良

室町時代
(1392 ~ 1572)

孫次郎 オモカゲ

 室町時代になると、仏像は形式化し、新しい表現をあまり生まず、衰退して行ったようである。前代の鎌倉時代で、仏像という狭い主題を超えた芸術表現が彫刻に現れるようになった、と書いたが、まさに、次の時代ではその方向がさらに加速する。
 能面はそんな表現の中のひとつである。この表現は、今のわれわれから見るとだいぶ不気味に見えるのだが、能の表す情緒はあるていど日本人には染み付いたものであろう。能は具体的なストーリーに沿って演じられるが、面をつけた主役(シテ)と助演(ツレ)の演技における能面の役割は、象徴的なものである。能面のさまざまなビジュアルで、人間の直接の喜怒哀楽を超えた象徴的な姿を表現するさまは、確かに高い芸術性が感じられるように思う。
 室町時代は、貴族、武士から町人に至る幅広い階級の人々が一体となって独特な文化を次々と生み出した時代であって、さまざまな日本独自なものを作り上げてゆく。それまでの、仏教を原動力とした仏像というものから、彫刻が解き放たれる過程ということを意味するのだと思う。

 庶民の歌と舞いが、能というものに発展し、それが完成したのが室町時代である。能に使われる能面には基本形があり、およそ60種からあり、その後も種類は増えているそうである。ここにあげた能面は、そのうちの女面の中の孫次郎と呼ばれる面で、若い女を表したものである。この面は、能面作家の孫次郎が若くして亡くした妻を偲び彫り上げた面と言われており、別名を「オモカゲ」とも呼ばれている。
 能面の種類は、大きくは、翁、男の老人、男、女、鬼、怨霊に分けられる。当時は多くのすぐれた能面作家がおり、それぞれ得意の分野があったそうである。その作家たちが、それぞれ得意な形式の中で、面のバリエーションを増やし、多くの能面のパターンが生まれ、その一つ一つには名前が付けられ、演目によって使い分けられている。

孫次郎

伝孫次郎
16世紀
三井記念美術館・東京